声を禁じる町で

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

声を禁じる町で

 今日は、5月8日。

 私の誕生日だ。


 卓上には住民たちがこしらえた小さなケーキが置かれている。

 ろうそくが三本、静かに揺れていた。


 住民たちは周囲で私を見つめている。

 誰も口を動かさない。

 祝いの言葉はない。

 この町では、自分の声を出すことは法律で禁じられている。


 私は息を吸い、火を吹き消した。

 その瞬間、部屋がすこし明るくなったように見えた。


 胸の奥がふっと跳ね、思わず声が漏れた。


「……わ」


 ほんの少しの音だったのに、近くにいた住民がそっと肩に触れ、首を横に振った。


 声を出してしまったことが申し訳なくて、私はうなずいた。


 静けさだけが広がり、煙の細い線がゆっくり天井へ昇っていった。


 ***


 翌朝、町を歩く。

 挨拶は軽い手の動きで交わされる。

 声は使われない。

 それがこの町の“ふつう”だった。


 外の世界では声を使うらしい、そんな噂を聞いたことがある。


 市場では、店主が野菜の輪郭を空中に描いて「今日のはいい」と示す。

 老婦人は袋の取っ手を持ち上げて“重いから気をつけて”と手で伝える。


 声がなくても、みんな驚くほど豊かにやりとりしている。

 けれど、どこかに薄い距離があった。


 そんな中で、私だけが、ときどき音を出してしまう。


 そのことがずっと胸に引っかかっていた。


 ***


 昼下がり、広場で子どもたちが折り紙で遊んでいた。

 風に乗って折り紙が舞い上がり、私は思わず笑ってしまった。


「……あは——」


 その瞬間、空気がピンと張った。


 大人たちがこちらへ歩いてくる。

 声は一切使わないまま、両手を大きく広げ、胸の前で拳を固く閉じ、空気を押し返す仕草をした。


 それはこの町で最も強い“止めろ”の合図だった。


 私は後ずさりした。

 胸が凍りついたように冷たくなる。


 ただ笑っただけなのに。

 ただ声が出てしまっただけなのに。


 子どもがこちらへ寄ろうとした瞬間、母親がそっと抱き寄せた。

 腕の震えが見えた。


 私はその光景に、言えない何かを押しつけられた気がした。


 どうして私は、こんなにも強く止められるのだろう。

 どうして“声を出してはいけない”なんて決まりがあるのだろう。


 ずっと我慢してきた。

 みんなが守るこの決まりに、従わなければいけないと思っていた。


 でも今日は、喉につっかかるように落ちなかった。


 理由が知りたかった。


 気づけば私は、町外れの小さな図書館に向かっていた。


 ***


 図書館の扉を開けると、ひんやりとした空気がまとわりついた。


 中は無人だった。

 入口の机に置かれた椅子だけが、つい先ほどまで誰かが座っていたように少しずれていた。


 私は棚の奥へ進み、“町の基本規則”と書かれた古い冊子を手に取った。


 ページをめくる。

 ―――――

 自声の使用を禁ずる

 施行日:20XX年5月8日

 ―――――

 息が止まった。


 5月8日。


 私の誕生日。

 拾われた日。


 胸の奥で、何かがゆっくり形を変え始めた。


 ***


 さらに棚から古い医療資料を取り出す。

 喉の断面図が描かれ、その一部にぽっかりとした空白があった。


『住民の大多数において、声帯に相当する器官は生来欠損している。』


 声帯が——ない。


 次の行にはこうあった。


『声を持つ子が確認された例は過去に一度だけ——記録確認中』


 胸の奥が静かに沈んだ。


 私は何も言わない。

 言葉にしなかった。

 けれど、喉の奥が熱くなる感覚だけが確かな答えを示していた。


 資料を閉じ、私は図書館を出た。


 夕方の光が、どこか柔らかく揺れていた。


 ***


 町へ戻ると、住民たちが私を見た。


 その視線はいつもと違う。

 一瞬だけ、深く、長く、そこに留まった。


 パン屋の店主が手をひらひらと上げかけ、途中で動きを止めた。

 胸の前で両手をそっと閉じる。


 その仕草に、隠しきれなかった何かがにじんでいた。


 私は喉にそっと触れた。


 住民たちは、私を囲むためではなく、守るために沈黙してきたのだ。


 胸の奥が痛くなった。


 私は息を吸った。

 生まれて初めて、自分の意思で。


 住民たちが振り返る。

 誰も近づかない。

 誰も止めない。

 ただ、静かに見守っていた。


 私は口を開いた。


 声が、町に落ちた。

 その言葉は、誰にも聞き取れなかった。


 でも、確かに発した。


 その瞬間、町全体の静けさがゆっくり揺れ、光がやわらかく広がった。


 夕暮れの光だけが、その声のかたちを、ゆっくりと抱きしめていた。

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