二章 東の国の香炉 後編
いつも通りの、でもいつもと少し違う朝。
カレンダーの赤丸は今日の日付を彩っている。
パルファが帰ってくる。お土産と、おそらく相談の答えと共に。
九時を少し過ぎた頃、客のいない静かな店内にガランとドアベルの音が鳴り響いた。同時に弾むような杖の音と九月の乾いた風が店の外から舞い込んでくる。
「やあやあ、店主さん。ご無沙汰だね、ご機嫌はいかがかな?」
背まで届く鮮やかな金の三つ編みを軽やかに揺らしながら、パルファは笑顔でやってきた。
「……ぼちぼちってとこだな」
鼈甲のように生き生きと光る瞳でぐるりと店内を眺め、ドルックに視線を戻すとパルファは元気そうで何よりだと笑った。
店の奥の商談スペースに慣れた様子で座ったパルファは、リュックから木箱を取り出した。
「手紙の返信ありがとう。これが、お土産だよ」
少しいたずらっぽく、ひょいと口角を上げてこちらを見ている。
「……寄木細工の箱」
訝しげな顔をして箱を眺める。
頼んだものは張り子の民芸品。何か条件を見逃して物が変わった……?いや、ならそもそも買ってこないだろう。
「ドルックの条件推理は問題なかったから、ちゃーんと依頼通りの物を買ってきたよ!」
「まあ、とりあえずありがとう」
「ふふふ。その『全然飲み込めてません』って顔しながらお礼言ってるのめちゃくちゃ面白い」
「そんなもの面白がるな」
ひとまず引き出しの中を見てみるか……と取っ手を触ったドルックは、それがちっとも動かないので眉をひそめた。
何かが引っかかっている。いや、違う。
東の国の寄木細工に、特殊な手順を踏むと細工が開くカラクリ箱があると、幼い頃に親が話をしていたような記憶がある。
箱の側面に微かな切れ目を見つけ、指を滑らせる。カチリ。音がして上部の紋様が浮き上がる。そこを押すと反動で棒が跳ね上がってきた。
かんぬきが外れ、引き出しが開いた。
中には張り子で作られた動物の面が入っていた。
「狐面……! 丁寧で滑らかな表面と朱色の装飾。いい仕事をする職人だな。東の国では狐は確か豊穣の神の遣いだったか」
「そうそう。まあこれは催事用じゃなくてあくまでも真似て作られた民芸品だから、そんなご利益はないけどね」
パルファは軽く肩をすくめてみせた。
「あと、素材が紙と竹だからそんなに強度は高くないけど、暗い所でこのお面を付ければ夜目が効く魔法が仕込まれてるんだ」
ドルックは誘われるように、狐面を持ち上げ顔に寄せる。
古い紙と線香の匂いが鼻を掠める。紙の内側に閉じ込められた空気が、少し冷たい。その温度が触れた瞬間、耳の奥で小さく鈴の音が鳴ったような気がした。
セピアのフィルターに沈む視界の中で、音と匂いが遠ざかる。光が粒になって漂う。目の前に座るパルファの髪の一本一本がチカチカと光っている。まるで光で編まれているようだ。唇が動いている。何か喋っている?光のざわめきが強くてよく聞こえない……
「暗い所で、って言ったでしょ? こんな昼に使うもんじゃないよ」
……パチリと音がして、ふと現実に戻ったような感覚がした。
気づけば、狐面はいつの間にかパルファの手にあった。
窓の外から人の話し声がする。九月に入ったのにまだ暑さが残る空気が、頬に触れる。
ポツリと口から言葉がこぼれ落ちる。
「パルファが光っていた」
「あ~、私ほどになるとね、輝きが抑えきれないから」
何種類ものピースサインとウインクを切り替えながら披露するパルファを見て、ようやく人心地ついた。
「お土産、ありがとう」
「どういたしまして!」
*
温かい物が飲みたくなったので、商談スペース横の台所で湯を沸かす。最近入手した自動のコーヒーミルが、心地よいリズムで豆を挽いている。
「そういえば、手紙にあった『宇禄』って職人の話、ちょっと聞いてきたよ」
パルファは頬杖を付きながら、足をパタパタと揺らす。
「何でも香炉製作の名手で、時の大帝に愛され大きな屋敷を与えられていたとか。生涯の製作点数もそう多くないので、現存する香炉は高値で取引されているとか」
ひらりとこちらに向ける指の本数を増やしながら話し続ける。
「真の所有者には富と財産をもたらす魔法の壺~とか、気難しい人だけど牡丹の花が好きで、それを贈ると仕事を引き受けてくれる、なんて逸話もあったな」
「なるほど」
相槌を打ちながらコーヒーミルから粉を移し、お湯を注ぐ。香ばしい香りが立ち上る。
カップを二つ手に取り机に戻る。
「……ん」
「どうも!」
コーヒーを受け取ったパルファは湯気越しに目を細めた。
「君が、食事とまでは言わないけれど、口にするものにこだわるようになったのは喜ばしいことだね。何か心境の変化?」
「……診療所のおっさんから、もっと飯を食えって言われて」
パルファからの生暖かい視線をどのように受け止めて良いのか分からず勢い良くコーヒーを啜る。……熱い。舌を火傷して涙目になった。
診療所のおっさんといえば、とまだパルファに見せていなかった宇禄作の香炉を机に置いた。
入手の経緯と手紙で相談した背景を簡単に説明すると、パルファはそれを光にかざして眺めた。
「んーとくに魔法の気配はないけど、綺麗な模様だね」
受け取る瞬間、香炉から小さな音がした。コトリと何かが当たるような音。
「……音?」
蓋を開けても何も入っていない。
ふと視線の先に、先程の寄木細工が見えた。
左手を軽く顎に添える。
これ、同じようにこの香炉にも仕掛けがある可能性はないか?
改めて香炉を眺めると、側面に牡丹の花模様。先程パルファから聞いた、宇禄の好きな花だ。模様に触れると牡丹の花弁が微かに動いた。
いくつかの飾りを押し、ずらす。やがて台座が静かに回転し――
「……綺麗だ」
ひょっこりとパルファも台座を覗き込む
「翡翠、かな?」
深く濃い緑の光を集めたような透明な石の指輪が、闇を閉じ込めたような黒い台座の中で涼しく輝いていた。
*
手順を逆に行い、香炉はすっかり元の姿を取り戻している。
パルファは何でもない調子で首を傾げた。
「さて、真の所有者のドルック君は、この富をどうする? もちろん私は君が望むなら見なかったことにしても構わないけど」
「……生きるのに困っている訳じゃない。それよりも、この先にこの品物を手にする誰かが、このワクワクを失ってしまうことのほうが惜しい」
ドルックは普段よりほんのり血色の良い頬を緩め、香炉を撫でた。
「だからこれは、香炉としての値段で、他の品物と同じ扱いでお店に置く――これは俺の我儘だけど、パルファは買わないでくれるか?」
自分を信頼してくれている浪漫屋の友人の願いに、パルファは花が開くように笑って頷いた。
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