1・きみとおれのいつもの日常


 玄関の扉が開く音がして、わたしは夕飯を作る手を一旦止める。

 菜箸を置き、素早く手を洗う。


「ただいま、宵子よいこ


 夫の力のない声が聞こえてキッチンから出ていくと、彼はぼんやりとした様子で玄関に立ち尽くしていた。


「お帰りなさい、直央なおかさん」


 そう言って微笑みかけると直央さんはほんの少しだけ表情を緩めたが、直ぐに暗い顔になると黙って俯いてしまった。


「疲れているようですね、コートと鞄をお持ちしますよ」


 荷物を受け取りながら夫の表情を確認すると、彼の瞳は潤んでいて今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


「どうしたんですか? 大学で何か嫌なことでもあったんですか?」


 わたしの問いかけに直央さんはこりくと小さく頷くと、懸命に声を絞り出す。


「……今日の講義、大勢の学生の前で恥をかいたんだ。ディープラーニングの基礎コードの解説中に、単純な変数名を間違えた。すぐに直したけど、笑い声が聞こえた気がして」


 ディープラーニングの基礎コードも変数名もわたしには何のことだがさっぱり分からない。だが自己肯定感の低い夫はどんな小さなミスでも大袈裟にとらえてしまう性格であることは知っている。


​「……おれは人工知能AIという完璧な論理を扱う世界の人間だ。そんな単純なミスをするなんて、論理的に破綻している。どうせおれなんて准教授の器じゃないんだ! こんなミス、普通はしない! どうせおれなんか来年の評価で──」


「それ以上もう言わないで下さい」


 直央さんの言葉を遮って、わたしは彼の震える体を抱きしめる。


「直央さん、そんなに自分を卑下しないで下さい。直央さんは誰よりも立派で、完璧な人ですよ」


 彼のはっと息をのむ音が聞こえる。


「大丈夫、大丈夫ですから。誰も直央さんを笑っていません、そんな怖いことを考えるのはやめて下さい」


 ゆっくりと背中擦ってやると、彼の震えが徐々におさまっていく。

 そして直央さんは私の背中に腕を回してきた。


「おれは立派でも完璧でもない……っ! そんなことは誰よりもきみが一番よく知ってるだろう??」


 ぎゅっと力強く抱きしめられて少し痛いが、わたしは黙って夫の言葉を聞く。


​「……おれなんかを全肯定してくれるきみの方が完璧な人間だ。完璧なきみに、こんなにもダメで情けないおれは釣り合わないよ……」


 遂に直央さんの瞳から大粒の涙がこぼれ、頬を伝っていく。きらきらと光るそれは宝石みたいに見えた。


​「でも、でもおれは……きみの傍でないと生きていけないんだ……! どうかお願いだ、こんなにも情けなくて、頼りないおれを一人にしないで。おれを捨てないで、宵子……っ!」


 わたしの胸元に顔を埋めて泣く直央さんなとても年上には見えない。まるで小さな子どもにするようにわたしは彼の頭を撫でる。


「捨てるだなんてありえないです。わたしはずっと直央さんと一緒ですから。……だから、ね。笑って下さい」


 すると彼は涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を上げ、恥ずかしそうに微笑した。

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