Beruf(ベルーフ)

大堂林

Beruf(ベルーフ)

 4月28日。


 ペンを握る指が震えている。

 墓穴の底で文章を書くというのは、こういう気分なのだろうか。

 出版用に整えられたタイプ済みの日記は何日も前に途切れ、

 今は机の上で埃をかぶっている。


 その続きを、私はこの薄い帳面に自分の筆跡で書いている。

 活字から乱れた筆記体への転落。権力者から敗北者への対比。

 それ、そのものが嗜虐的な読者を惹きつけるかも知れない。


 読者。

 こんな状況でも、私はなおも「読者」を思い浮かべている。

 それが、私の呪いであり、救いでもある。


 ――地下壕に満ちるのは湿ったセメントと煙草の匂い。

 ただしベルリンの地表は末期的で、それ以上に空気は悪いだろうが。


「宣伝大臣閣下」


 ノックの音とともに声が響き、私は帳面から顔を上げた。

 警護の者が戸口に立っている。

 額に浮いた汗を拭いながら、彼は何者かを案内する。


 応じる間もなく入室してきた中年男の顔に、私は見覚えがなかった。

 中肉中背。軍服でも党制服でもなく、地味な背広。軍帽を小脇に抱えている。

 髪はすでに薄くなりつつあり、しかしよく手入れされている。

 いや、それよりも。


 犬を連れていた。


 ジャーマン・シェパード。良く知っている犬だ。

 名前は、ブロンディ。


 だ。


 ふと気がつけば、案内をしてきた警護の者は一声もなく、姿を消している。

 なんたる無礼者か。

 一瞬、激情で頭が沸騰しかけるが、客人の存在を思い出し、自制し問いかける。


「失礼。私にご用ですかな。ええと」


 すると客人は品のある声音で、耳を疑う不愉快な名を名乗った。


 「ルドルフ・ヘスと申します」


 それは4年前、英国へ逃亡した裏切り者の元・副総統の名前だった。


 冗談にしても縁起が悪い。


 目の前の男の顔は、私が知る彼とは似ても似つかない。

 こけた頬も、あの棘のある顎もない。


 しかし……。


 私は男ではなく、犬を見る。

 灰褐色の毛並み、しっぽの振り方。

 これは本物だと、直観が告げる。


 そもそも、犬を盗み出すことは不可能だ。

 この犬は常に総統の側にいる。寝室でさえ同じなのだ。

 総統が、ただの不審者に愛犬を預けたとは、更に考えにくい。


 しかし……。

 この数日、総統の判断にはすでに「考えにくい」がいくつも混じっている。

 これもその1つか。


 いや、待て。


 ルドルフ・ヘスの英国逃亡劇の裏には、

 偽者の存在があるという噂を聞いたことがある。

 私はゴシップには慎重なつもりだが、完全に無視するほど愚かでもない。


 もし本物がドイツに残り、今この地下に現れたのだとしたら? 


 彼は未だ国民的人気を誇る。


 総統の心理は計りがたい。


 ……危険だ。


 下手をすれば私の築いた物を一瞬で葬り去る爆弾となり得る。


 混乱の中、男は流暢なドイツ語で話し始める。


「今日は単に、あなたの読者として伺いました」


 言いながら椅子に勝手に腰を下ろした。

 犬は、その足元でくるりと丸くなる。

 彼は脚を組み、指先で犬の背をトントンと叩きながら言った。


「わたしは今、資料部門で働いています。資料室で資料を整理する、資料係です。

 ニュース映画、ポスター、ラジオ演説。あなたが口にし、作らせたものは、

 ほとんど全て、わたしの部署の棚を通り過ぎています」


 苛立ちを抑え、思考する。


 資料部門。

 我が宣伝省にも、資料部門はある。

 だが、私はそこで働く人間の顔などほとんど知らない。こんな男はいただろうか。


「ニュース映画だけではありませんよ。

 わたしは、あなたの日記も読んできました。

 あの立派なタイプの日記。あれは、わたしにとって最大の娯楽でした。

 宣伝大臣殿。わたしは、恐らくあなたの『一番熱心な読者』のひとりです」


 私は努めて表情を消す。

 タイプ日記は、もちろん組織内のごく限られた者たちには閲覧される。

 それも承知のうえで私は書いている。私は、声を抑えて言う。


「あれは内部資料だ。宣伝上の価値も勘案しているとはいえ、

 公刊を前提としたものではない。少なくとも、今は」


「ええ。今は」


 男は深く頷いた。


「あなたは、何をしに来た? 

