第3話:オンライン会議はミュートで愛を囁いて


その日の午後、リビングの空気がピリリと張り詰めた。


慧吾がいつものパーカーを脱ぎ捨て、パリッとした白い襟付きのシャツに着替えたからだ。

鏡の前で髪を整え、眼鏡の位置を直すその姿は、まるでこれから戦場に向かう騎士(ナイト)のように凛々しい。


「ハグミ、いいか。これから大事な『会議』がある」


彼はデスクの前に立ち、低い声で私に告げた。


「会議……?」

「ああ。遠く離れた場所にいる人たちと、画面越しに話をするんだ。絶対に失敗できない」


慧吾の表情は真剣そのものだ。

きっと、世界の平和を守るための秘密会議に違いない。

私はゴクリと唾を飲み込んだ。


「私も……一緒に戦う!」

「いや、お前は映っちゃダメだ。……というより、映ったら俺の社会的な死に直結する」


彼は眉間に深い皺を寄せて、部屋の中を見回した。

私の「離れると熱が出る」という体質と、「画面に映ってはいけない」という絶対条件。

この二つを両立させる場所は、この狭い部屋には一箇所しか残されていなかった。


「……ここだ」


慧吾が指差したのは、デスクの下。彼の足元にある薄暗い空間だった。


「ここに隠れていてくれ。声を出してもダメだ。じっとしていられるか?」

「うん! かくれんぼだね、任せて!」


私は冒険に出るような気持ちで、デスクの下へと潜り込んだ。

四角い空洞の中は、PC本体から出る低い駆動音(ファンの音)と、足元に敷かれたラグの匂いが充満している。

上を見上げると、天板が天井のように広がり、その手前には慧吾の頼もしい足が二本、柱のように伸びていた。


「よし、始めるぞ……」


頭上から慧吾の深呼吸が聞こえる。

直後、スピーカーから「お世話になります、工藤です」という、普段の彼とは違う、少し高くて愛想の良い声が響いた。


会議が始まったのだ。


私は膝を抱えて、じっと息を潜めた。

上の世界では、難しい言葉が飛び交っている。

「仕様変更」だの「納期」だの、呪文のような言葉たち。

慧吾は流暢に言葉を返している。

すごい。

私の慧吾は、やっぱり仕事ができる男なんだ。


その時だった。

ラグの繊維が舞い上がったのか、急に鼻の奥がツンと刺激された。


(……あ、むずむずする)


まずい。

くしゃみが出そう。 でも、今音を出したら、慧吾の「社会的な死」になってしまう。

私は両手で口と鼻を強く押さえた。


(がまん、がまん……!)


生理現象と愛の戦いだ。

私は必死に息を止める。

けれど、止めれば止めるほど、変な所から空気が漏れそうになる。


「……ふぅ、んっ……ふぅ……」


抑え込んだ反動で、意図せず甘い吐息のような音が漏れてしまった。

その瞬間、頭上のスピーカーから、相手の方の怪訝そうな声が響いた。


『……ん? 工藤さん、今の吸気音は何ですか? 部屋に、その……女性でも?』


ひっ! バレちゃった!? デスクの下で、私はカチコチに固まった。

慧吾の足がビクリと跳ねる。

どうしよう、私のせいで秘密会議が台無しに……!


しかし、慧吾は即座に叫んだ。


「い、いえ! これはPCのファンの異音です!!」


『……ファンの音? ずいぶん艶っぽい音でしたが』

『ええ、かなり年季が入った……いや、熱暴走寸前の機材でして! すぐに冷却しますのでお気になさらず!』


慧吾の声は裏返っていて、必死そのものだった。

私は胸を撫で下ろすと同時に、感動で胸がいっぱいになった。


(すごい……! 私のことを「PCのファン」だなんて、とっさに専門用語でかばってくれるなんて!)


きっと、私という存在が高性能すぎて、熱を帯びていることを伝えてくれたんだ。

「冷却します」というのは、「僕が後でよしよしして落ち着かせます」という暗号に違いない。

慧吾、ありがとう。

大好き。


安心したら、急に人肌恋しさが押し寄せてきた。

私はそっと手を伸ばし、目の前にある慧吾のふくらはぎに触れた。

スラックス越しでも、彼の体温がじんわりと伝わってくる。

彼の足の筋肉は、石のように硬く緊張していた。


(慧吾、私をかばって無理してるんだ……。私が癒やしてあげなきゃ)


私は這いつくばるようにして体勢を変えると、彼の太ももの上に自分のあごを乗せた。

温かい。

太い血管がドクドクと脈打っているのがわかる。

私はその温もりに安心して、彼の膝小僧に頬をすり寄せた。

猫が飼い主に甘えるように、すりすり、と。


「……ッ、ごほっ!」


上から、慧吾が再び不自然な咳払いをする音が聞こえた。

ちらりと見上げると、デスクの端からわずかに見える彼の手が、膝の上で握り拳を作って震えている。

貧乏揺すりもしない彼が、足を小刻みに動かしている。


(慧吾、我慢してるんだ……)


仕事中だから私を撫でられない。

抱きしめられない。

その葛藤が、彼の足を震わせているに違いない。

目の前にあるのに触れられないなんて、ロミオとジュリエットみたい。

なんて切なくて、情熱的なんだろう。


嬉しくなった私は、もっと彼を応援したくて、彼の膝を両手で包み込み、そっと指を絡めた。

そして、ズボンの布地越しに、ちゅ、とキスを落とす。


「!!!」


ドゴン!! 慧吾の膝が大きく跳ね上がり、デスクの天板を蹴り上げた。

すごい音。

スピーカーの向こうの人が「工藤さん!? 今度は何の爆発音です!?」と叫んでいる。


まずい。

また音を立てちゃった。

私も驚いて、思わず「あ……」と声を出しそうになった。

その瞬間。


バッ、と視界が暗くなった。

慧吾の大きな手が、デスクの下に伸びてきて、私の口元を覆ったのだ。

そして、もう片方の手で素早くマウスを操作する「カチッ」という音が響く。


静寂が訪れた。

モニターの光だけが、デスクの下にいる私たちを淡く照らす。

慧吾が顔を覗き込んできた。

逆光で表情はよく見えないけれど、彼の瞳はギラギラと燃えるように熱く、顔は真っ赤だった。

呼吸が荒い。


「……っ、はぁ、はぁ……」


彼は私の口を塞いだまま、耳元に顔を寄せてきた。

熱い吐息が耳にかかる。


「……あとで」


絞り出すような、切羽詰まった声。


「あとで、たっぷり……してやるから。今は静かにしてろ……頼む……」


彼はそう言い捨てると、再びマウスを「カチッ」とクリックし、何事もなかったかのように「すみません、機材が倒れまして」と会議に戻っていった。


私は呆然としながら、自分の唇に手を当てた。


『あとで、たっぷりしてやる』


それって……。

さっきのキスの続きを、会議が終わったら「たっぷり」してくれるってこと?

しかも、あんなに情熱的な、余裕のない声で。


(どうしよう……慧吾、お仕事中なのに、私のことで頭がいっぱいになっちゃったんだ)


カァァァっと顔が熱くなるのがわかった。

発熱の熱さじゃない。

これは、幸せの熱だ。


私は口元を両手で押さえ、嬉しさを噛み殺しながら小さく頷いた。

デスクの下の暗闇は、もう怖くなかった。

頭上で響く彼の声が、さっきよりも少し早口で、上ずっているように聞こえるのが、何よりの愛の証拠だと思えたから。

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