第6話:初めての外出、それは危険なミッション
「いいか、ハグミ。これはただの買い物じゃない。一種の『潜入任務』だ」
玄関の前で、慧吾が低い声で言った。
彼は黒いキャップを目深にかぶり、さらに大きなマスクで顔の半分を覆っている。
普段の知的でクールな雰囲気とは一変、なんだかミステリアスな「裏の仕事人」という出で立ちだ。
「うん、わかった! 私も気をつける!」
私は大きく頷き、彼の手をぎゅっと握りしめた。
体調が安定してきたため、今夜は初めての外出許可が出たのだ。
行き先は、マンションから徒歩3分のコンビニエンスストア。
たったそれだけの距離だけれど、私にとっては未知の世界への大冒険だ。
「絶対に俺から離れるなよ。外には……何があるかわからないからな」 「うん!」
慧吾は少し震える手でドアノブを回した。
(慧吾、こんなに警戒してる……。きっと、美男美女のカップルだから、パパラッチとかに狙われないように変装してるんだわ)
私は彼の慎重さを、勝手に「スターの苦悩」のように解釈して、ドキドキしながら彼の後ろをついていった。
***
夜の街は、キラキラと輝いていた。
街灯のオレンジ色の光、通り過ぎる車の赤いテールランプ。
肌を撫でる風は少し冷たかったけれど、繋いだ左手から伝わる慧吾の熱が、私をポカポカと温めてくれる。
「けいご、見て! お月様がついてくるよ!」
「……ああ、そうだな。前を見て歩け」
「あそこの自販機、すごく光ってる!」
「……虫が寄るぞ」
私がはしゃぐたびに、慧吾はキョロキョロと周囲を見回している。
すれ違う人が私たちの方をチラリと見るたびに、彼は私の肩を抱き寄せて、自分の体で隠そうとする。
その過保護な仕草がたまらない。
「俺の女を見るな」って牽制しているんだ。
やっぱり慧吾は独占欲が強い。
コンビニの自動ドアがウィーンと開き、明るい光と「入店音」が私たちを迎えた。
店内は白い光に満ちていて、カラフルな商品が山のように並んでいる。
「わぁ……!」
私は目を輝かせて、棚の間を歩いた。
見たことのないお菓子、美味しそうなお弁当、雑誌の山。 情報の洪水に、少しだけ目が回りそうになる。
「ハグミ、あまりキョロキョロするな。酔うぞ」
慧吾がカゴを持ちながら、心配そうに声をかけてくれる。
私は「大丈夫!」と振り返ろうとして――床に置かれていた品出し用のコンテナに足を取られた。
「あっ……」
体が大きく前にのめる。
転ぶ。
痛いのが来る。
私は反射的に目を閉じた。
ガシッ!!
衝撃は来なかった。
代わりに、強い力で腰を引き寄せられ、私は誰かの胸の中にすっぽりと収まっていた。
目を開けると、マスク越しの慧吾の瞳が、至近距離で私を見下ろしている。
「……っ、バカ! 気をつけろと言っただろ!」
怒鳴り声に近い、切羽詰まった声。
店内にいた数人の客が、何事かとこちらを一斉に見た。
店員さんも驚いて作業の手を止めている。
恥ずかしい。
みんな見てる。
私が小さくなろうとすると、慧吾は周囲の視線を遮るように、さらに強く私を抱きしめたまま、低い声で囁いた。
「周りなんてどうでもいい。……お前が怪我をする方が、俺には大問題だ」
ドクンッ。
心臓が跳ね上がった。
なんて大胆なんだろう。
公衆の面前で、「世界中を敵に回してもお前を守る」と宣言されたようなものだ。
私は彼の胸にしがみつき、マスク越しに伝わる彼の荒い息遣いを感じた。
「ごめんね、慧吾……ありがとう」
「……早く帰るぞ。ここは危険すぎる」
彼は私の手を痛いくらい強く握り直すと、会計もそこそこに私を連れて店を出た。
その背中は、どんなヒーローよりも大きく、頼もしく見えた。
***
マンションのエントランスに戻ってきた頃には、私の興奮は最高潮に達していた。
自動ドアが開き、大理石張りの豪華なロビーに入る。
冷房の効いた涼しい空気が、火照った頬に心地よい。
「無事に帰還できたな……」
慧吾がマスクをずらして、深い安堵のため息をつく。
その額には玉のような汗が浮かんでいた。
たった数分の外出で、こんなに消耗するなんて。
それほどまでに、私を守ることに全神経を使ってくれていたんだ。
「慧吾、楽しかったね! また連れて行ってくれる?」
私が無邪気に尋ねると、彼は困ったように笑い、私の頭に手を伸ばした。
「ああ、お前が良い子にしてたらな」
その手が私の髪に触れようとした、その時だった。
「……慧吾くん?」
冷たく澄んだ声が、ロビーに響いた。
慧吾の手がピタリと止まる。
空気が一瞬で凍りついた気がした。
私たちは同時に、声のした方へと振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
黒いスーツをパリッと着こなし、艶やかな長い黒髪を後ろで束ねている。
知的で、大人びていて、私とは正反対の「しっかりした」雰囲気の美人。
彼女は鋭い視線で私を一瞥(いちべつ)した後、信じられないものを見るような目で慧吾を見つめた。
「……あなた、会社も休んで連絡も絶って……こんなところで何をしているの?」
その口調は、ただの知り合いとは思えないほど親しげで、そして少し怒っているように聞こえた。
「その子……誰?」
彼女の視線が、私に突き刺さる。
私は咄嗟に、慧吾のジャケットの裾をギュッと握りしめた。
怖い。
この人は誰?
どうして慧吾の名前を知っているの?
もしかして、慧吾を狙う悪の組織の女幹部?
不安で震える私をかばうように、慧吾が一歩前に出た。
でも、その背中からは、さっきまでの余裕や頼もしさが消え、焦りと動揺が立ち上っているように見えた。
「……小原(おはら)さん……どうしてここが」
慧吾の声が震えている。
私の知らない名前。
私の知らない慧吾の表情。
繋いでいたはずの手のひらが、急に冷たくなった気がした。
「まさか……」
その女性――小原さんは、氷のような冷たい瞳で私を見据え、言い放った。
「その子が、『バグ』の原因?」
バグ?
私のこと?
言葉の意味はわからなかったけれど、彼女の登場によって、私たちの甘くて優しい世界に、修復不可能な亀裂が入ったことだけはわかった。
私は慧吾の腕にしがみついたまま、その見知らぬ美女を見つめ返した。
お願い、慧吾。
「違う」って言って。
「俺の運命の恋人だ」って、さっきみたいに堂々と言って――。
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