花魁道中~若竹~

桶谷 雨恭

竹伐る

妹が死んだ。

可愛い妹だった。生まれてすぐに生きる道を決められたあの子は、そんなことを感じさせないほど無邪気で、それでいて稽古に手を抜くことなく一生懸命打ち込む努力家でもあった。

流行り病にかかったあの子は、苦しそうな呼吸の中で必死に私の手を握っていた。父は部屋に寄り付かず、母も汚らわしいとばかりにあの子を離れに移動させろとわめいていた。

そんな中、ついにあの子は死んでしまった。

最期はようやく苦しみから解放されることを悟ったのか、焦点の合わぬ瞳で宙に向かって微笑み、逝ってしまった。

父は最初から準備をしていたのだろう。速やかにあの子の葬儀を執り行った。

葬儀が終わり、あの子が死んでしまった事実を受け入れることができない私は、米の一つを飲み込むのにも手間取るほど弱り切ってしまい、女中たちを困らせている。頭ではわかっているのだ。

しかし、そこに気持ちの整理はいまだつかず布団からぼうと庭を眺めるだけの生活を送る。喪に服している間は、家から出ないのが慣例だ。つまり、あの鬼人のような父のお叱りを受ける心配をする必要はない。今日もあの子の手を握っていた右手を胸元に添えて、焦点の合わぬ視線を庭に捨てていた。


「お嬢様。」


緑と灰色しかない視界に黒が入りこんだ。どうやら女中頭が部屋の前にいるようで、襖の向こうに動くものがあった。

もう食事の刻だろうか。軋む関節をゆっくりと動かしながら体を持ち上げる。


「お嬢様。」

「起きてる。入って良い。」

「失礼いたします。」


静かに入ってくると、神妙な面持ちで姿勢を正した。

いつものようにやや白髪の混ざる髪を一本の乱れもなく整えているが、その表情には疲れを滲ませており皺が増えたように見える。


「旦那様がお呼びです。」

「父上が?」

「はい。」

「喪に服している期間は大丈夫と踏んでいたけれど、ついに怒られるのかしら?

 内容は聞いてる?」

「いえ、旦那様からは呼んでくるようにとしか。」


眉一つ動かさないが、彼女のよく通る声には緊張の色が見えた。そもそも、家中の一切を取り仕切る彼女が内容を知らないわけがない。こんな時はたいてい良くない話だ。

女中頭に促されて、支度を済ませる。部屋の外に足を踏み出すと、長く感じていなかった体の芯から凍えるような風に身をすくませながら父の部屋に向かう。

部屋に入ると、上座に座る父上は相変わらず眉間に皺を寄せ不機嫌そうな顔を隠しもせずに私を見下している。父上の横にすまし顔で座る母上のからは何も読み取れない。


(母上が何か考えていたことなんてないけど)


父上の前に座り、その言葉を待つ。


「ようやく部屋から出てきたな。」

「喪に服しておりましたので。」

「ふん。まぁよいわ。お前を呼んだのは我が家の今後についてだ。」


私の生活態度は興味がないとばかりに吹き飛ばし、さっそく本題に入るようだ。


「あれは大奥に嫁ぎ、将軍の子を産むことで家の地位を頑固たるものにするはずだった。しかし、死んでしまったものは仕方がない。そこで、お前に代わりに嫁いでもらう。」

「何をおっしゃっているのですか?将軍は私より五つも歳が下です。それに私にはすでに許嫁がいるじゃないですか。」

「あぁ、あの家はうちよりも家格が低い。そもそも父の代に向こうから懇願してきたものだ。こちらの一方的な破棄になってしまうが、そのようなかすり傷お前が将軍と子を儲ければお釣りがくる。」


(この男は何を言っているのだろうか)


あの男にとって私たち姉妹は出世の道具だ。これは昔から知っていたことで、私もあの子も自分の将来を自分で選ぶという贅沢は一生できないことを理解してじっと我慢してきた。


(だが、この仕打ちはなんだ…。)


「私はあの子と違い、大奥に上がるための教育を受けておりません。」

「そうだな。だから一流の者をお前に付ける。半年ほどで形にしろ。」

「恐れながら、あちらの家は納得されているのでしょうか?」

「昨日、文を出したところ承諾の返事が返ってきた。問題ない。どうした?何を心配している?よもや、家長である私の決定に不満でもあるのか?」

「いえ、そんなことは決して。承知いたしました。」


これはすでに決定事項であり、私ごときに覆すことができるような話ではないことは分かっていた。少しでも何か逃げ道はないかと考えたが、無駄骨だったようだ。

父上が退室したことを確認し、急いで部屋から出ると周りの女中たちが何か言っているようだが耳には入らない。

そのまま玄関にあった草履を乱雑にはき外へ駆け出した。


質素な門の前で手をついて息を整える。声をかけると顔なじみの女中が顔を出してくれ、中へ通しくれた。勝手知ったる道を脇目も振らずにひたすら走る。辿り着いた庭には婚約者が木刀を振っていた。

彼はこちらに気が付きその木刀をそっとおろす。首からかけていた手拭いで汗を拭きながら口角を無理やり上げたような作り笑いを浮かべて、近づいてくる。


「やぁ。久しぶりだね。」

「ええ。久しぶり。」


次の言葉が出ず、お互い口を金魚のように開け閉めし視線をさ迷わせた。やがて彼が口を開く。


「女子が一人、婚約者でもない家に出向くのはよくないよ。」

「私は婚約破棄をした覚えはないわ。あれは勝手に父上がしたことで、あなたこそなんで承諾なんてしたのよ。」

「我が家が君の家から来た婚約破棄を断れると思うか?できるわけないだろ。家格が違いすぎる。」

「それでも、私はあなたと添い遂げたかった…。」

「ごめん。でも俺は、この家を守らなければいけない。俺の気持ちだけで勝手なことはできない。」

「そうよね。私たちは何も選択できない。ええ、わかっている。そんなことはわかってる。」


黙って彼は私から視線を逸らし、足元に移した。気まずくなった時に出る彼の癖だ。


「君のことを好いていたよ。愛していた。君とのこれからを思い描くほど…。」

「なによそれ…。」


もう一度『ごめん』と謝る彼にたまらず涙が溢れる。呼吸が荒くなり、立っていられなくなるほどの眩暈が襲う。彼は私に触れようとしたところで手を引くと屋敷に向かって何かを叫んでいる。


靄のかかったような焦点が合い、見えてきたのはここ数日散々みた庭で、傍らにはいつも食事を持ってきてくれる女中が桶の水を入れ替えていた。


「お嬢様。気が付かれたのですね。旦那様が迎えに行けと言ったときは何事かと思いました。」


彼女の話を聞くに、どうやら父上には私の行動がわかっていたようですでに手をまわしていたそうだ。彼に会えたのは父上の慈悲だと気が付き、吐き気がこみあげてくる。しかし口から出るのは荒くなった息だけ。女中にもう少し休むようにと布団に戻されてしまう。


(明日からどうしよう)


先ほど医者と一緒に様子を見に来た女中頭は、一晩休めば問題ないという医者の言葉を聞くと、満足したように頷くと稽古を明日からでも始めると伝えてきた。

そんな女中頭の話が頭に入らないほど、彼の『好いていた。』という言葉が反復する。

(わかってる。わかってるけど、それでも私は…。)


目尻から零れ落ちたそのしずくが自分の皮膚から離れたのを感じ、もう何も考えないようにと目を閉じた。


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