トンツー・ツートンツートントン・トンツートン
永緒有機
トンツー・ツートンツートントン・トンツートン
右頬の奥歯からズキズキとした痛みが絶え間なく続いていた。どうやら劣悪な生活習慣が祟って、虫歯になってしまったらしい。
僕は永遠と続く痛みからなんとか逃れようとベッドの上でのたうち回る。多少の痛みなら見て見ぬふりをしていた僕も、今度はかりは歯医者に行こうと決心した。
しかし今は深夜一時だ。歯医者がこんな時間に空いているはずはなく、この痛みとももうしばらく共生しなければいけない。痛みは波のように強くなったり、弱まったりを繰り返していた。痛みが一時的に引いたと思い、有頂天になっているとそれを嘲笑うかのように痛みはまた口の奥で飛び跳ねる。
僕は少しでも気を紛らわせようと、洗面台に向かう。蛇口をひねり、流れ出した水を直接口に含んだ。患部と思われる場所を重点的にゆすいだ。少しでも痛みがマシになるように祈りをこめたが、水を吐き出した後も歯の痛みは変わらずそこにあった。
口から出た、ぬめり気のある液体が清らかな水よりも重く排水口にどろりと流れていく。
僕は鏡を眺めた。そこには痛みから来る睡眠不足や、ポテトチップスとコーラ以外のものをここ数日、口にしていない栄養失調に由来した、目にクマのでき疲れ果てた人間の顔があった。鼻の横にできた、赤黒くぶよぶよとしたにきびが生活習慣を見直すようにつぶやいているようだ。剃り忘れていたひげが青白い顔を一層惨めに見せた。
汚らしい顔だと思った。これがもし自分以外の顔なら僕はそれが誰であったとしても、細部を余すことなく分析し何としてでもそこに美しさを認める努力をするのに、自分自身のものだと思うと、途端に否定的になってしまう。その鏡の中の肉と皮が実際には、ゴミ溜めの袋でしかないと知っているからかもしれない。
僕は美しいものを見ても心の底から美しいと言えなくなって久しかった、僕にとっては美しいものを見て美しいと思える人は皆生きていくべきだと思われた。
僕は立っているのも辛くなってきて、足を引きずってまたベッドに戻ってくる。何もする気は起こらず、硬い寝具に身を預けてその痛みに集中した。舌先で歯の痛む箇所をなぞってみる。痛む場所には歯に穴が空いたようにボコッとした感触があった。思わずため息が出る、虫歯になった原因は幾らでも思いついた。
自分の歯を、体を気遣っていられなかった。
最後に歯を磨いたのは何日前だろう。外にも出ずひたすらに眠りの中へと逃げていた。眠っている時はめっぽう楽しくはないにせよ、その間は苦しくなかった。大学も長期休暇中の今はわざわざ布団から出てどこかに行く必要が感じられなかった。眠れない時は何時間か布団の中でSNSをスクロールして、つまらなくなったらまた眠る。
いつからこんなに苦しいのだろうかと考えてみても、明確な答えは思いつかないし何かに怒る気力もなかった。話の通じない親との軋轢だったり、付き合っていた彼女と別れたこともはるか遠くに過ぎ去っていったことのように思え、どうでも良かった。
ただ今は何もしていたくなかった。
今度は痛みを受け入れてしまえるように、痛みを意識から離していこうとした。
青空を思う。青い空には漂うように雲が浮かんでいる。
時々、存在を思い出させるように痛みが叫び声を上げる。それでも痛みとは別の場所に身を置こうとしてみると気が楽になる。痛みの波は一定の間隔で増減を繰り返し、まるで暗号信号のように、オンとオフが切り替わる。
何度も何度もその痛みの周期が繰り返され、僕はその痛みがなぜだか意味のあるもので、何かを伝えようとしているのだと思い始めた。自分の身体であるけれど、自分が意識してしていることは多くない。僕は僕の身体の操縦を担っているだけだった。
