第4話
「やあ、ご機嫌如何でしょう」
女は右手を挙げて、そんなことを言った。僕は何かに対して、心から美しいと感じたことが無い。そう言えるようなものに出会ったことが無いのだ。しかし彼女は、それはそれは美しかった。僕という人間の殻が、それこそ壊れてしまいそうなくらいに。つまり、僕と彼女はこの瞬間が初対面なわけであって、そのはずなのに物心つくころから一緒に居る幼馴染の如き口調の軽さなのが不思議である。
「おい。如何でしょうっつってんだから答えろよ」
ドスの効いた低い声で彼女は言った。腰を軽く折り、覗き込むような形で僕の方を睨みつけている。先ほどまでたたえていた微笑みは影も形も無い。このあまりの変わりように、忌々しい請求書を握り込んだ僕の手のひらから多量の汗が滲み始めたのは、言うまでもないことだろう。
「まぁ、ぼちぼちです」
答えろと言われた──というよりも命ぜられたので、僕はこの不審者に視線を合わせないようにしつつ、無難なことを言った。
女は空を見上げて、
「そっか、死ね」
今度は世界の幸福を一つに集めたみたいな笑顔になって、直球ストレートの暴言を吐いて来た。いや、受け答えという面で見れば、牽制しようとして電光掲示板にぶつけるくらいの大暴投だ。感情と言動がまるで一致していない。正直言って、怖い。
「君ね、それは良くないな。ほんと良くないよ。そんな死にそうな面と死にそうな恰好してるくせにぼちぼちとか、冗談にしては短すぎてリレーする側も困っちゃうし、お世辞にしては下手くそが過ぎる。私にとってそれは、趣味のムエタイをフットバッグ選手にノムリッシュ翻訳するようなものなんだけれど」
本当に不味い人だ。言葉を濁さずに言うと、多分病気を患っているのだろう。断っておくがここに侮蔑的な意味はない。それは何も言動からとか見た目からとか判断したのではなくて、ここはまだ病院の敷地内なのだからこの人もそういった人の確立が高いだろうという、あくまで一般的で普遍的な思考をしただけなのだから。まぁそもそもこの現実というのは考えようによっては全て個人の見ている虚像でしかなく、その根底に共通する文脈を個々が掬い上げることで成り立っているという見方もできるために、僕のこの発言の一部分を切り取り過剰に肥大化させて義憤に駆られる人間が居るのも何もおかしなことではない。しかしそこに個人という絶対的な変数が入る以上、その個人の部分でおかしいと感じるものは、やっぱりおかしい場合の方が多いのである。そしていま語った二つの視点は、全く矛盾するものではない。片方に拘ろうとするが為に、矛盾というのは常に生じるのだ。僕がレイシストなのは、視点に幅を持たせずにモノを語る人間がこの世界にあまりにも多すぎるためである。もっとも僕が差別する人種──つまりは普通の、世間一般の人間というもの──がこの地球においては圧倒的マジョリティである為に、真に差別されているのは僕なのだとも言えるのだけれども。
この女はそんな意味の分からない僕から見ても、何もかも意味が分からなかった。一般人が見たら、未知への恐怖で失禁するんじゃないだろうか。僕の膝が小鹿みたいにプルプル震えているのも、その為だろうか。
多分これは寒いだけだろう。僕、短パンだし。
そう、僕は今、凄まじく凍えているのだ。
「っていうか、寒くないんですか。その……恰好」
その寒さを思い出した僕は、女の爪先からツインテールの先っぽまでを、まじまじと見ながら言った。不自然な間があったのは、その女の見た目を果たして恰好と呼んでいいのかどうか、疑問に思ったためである。現存する約一億の日本語ユーザーの学んでいる日本語というコト──概念をモノと呼ぶのがあんまり好きじゃないので、この言い方をさせてもらう──は、現代社会にナイズされているものである。『恰好』という言葉は着ているモノや仕草や顔つきや髪型などなどを含めたその人全体の見た目を指す言葉だ。だから先ほど女の言っていた『死にそうな面と死にそうな恰好』というのは、少々文法的におかしいのである。しかし、今の日本語では女の言いたかった部分──すなわち『服装』と似たような意味で使われる場合が多い。僕が今、目の真の女の触れたい部分は、その今の日本語において指し示すコト、つまりは服装なのだけれど──その女に対して服装という言葉を使うのは、あくまで僕の主観で語る場合には、それは不適切どころか論外なのだ。だから格好という言葉を選択するのに、少しばかりの間が空いてしまったのである。
女は全裸なのだ。
しかして足にはいっちょ前に、お高そうな黒の革の長靴を履いているので全裸とも呼べない。いや何がいっちょ前なのだ。いっちょ前どころか、前も後ろも丸見えだというのに。どうもこの女に会話と思考のペェスを握られている。
「お、気遣いか。良い心掛けじゃないか。まぁ私には不要だがね。君の持ち点からマイナス100点。あと10点でサービスタイムに突入するから気を付けな」
女の赤い瞳が僕にウィンクをした。サービスという基本ポジティブにしか使われない言葉にここまで嫌な質感を感じたのは初めてだった。
「サービスタイムって、何されるんですか。僕」
「そんな真顔で聞くなよ。恥ずかしくなっちゃうじゃない」
手を口元に当てて、花にかかった気味の悪い声を出した。真っ白な頬に、ぽっと鮮やかなピンク色の円が浮かび上がる。どうしてこの人は照れているんだろう。もっと違う部分で照れるべきだろうに。
はぁと僕がため息を吐くとともに、女は突如として僕の方へと身をずいと近づけて来た。そうなると当然、発光しているツインテールも僕の方に近づいてくるわけで。
間近で見るそのツインテールは、より一層綺麗に映った。蛍の儚さで例えるには荒々しすぎるその発行に、僕はどうも目をやられてしまっているらしかった。
というか、普通に眩しい。本当に心から綺麗だとは思うのだけれども、そのお髪に僕の存在を溶かしてしまいたいという気持ち悪いことすら思ってしまうのだけれども、憧れが近過ぎるというのも考え物なのかもしれない。
「っていうか、何で普通に会話してんの」
「何でって、貴女が僕に話しかけて来たんじゃないですか」
「そこじゃない。私の事、変だと思わないの?」
「そりゃあ変です。頭のおかしい人だなと思ってます」
「だよね。良かった良かった、あまりにも無反応なんで、これはもう暴力に出るしかないなとか考えてた頃だったの」
「物騒ですね。やめてください」
冗談めかして言ったが、思いは切実である。
「じゃあ、私の事知りたくなってきたかな?」
意地の悪い笑みを浮かべて、女は悪戯のように言った。
正直言えば、かなり気になる。というか気にならないわけがない。そのツインテールを見せられて独りとぼとぼ大人しく自宅に帰るような人間がいるものか。
「貴女、何ですか」
震える声で、僕は聞いた。
愚鈍な僕、ツインテール女を食べる 船堀パロ @HUNABORI_PARO
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