第4話:思い出の品が見つからない(バグ報告)


バスルームから、ザァーッというシャワーの音が聞こえてくる。

慧吾がお風呂に入っているこの時間、それは私にとって「冒険」の時間だ。


「よし、今のうちに……」


私はソファから飛び降りると、フローリングの床をペタペタと歩き回った。

同棲生活が始まって数日が経つ。

慧吾の仕事の邪魔にならないように気をつけながらも、私は「彼女らしいこと」をしたくてうずうずしていた。

例えば、アルバムを一緒に見て「若い頃の慧吾、可愛い!」と笑い合ったり、記念日に買ったお揃いのマグカップでコーヒーを飲んだり。

そういう「二人の歴史」に触れたかったのだ。


まずは、テレビボードの引き出し。

私は期待に胸を膨らませて、取っ手を引いた。


「……あれ?」


中に入っていたのは、黒く絡まり合った大量のケーブル類、見たことのない形状の充電器、そして「保証書」と書かれた紙の束だけ。

色気もトキメキも、カケラもない。


次は、クローゼットの奥。

ここならきっと、昔の手紙やプリクラが入った「思い出ボックス」があるはず。

そう思って扉を開けたけれど、そこには同じデザインの白いシャツと、黒いパーカーが整然と並んでいるだけだった。

まるで制服みたい。

私の荷物は、退院した時に持ってきた小さなボストンバッグ一つ分だけ。


部屋を見渡してみる。

黒、白、グレー。

そしてモニターの光。

この部屋には、私たちが「恋人」だった証拠が、どこにも見当たらなかった。

写真立ての一つもない。

お揃いのキーホルダーもない。


(もしかして……)


胸の奥に、小さな黒いインクを落としたような不安が広がる。

記憶を失う前、私は慧吾にとって「大事な人」じゃなかったのかな?

それとも、付き合ってまだ数日だったのかな?

だから、思い出なんて何もないのかもしれない。


「……ううっ」


急に視界が滲んで、鼻の奥がツンとした。

もしそうなら、あんなに偉そうに「彼女面」をして膝に乗ったりして、慧吾に迷惑だったかもしれない。

不安で心臓が早鐘を打つ。

熱が上がりそうになるのを必死でこらえていると、


ガチャリ。


バスルームのドアが開く音がした。


「ふぅ……。さっぱりした」


湯気を纏(まと)いながら、慧吾が出てきた。

首に白いタオルをかけ、髪からは水滴がしたたっている。

普段の眼鏡を外した素顔は、幼くて、無防備で、ドキッとするほど色っぽい。

彼は私を見ると、少し驚いたように目を丸くした。


「ハグミ? どうした、そんな顔して」

「……けいご」


私は泣きそうな顔で、彼を見上げた。


「私たち、写真とか……ないの?」

「……え?」


慧吾の手が、タオルで髪を拭く動作の途中でピタリと止まる。


「お揃いのコップとか、プリクラとか、手紙とか……部屋中探したけど、何も出てこないの。私、慧吾の恋人なのに、ここには私の居場所がなかったみたいで……」


言葉にするうちに、ポロポロと涙が溢れてきた。

慧吾の顔色が、みるみるうちに青ざめていくのが見えた。

視線が激しく宙を泳いでいる。

図星なんだ。やっぱり、思い出なんてないんだ。


「そ、それは……!」


慧吾が裏返った声を出した。

彼は私の肩をガシッと掴むと、何かとてつもない言い訳をひねり出すような必死な顔で言った。


「ぜ、全部、『クラウド』にあるんだ!」


「……くらうど?」


涙を拭いながら、私は首を傾げた。


「そ、そうだ。俺たちは……その、ミニマリストだからな。物理的なモノは持たない主義なんだ。写真は全てデジタル化して、サーバーに……いや、クラウドに保存してある!」 「くらうどって……『雲』のこと?」


私は窓の外、夜空に浮かぶ月を見上げた。


「空にあるの?」

「あ、ああ……まあ、概念としては空みたいなものだ。物理的な形はないが、どこにいてもアクセスできる。俺たちの思い出は、この部屋だけじゃなく、空全体に広がっているんだよ」


慧吾は冷や汗をダラダラと流しながら、早口でまくし立てた。

その言葉を聞いた瞬間、私の目からウロコが落ちた。


なんてことだろう。

アルバムなんていう、燃えたり色褪せたりする「モノ」に、彼はこだわっていなかったんだ。

私たちの思い出は、空に溶けている。

見上げればいつでもそこにある。

なんて壮大で、なんてロマンチックな愛し方なんだろう!


「すごい……! 慧吾、詩人さんみたい!」

「……え? あ、ああ……そうだな(棒読み)」

「疑ってごめんなさい。私、古い考え方をしてた。……空にあるなら、安心だね」


私は彼の濡れたTシャツの胸元に飛び込んだ。

お風呂上がりの石鹸の匂いと、少し高い体温。

彼は「ふぅーっ」と長く、魂が抜けるようなため息をつくと、諦めたように私の背中に腕を回してくれた。


***


その日の夜。

私たちは一つのベッドで横になっていた。

興奮と安心で疲れが出たのか、私はすぐにウトウトとし始めた。

慧吾の腕枕。

規則正しい寝息。

これ以上の幸せなんてない。


意識が夢の世界へと溶けていくまどろみの中、頭の上から慧吾の独り言が聞こえてきた。


「……いつか」


消え入りそうな、掠れた声。


「……いつか、君が全部思い出したら……俺は、ただの『他人』に戻らなきゃな」


ん……? たにん……? 慧吾、なんでそんな悲しいことを言うの?


私は重いまぶたを少しだけ持ち上げて、彼の胸に顔を擦り付けた。

寝ぼけた頭で、彼の言葉を一生懸命に解釈する。

きっと、慧吾は不安なんだ。

私が記憶を取り戻したら、「昔の私」は今の慧吾を好きじゃないかもしれないって、心配してるんだ。

なんて謙虚で、いじらしい人なんだろう。

そんなこと、あるわけないのに。


「……もどらないよ……」


私は夢うつつで、彼のTシャツをきゅっと掴んだ。


「……わたしが、おもいだしても……けいごは、けいごだもん……他人になんて……絶対、させない……」


記憶があろうがなかろうが、私の心は慧吾のものだ。

その「事実」だけは、クラウドよりも確かな場所に保存されているんだから。


「……っ」


私の寝言を聞いた彼が、息を呑んだ気配がした。

次の瞬間、彼は泣き出しそうなほど顔を歪めて、痛いくらい強く私を抱きしめ返した。


その腕の強さが、「信じたい」という彼の叫びのように感じられて、私は安心して深い眠りに落ちていった。

夢の中には、どこまでも広がる青い空と、白い雲。 そこには二人の思い出がいっぱい詰まっていて、私たちはいつまでも手を繋いでいた。

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