痛みだってそうだ、痛みが自分の身体の傷ついた部分を教える役割をしていると言うのは納得できるが、深夜一時にそれを言われてもどうしろというのだろうか。操縦席の僕に虫歯になったことは伝わったから、これ以上の痛みはやめてほしい。明日になれば指揮官の僕が合理的な判断を下し、歯医者に行って治療してもらうから。虫歯になってしまったからって救急車は呼べないじゃないか。子供のように駄々をこねるのはやめて欲しい。
僕は真っ暗な天井に向かって叫びたくなる。
これじゃあ、僕を苦しめているのは僕の身体じゃないか。
その切り離せない痛みに意味を見出そうとするのは論理的な流れだったのかもしれない。
両手をベッドに叩きつけその反動で咄嗟に身を起こし、僕は枕元においてあるスマホを握りしめる。ネットでモールス信号の一覧表を調べた。
その表を見つめながら、必死に繰り返される痛みの波のオンオフを感じ取る。ずきりと痛みが現れたと思うとすぐ消えて空白の期間がやってきた。そしてまたずきりと痛む。僕はなんとかその周期を言葉に訳してみるために、スマホのメモ帳にその周期を記録していく。実際に合っているかはとても曖昧で、その暗号の解読法など知らないために無理やり当てはめた部分ばかりだ。しかし破れかぶれでもその言葉を見出した時、僕は何とも言えない気持ちになった。
イ・キ・ロ
メモ帳に並ぶ意味のないはずの点と線によって浮かび上がったのはそんな三文字だった。
その希望が込められたはずの言葉を歯の痛みが語っていることに理不尽さを感じる。お前のせいで苦しんているのだと、言いたくなる。しかし、心の何処かではほっと納得する部分もあった。自分はまだ生きているから痛いのだという嫌な言葉を思い出す。僕は自分がまだ生きていることを実感した。
スマホの画面を閉じそっと置いた。相変わらず歯の痛みは続いていて、一層ひどくなっているようにも感じる。それでも騒いでいた心の内は静まってやっと眠れそうだった。
目をつぶり胸の内の渇きを少しでも潤すために僕は幸せについて考えてみる。もう長いこと何が楽しかったのかも分からなくなっていた。すぐに具体的な場面は思い浮かばないから頁をなぞるようにゆっくり一日の始まりから終わりまでを考えてみることにした。
僕は朝起きる、冷たい朝だ。いや季節は巡って暖かい眠たくなるような春の朝かもしれない。昨日は暖かい布団の中でちょっぴり怖い夢を見た。布団から渋々出て、洗面台で顔を洗う。もしくはそれより先に眠たい目をこすりながら、リビングにいる家族に挨拶をする。それから食卓の決まった席に座って朝食を食べるのだろうか。白いご飯とみそ汁という最高のタッグかもしれない、それかチンという弾みのある音の後にマーガリンやジャムが塗られたパンが並べられるのかも。サクサクと触感を感じながら、香ばしい小麦の香りが入ってくる。お気に入りのコップにつがれた熱いココアを飲むと体がじんとした。
なんてことないはずの誰かの朝だ。僕自身はまともに朝食は食べていなかったし父も早くに亡くしていて家族は母一人だから、僕のものではない。しかしそんな叶えたいとも思っていなかった理想の日常の一場面がたまらなく愛おしく感じられた。流れていく時の中で少しづつ僕は変わってゆく、どの場面も同じ私ではない。変わってしまうことが怖くもある。けれどどんな朝も表情が違うように、いつでも同じ私でいる必要はない。父が亡くなった時、すぐ立ち直ることを迫るように時間が経っていくことを恨んだ。残酷に無慈悲にも思えた時の流れが今は救いであるように思えた。
痛む右頬を今度は下にして寝てみる。目を瞑って、羊の代わりに痛む数を数えてみた。ずきり、ずきり、つん、とん、痛む感覚は段々と意識の彼方へ離れていく。気づくと麻酔のように眠りの中へと痛みは消えていた。
次の日、起きて時計を確認すると普段からは考えられないほど長く眠っていた。はっと思い出すように、意識を奥歯に向けると、痛みはもう歯医者に行かなくていいと思ってしまうほど引いていた。
トンツー・ツートンツートントン・トンツートン 永緒有機 @waninamida
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