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「私はお昼にお蕎麦食べたんだけど、二人はあとで夜食に年越し蕎麦は食べる?」


 夕食の片づけをしながら万実が聞いてきた。


 秋人が返答に悩んでいると、万実が追い打ちをかけるように言った。


「近所の有名なお蕎麦屋さんのだから、美味しいわよ」

「……いただきます」

「じゃあ僕も」


 片づけを終えると、万実と秋人はまだ酔いがさめていないと言うので、秋人が風呂に入ることになった。普段は風呂に入るのが面倒でどうしようもないが、他人の家だとその面倒くさがりが発動されなかった。


 バリアフリーリフォームをされた風呂場には、いくつか手すりが設置されていて、床や壁は普通に触ると固いが、強い衝撃を与えると完全に相殺してきた。この調子だと、一見普通に見える湯舟は入浴者の入眠を感知すると自動で水を排水するタイプだろう。


 秋人は頭と体を洗って、湯船に少しだけ浸かって、すぐに風呂を出た。髪を乾かしてからリビングルームへ向かうと、命と万実がこたつで団らんしていた。


「私がお蕎麦用意してるから、命ちゃん先に入っちゃって」

「わかった、ありがとう」


 命が風呂に行ってしまうと、当然部屋には秋人と万実の二人きりになった。急に気まずさを覚えたが、万実が助け舟を出すように言った。


「秋人さんはゆっくりしててね。私は台所にいるからね」


 万実が台所へ行ってしまうと、秋人は一人になった。ほっとしたような、なんだか申し訳ないような気持ちになった。


 気分を誤魔化そうとしばらくグラスで時間をつぶしたが、結局秋人も台所へと向かった。万実はそばつゆを作っているところだった。


「あら、どうかした? お茶でも飲む?」

「お手伝いをさせてください」

「気が利くわね。じゃあ、あとで味見してもらうから少し待っててね」


 はい、と秋人は頷いた。勢い込んできたのに、すぐに手持ち無沙汰になってしまって恥ずかしくなった。人間よりも働き者の食洗器が、ごうごうと音を立てている。


「さっきは命がいる時に聞いちゃったけど、何か困ったこととかない?」

「いえ、困ったことはないです。本当に、むしろ世話になっています」


 困らせる度合いで言えば、深夜に部屋に遊びに来る程度の命は可愛い方だろう。秋人は時々動けなくなるし、身の回りのこともおろそかになる。命はそれをほとんど文句も言わずにどうにかしてくれていた。


「命さんのこと、心配されてるんですか?」

「ううん、どちらかというと、心配する必要がなさすぎて、逆に心配してたの」


 火にかかっている鍋が沸騰して、万実が切った長ねぎを入れた。火加減を弱火にする。


「命の両親が死んで、あの子は一人になった。もう成人してたけどね。でも、まだ親を失うには若いどころか、幼いと言ってもよかった」


 万実は両親と呼んだが、そのうち母親の方は万実の娘だった。万実からは努めて淡々と話しているという印象を受けた。


「お葬式の時も命は立派で、ほとんど泣かなかった。それからしばらくして、自分の始めた仕事について教えてくれた。口出しはしなかったけど心配で心配で、年末年始は毎年うちに来るようにお願いするようになったの。でも、毎年話を聞いても、命は全く生活に不安もなさそうで、仕事もしっかりこなしてるようだった。一人でも何の心配もいらないって言われてるみたいだった」


 万実はそばつゆの入った鍋の方の火を消した。


 孫の話とはいえ、他人の事情を本人のいないところで話をする万実に、秋人はひやひやさせられた。


 プライベートな話を他人が勝手に話すのは、年配の人に顕著なことだった。おそらく昔はそういった話をするのは普通だったのだろうが、今は本人が開示を許可した情報以外を勝手に話すのはタブー視されている。自分のことは自分で決める、何を知ってほしいかも自分で決める。それが今のスタンダードだ。


「私が若いころから結婚しなくても普通だって言われ始めてたから、結婚は絶対した方がいいなんて思ったこともないけど、それでも命は一人でいない方がいいと思った」

「……どうしてですか?」


 話の先を促すことにさえどきどきした。後ろめたい気持ちよりも、知りたい気持ちが勝っていた。


「いつ会っても寂しそうな顔をしてたからね」


 寂しそうな顔をしている命を、想像できなかった。出会ったころの命の顔を思い起こしたが、嵐の夜にきらきらして目で見上げてきた顔しか思い出せなかった。


 万実がお玉でそばつゆを一口分すくい、小皿に注いで秋人に渡してきた。秋人はつゆを味見した。


「美味しいです」

「よかった。……だから、秋人さんが命と一緒になってくれて本当に安心したの。命のこと、末永くよろしくね」


 万実の真剣な顔に、秋人は焦りを覚えた。末永くなど、自分には絶対に無理だ。来年にはここにも来れない。春には必ず死ぬのだから。


「あ、あの」


 ごくりと唾を飲み込んで、一度呼吸を整えた。他の誰にも伝えなくても、この人にだけは嘘を吐いてはいけないと思った。


「死ぬんです、安楽死で、春には」


 一呼吸おいて、万実は言った。


「うん、命から聞いてるの。秋人さんの希望で作品を作ろうとしてることも。言ってなくてごめんなさいね」


 秋人は激しく動揺した。やめた方がいいと諭されるか、否定されるか、秋人は一瞬のうちに様々なパターンを想定して身構えた。


「どんな形であれ、そばにいる事になるでしょう? だから、よろしくね」

「……はい」


 わけもわからないまま、気付けば返事をしていた。


「あら、命がお風呂から上がったみたい。そろそろお蕎麦も茹でましょうか」


 万実は水を注いであった大きな鍋を火にかけた。

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