風の残響ー新しき風を纏う者たちー
著路
第1話
あらすじ
かつて「アビュッソス」と呼ばれた深淵での戦いから三週間。
王都グリーンパレスでは、王ジェイドとごく限られた高官たちが密かに集い、黒い封蝋の文書を前に新たな秩序の計画を始動させていた。再び“影”が人知れず胎動を始める。
一方、王宮の監査室に新たな風が吹き込む。
ブリジット=エルフリーデ──明るく人懐っこいが、その裏に鋭い観察眼を隠し持つ新人監査官。
彼女に与えられた極秘任務は、「アビュッソスの生還者サフィア・ルフェリエルの監視」。
初対面の食事の席で交わされるのは友誼か、あるいは試すための駆け引きか。エリートの研ぎ澄まされた才覚と、野生のままに煌めく天才が、静かに火花を散らす。
その頃、エレネアは単独で水の都ユトゥルナへと向かっていた。
彼女の目的は、赤魔導士の残した足跡を辿り、煉の月印とルシアナの真実を探ること。
そこで出会ったのは、兄を探すために奔走する若き冒険者カイエル。衝突しながらも共に動き始めた二人の前に、アーパス信仰の異変と、帝国の影──“グレイ・ヴァイパー”の名がちらつく。
王都と水都、二つの舞台で動き出す新たな歯車。
それは静寂の中で鼓動を響かせ、やがて世界を揺らす風となる。
深淵を越えた者たちに、新しき風は何をもたらすのか──。
プロローグ:動き出す歯車
王都グリーンパレス。
陽の光が差し込む玉座の間とは別に、陽の差さぬ地下書庫に併設された密室に、王ジェイドと数名の高官のみが静かに佇んでいた。
「……やはり、歴史とは″選ばれし者の物語″ではなく、選び続ける者の記録なのだな」静かに、そして重々しく王は言葉を並べた。
長机の中央には、ひとつの文書が置かれている。封蝋には、双剣を掲げた王国の紋章。そして、その端に王自らの筆致で刻まれた印。
「……本当に、この段階で進めてしまわれるのですね、陛下」
厳かな声を発したのは、宰政院次席――ライン・ヴァルフ。忠誠よりも合理を重んじる男だが、その口調にはわずかに迷いがあった。
「進めるのではない。……“始まってしまった”のだ」
王ジェイドは静かに応じる。その眼差しは文書を通して、何か遠くを見据えているかのようだった。
大衛院院長が、わずかに眉をひそめる。
王は静かに頷くと、黒い封蝋の書類を差し出した。
書類の表には、かつての災厄に関わる者の名が記されている。
「真実を知る者は、限られていなければならない。時が来れば、全てを明かす。それまでは……粛々と動く」
その場にいた者は、誰一人として、軽々に言葉を返さなかった。
「これは……“封印”とは異なる、新たな秩序の胎動。王都の“外”でも、いずれ影響は避けられまい」
魔導局局長が口を開く。「ならば、学院との連携が必要になりますな」
「学院は中立機関だ。だが……ラグナ=アーヴィスが何を知っているかは、見極める必要がある」
王の言葉に、場が静まり返る。
──この密会が、王都に忍び寄る第二の影の、始まりとなることを、この時誰も知らなかった。
第一章「監査室の新星」
午前九時、王都グリーンパレス外縁部・行政区
書類を三枚小脇に抱え、少女は石畳の通路を疾走していた。
ツインテールが左右に大きく跳ねるたび、ピンク色のリボンがきらきらと舞う。通りすがりの商人がよけ、衛兵が慌てて道を譲る。
「やばいやばいやばい!先に届けろって言われたの、こっちの通達書だったっけ!?えーっと、まって、ちがう?あ、でも優先印ついてたし……え、でもでも!」
声に出しながら、走る。
軽やかで、速い。通行人を巧みに避けながらも、一切減速する気配はない。
「もー!もう一人の私がいてくれればいいのにっ!」
ついでに地図も広げようとして、風に煽られ、顔面にベチンと貼りつく。
「ぬわぁっ!?こんなときに紙の地図とか、時代遅れもいいとこでしょーがあぁぁ!」
ひとりで大騒ぎしながらも、彼女の足はまったく止まらない。
むしろ少し加速した。
【王宮・外政局 局長室】
重厚な扉の前で、ブリジットは一度だけ深呼吸をした。
心臓の鼓動が、ほんの少しだけ速い。外では明るく元気に振る舞っていても、さすがに局長クラスとの初対面は緊張する。相手はあのマルセロ=グレイン――外政局のトップにして、王の側近とも噂される人物だ。
(……大丈夫、大丈夫。書類は整ってるし、挨拶の言葉も三パターンくらい用意してきたし、笑顔も練習した!うん、いける!)
意を決してノックする。
「どうぞ」と低く落ち着いた声が返ってきた。
扉を開けた瞬間、外の空気とはまるで異なる、冷ややかで静謐な空気に包まれる。高い書棚が壁一面を覆い、机の上には書類が整然と並べられていた。高い天井と深い色合いの調度品が、部屋全体に重みを与えている。そして、その中心に座る男――黒銀の髪をオールバックに整えた精悍な顔立ちの人物が、視線だけでこちらを捉えていた。
「……失礼いたします。本日付で監査室第三課に配属となりました、ブリジット=エルフリーデです。室長の命により、先だって、外政局局長殿にご挨拶に参りました」
軽く背筋を伸ばし、深く礼を取る。
声が少しだけ上ずった。だが、堂々と前を見据える。
マルセロは表情ひとつ動かさず、しばし彼女を観察するように沈黙した。
その無言が、逆に圧をかけてくる。
マルセロはその姿を、書類越しにちらと見た。だが、顔色一つ変えない。
(共通試験二位、監査室試験一位。――まったく、信じ難い数字だ)
内心、そう呟く。
(歴代でこれほどの成績を叩き出した者は、ほとんどいない。……あの“論理展開”の設問、模範解答よりさらに精緻な構造で返すとは)
だが、表に出す気はなかった。
彼は書類を伏せ、淡々と口を開く。
「……よく来た、ブリジット=エルフリーデ。時間に関しては、最低限の遵守ができるようだな。それだけで十分だ」
ようやく発せられた声は低く、重みがあった。言葉の端々に、こちらを試す意図が感じられる。
「君には、ある任務を託す。……内容は、直属の上司には伝える必要はない。少なくとも現段階では、ね」
「……は、はい……!」
意図を読み切れないまま、背筋が自然と伸びる。
レオン室長補佐にも?という疑問は口にはせず、ただ「はい」と応じるしかなかった。
マルセロは立ち上がり、書棚の奥から一通の封筒を取り出す。
黒い封蝋が施されたそれを、静かにブリジットの前に置く。
「これは君に直接届けるよう、宰政院より下されたものだ」
「……えっ、宰政院直々に……?」
「詳細は語るな。それが第一命令だ。中身を開くのも、外に出てからにしろ」
ブリジットは息をのんで、封書を両手で受け取る。
その姿を、マルセロは冷静に見つめていた。
(この少女に、どこまで任せるべきか――)
無言のまま椅子に腰を下ろし、再び書類に目を落とす。
ブリジットは、一
「……了解しました」
言い切ったその瞬間、ブリジットの中で何かが切り替わった。
軽やかな足取りでここまで来た少女は、今、確かに「任務を帯びた者」となったのだった。
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