春を夢見る者たちは

旗尾 鉄

第1話 守原亮介

 真夜中の静かな部屋には、ノートにシャープペンシルを走らせる音と、ファンヒーターの音だけが響いている。

 机の上、左手側には志望大学の赤本、右手側には大学ノート。僕は一問一問の解答を、刻みつけるようにノートに書きこんでいく。

 この前、難問を二時間かけてやっと解けましたと言ったら、予備校の講師に笑われた。僕の志望校レベルだと、考えてはいけないのだという。考えることに時間を費やしたら、その段階で既に負けている。数学は解法パターンを徹底的に覚え込み、どのパターンで解くのかを素早く判断して、流れ作業的に解答していくんだ。そうじゃないと時間が足りなくなるよ。まあ、頑張って。そう言われた。

 バカにされたようで悔しかったけど、一浪して後がない僕は、そんなこと言ってられない。


 順調に動いていた右手が、ぴたりと止まった。

 この公式を使えばいけると思っていたのに、数字が合わない。数式が空回りして、同じところを堂々巡りしている。いくら計算しても、正解に近づけていないのが経験的にわかる。

 僕は諦めて、シャープペンシルをノートの上に投げ出した。一本足の回転椅子の上で胡坐あぐらをかいて、背もたれに寄りかかる。思わず出たため息の音が、思った以上に大きかった。


 コンコンとノックの音がした。軽く勢いをつけて、胡坐のままドアのほうへと椅子を回転させる。どうぞという前にドアが開いた。

「夜食、持ってきた」

 入ってきたのは父だった。海苔を巻いた三角おにぎりの載った皿を、部屋の真ん中に置いてあるローテーブルに置くと、そのままカーペットの上に座った。いつもは二つのおにぎりが、今夜は三つある。

「ありがとう」

 僕も椅子から降りて、父と向かい合う形で座った。父は嬉しそうにおにぎりを一つ手に取る。

「俺も食べたいって言ったら、母さんに怒られた。あなたは受験勉強してないでしょ、って」

 一つ多いのは、そういう意味だったらしい。父は笑いながら、おにぎりを頬張った。器用に食べながら話す。

「勉強、どうだ?」

「うん、まあまあ」

 僕は答えて、おにぎりにかぶりついた。海苔の香りが口の中いっぱいに広がる。僕の好きな濃いめの塩加減の、母のおにぎりだ。

「そうか。がんばれよ。でも、あまり無理しないようにな。でも、がんばれ」

「うん」

 夜食にかこつけて、父は「無理しないように」が言いたかったのだろう。最後の一口を口の中に収めると、立ち上がった。

「悪いけど、先に休むな。おまえもちゃんと睡眠とれよ」

「もう少し問題集やったら、休むよ」

「うん。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」


 階段を降りていく父の足音が聞こえなくなった。

 僕は窓に近づいて、モスグリーンのカーテンを少しずらし、隙間からその外にある夜を眺めた。

 時刻は午前一時。閑静な住宅地に建つ家々は明かりが消え、眠りについている。街灯の白っぽい光だけが、ぽつぽつと申し訳程度に街路を照らしていた。

 こうやって浪人させてもらえる僕は、恵まれていると思う。

 去年、僕は第一志望の大学に合格できなかった。滑り止めの第二志望には合格したから、切り替えてそちらに行く選択肢もあった。でも僕は第一志望をどうしても諦めきれず、浪人させてほしいと両親に話した。二人とも心配そうだったけど、僕の希望を聞きいれてくれた。自分の中で、次はないと決めている。今年がラストチャンスだ。

 模試の結果では、合否ギリギリの成績が続いている。予備校の先生にも、ワンランク落とせば安全だと言われてはいる。でもそれじゃあ、浪人した意味がない。

 精一杯の努力をしている。それは自信をもって言える。

 両親には感謝している。でも……僕が志望校にこだわる本当の理由を知ったら、父も母もどう思うだろうか。進学という人生の大きな分岐点にあたって、そんな浮ついた気持ちだったとかと感じて、落胆するだろうか。


 窓から離れ、ベッドに寝転んで背中を伸ばす。そして、『こだわる理由』に、想いをはせた。

 園辺そのべ有紀子ゆきこ先輩。高校で、一学年上の先輩だった。先輩と同じ大学に行きたい。それが、僕が努力を続ける理由だった。


 入試前の猛勉強とラッキーが重なって合格し、普段の学力以上に背伸びして入学した高校に、僕は今一つ馴染めなかった。

 学業最優先の進学校。どんなに頑張っても成績は振るわず、何事においても周囲から置いていかれている気がした。

 いじめを受けたとか、そういうことじゃない。クラスメートたちのほとんどは、自分の成績と三年後の大学受験のことが最大の関心事で、他人にかまうこともないし、隣の席のやつが何をしていようが、あまり興味がない。僕にとって、その環境はかなりのカルチャーショックだった。

