ペンドレイン残影録
DVF
序章
序章 第1話 霧の中の王女
朝霧は残る。
訓練場の地面はまだ湿っている。砕石は何度も踏みしめられ、泥が跳ねて斑点となる。
空気には鉄と汗の匂いが混じっている。冷たい。鞘に収めた刃のようだ。
夜はまだ明けきらぬ。王都は静まり返っている。だがここだけは違う。
ざわめき。囁き。熱。
昨夜、どこからか落ちた噂の火種が、乾いた草に燃え移る。
――「ペンドレイン王女、訓練場に姿を現すらしい。」
そのひとことは、瞬く間に営内を駆け巡る。
「ペンドレイン王女って……まさか、エリサンヌ殿下?」
「“バラの花嫁”だぞ。貴族子弟たちの夢そのものだ。」
「見回りか? あるいは、近衛の抜擢か……?」
空が白み始めるより早く――
非番の隊員たちは一糸乱れぬ軍装で整列し、場の外に列を成す。
王家の光、その一端でも目に焼きつけるために。
訓練場の中央。
二つの影が、無言のまま対峙している。
一人は背が高く、構えに隙がない。
もう一人は細身で小柄ながら、凛と立つ。
先に動くのは後者だ。
その手に握られた軟鞭が、ふいに空を裂く。
風を切る音とともに、見えない綱が編まれ、目にも止まらぬ速さで相手を包み込む。
場の外で、ざわめきが再び走る。
「……あれが、王女?」
「ペンドレイン家、皆金髪じゃ……」
「ヨハノール殿下でさえ、公の場には――」
「馬鹿言え。どう見ても、あれは女の子だろ。」
小柄な少女は、肩までの栗色の髪をひとつに束ね、鋭い眼差しが獲物を射貫き、一切の容赦がない。
横薙ぎの一撃を身を沈めて避ける。手首が返る。
鞭は蛇のように足元を絡め取り、一気に引き倒す。
相手が地に倒れ、土埃が舞う。
見物席の中央に、一人の男が静かに腰掛けている。
漆黒の礼装、銀灰のマント、白く混じる鬢髪。
老いの兆しはあるが、姿勢は微動もせず、目はすべてを見透かすように静かだ。
リカルドゥス・ペンドレイン。
王国宰相にして、病床に伏す現王――ウィリアム・ペンドレインの実弟。
今や政務、軍務、すべての手綱は彼のもとにある。
近衛軍司令官アンドレインが傍らに控える。
近衛軍は王室直属の精鋭である。選抜で最も重んじられるのは忠誠と冷静さ。構成は貴族子弟が大半を占め、家族の推薦と二度の試験をくぐり抜けねばならない。毎年、およそ七割がふるい落とされる。
通過した者でさえ、一年間の実地訓練が義務づけられている。原則として、期間を満たさない者は戦闘部隊に編入されない。武器の携行や単独哨戒も禁じられている。
「殿下。近衛軍への編入は本気でございますか?」
アンドレインが眉を寄せ、低く問う。
「若いうちに鍛えておくのは悪くあるまい。」
リカルドゥスは平然と笑い。
「王太子殿下も、かつて軍に身を置かれた。」
「儀仗ならともかく、戦場は早すぎます」
「殿下ご自身のご意向だ。われわれは取り計らう」
リカルドゥスは簡潔に応じる。
言葉を交わす間に、鞭が弧を描き、相手はうめき声を上げて地面に倒れ込む。
「殿下を甘く見ないほうがいい。」
リカルドゥスは薄く笑う。
訓練場では、少女はすでに三人を退けている。呼吸を整え、場内を見渡す。
「次は?」
声量は抑えられているが、周囲は静まり返る。
少女の名はマーレイン・ペンドレイン。十六歳。王室の第三子だが、王統の外に生まれた者だ。彼女の名が王位継承に記されることはない。
その様子を見とめ、リカルドゥスは思い出したように言う。
「あの新入りはどうしている。殿下と手合わせさせろ」
「只今巡察中。夕刻には戻る予定です。手配いたします」
アンドレインは一瞬ためらい、そう答える。
満足げな微笑みがリカルドゥスの口元に浮かぶ。
「剣は、試してこそ分かる。」
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