 伸びない成績、どこか冷え冷えとしたクラスの雰囲気、希薄な人間関係、それらから逃げるように、昼休みも放課後も、僕の足は図書室に向かうことが多くなった。図書室で好きな本を読んでいるときだけは、張り詰めたような日常を忘れられた。


 二学期が始まってすぐの頃だった。

 ある日の放課後、僕はいつものように図書室に向かった。十巻まである推理小説シリーズにはまっていたのだ。第三巻を返却して四巻を借りるつもりだったのだけど、その四巻だけがすぽっと抜け落ちていた。

 しょうがない、また明日来てみようと思い、三巻を棚に戻したときだった。

「もしかして、これ?」

 声がしたほうを振り向くと、僕の横に女生徒が立っていた。おかっぱ頭に銀縁の丸い眼鏡をかけた、ちょっと華奢な感じの女子だ。僕が探していた第四巻を手にしている。

「あ……はい、それ」

 僕の間抜けな返事に、彼女は本を差し出した。僕が受け取ると、彼女は書棚から第五巻を選びとり、にこりと笑った。

「同じシリーズ読んでる人がいると思わなかった。私のほうが一巻進んでるね」

 これが、園辺先輩との出会いだった。


 それから僕らは、図書室でよく顔を合わせるようになった。

 正確には、相手が図書室にいることをお互いに認識し合えるようになった、というほうが正しいはずだ。たぶん図書室の利用頻度が増えたわけじゃない。その他大勢ではない、見知った相手が図書室という同じ空間の中に存在することを、意識できるようになったのだ。

 顔を合わせて、ちょっと頭を下げたり微笑んだり。最初はその程度だった。そのうち、いつのまにか向かいの席に座って、本を読むようになった。隣ではなく、向かい。それが僕たちの距離感だ。図書室の前の廊下で別れていたのが、校門前までになった。

 その短い時間に、僕と先輩は少しずつ話をした。話題は好きな本の話や、日常のちょっとしたこと。プライベートには踏み込まない。

 推理小説が好きなのは共通していた。先輩は海外文学も好きだと言った。おすすめは『ジェーン・エア』と『異邦人』、それに『グレート・ギャツビー』だという。あんまり女子高生っぽくないよね、そう言って笑った先輩は、たった一歳差とは思えないほど大人びた表情だった。僕は『異邦人』は読んだけど、あとの二作は未だに読めていない。

 僕と先輩の関係は、それがすべてだった。携帯番号も、メールアドレスも交換していない。


 先輩の卒業の日、僕は思いきって花束を渡した。サイズの相場がわからなくて、周囲に比べてちょっと小さすぎる花束になってしまったけど、先輩は嬉しそうに受け取ってくれた。気の利いた言葉は思い浮かばなくて、おめでとうございます、その一言しか言えなかった。同じ大学に行きます、その一言はなぜか言えなかった。その日以来、先輩は僕の日常から消えたままだ。

 園辺先輩に対する僕の感情に、どんな名前を付けたらいいだろう。これまでに何度か考えた問いだ。少なくとも、恋ではない。方向性が違っている。友情、これも違う。深さが違う気がする。一番近いのは『姉』のように思う。何度考えても、答えはそこに行きつくのだ。血縁でもなんでもないのでおかしな話だけど、そう思う。僕はただ、先輩の近くにいたかった。存在を、近くに感じていたかった。何気なく、ごく自然体のままで。そしてそれを実現したくて、僕は浪人する道を選んだのだ。


 僕はベッドから起き上がった。

 ファンヒーターを切る。唸っていたヒーターの消臭機能の音が消えると、部屋が静寂に包まれた。

 ふたたび窓際へ行き、今度はカーテンと窓を開け放ち、師走の冷たい夜風を招き入れた。顔を撫でる、冷たい空気が気持ちいい。睡眠不足で腫れぼったい目が、すっきりと目覚めていく。

 春を夢見る者は、その前にある冬に立ち向かい、乗り切らないといけない。

 そしてそれは、僕だけじゃないはずだ。


 窓を閉め、ヒーターを付けなおす。

 夜気を受けて心と脳が醒めたのを感じながら、僕はまた、机に向かった。

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