 犬を連れて、こんな部屋まで。『読者の声』でも聞かせに来たのかね」


「そうです。読者から作者への、ささやかな感想の1つとして、

 こう申し上げたい――あなたは、演出の天才です」


 この種の賛辞を、私は幾度となく受けてきた。

 だが今、この地下壕でそれを口にする男の声色には、

 単純な崇拝でも実利のためのお世辞でもない、捻れた響きがあった。


「メディア……いえ、宣伝の肝は、『何を映すか』よりも、

 『何を映さないか』を決めること。あなたのは、とても見事だ」


 私は内心、気を正す。

 この男の意見は基礎中の基礎ではあるが、プロパガンダの本質を突いている。

 なんらかの訓練を積んだ者か、少なくとも素養のある者――下手な事を言えば、

 足下を掬われかねない。


 私は、皮肉に肩をすくめてみせた。


「全てを見せるなど不可能だし、また見せるべきでもない。

 例えば、柵の向こうの人影だとか、煙突の煙だとか。余計な物は、入れない。


 世間の評判ほど、考えてやっている訳でもないが、

 そういった物が気になってしまう。

 褒めて頂いたが、私のそれは単なる仕事というより、気質……あるいは、

 天職ベルーフ、だからかもしれない」


 男は嬉しそうに頷いた。


「日記も同じです。あなたは、今日、ここで日記の続きを書いていた。

 あの立派なタイプ日記から、急にこの薄汚れたメモ帳への移行。

 そこにも、編集と演出がある。


 あなたは『何を書くか』と同時に、『何を書かないか』を選んでいる。

 未来の読者に、どう読まれたいかを意識しながら」



 血の気が引いた。


 私は今しがた、自分でも同じことを考えていた。

 タイプから手書きへの断絶は、すでに物語なのだ、と。

 そこに嗜虐的な読者を想像したのは、つい数分前のことだ。


「何のことか分かりませんね?」

 

 私は、努めて動揺を消し笑ってみせた。

 彼は、穏やかに言う。


「党躍進の高揚、演説の余熱、そして、最近の粘つく疲労と自己正当化。

 あなたは、それら全てを、誰に頼まれたわけでもなく自分の手で記録してきた。

 そこに、あなた自身が意識していない編集方針が透けて見えるのですよ」


 私は口を開きかけた、その時。

 

 内線電話が鳴る。


 私はすぐに立ち上がる。


 男は、まるでこの家の住人であるかのように、堂々と座っている。

 犬の耳を揉みながら、電話に出るよう促す。


「失礼」

 

 私は、部屋の片隅にある受話器を取る。

 

 ◇


 電話の相手は、私の妻だった。

 普段、彼女は私の前では滅多に取り乱さないが、その声は震えている。


「地下壕の中に、精神をやられた兵士が徘徊しているって話があって。

 火星だの何だの、ウェルズの小説みたいなことを吹聴したり、

 上官の服や武器を盗んで持っていたりするって噂も。

 だから心配になって。ヨーゼフ、あなたの所には来ていない?」


 私は、一瞬、言葉を失った。


「来ている。『ルドルフ・ヘス』を名乗る男。

 総統の犬と一緒だ。さっき、警護の者が連れてきた」


 彼女の声からは焦燥が滲む。


「みんな、極限状態で精神を削られている。

 あなただって同じ。だからお願い、あまり刺激しないで。すぐに、人を寄越すわ」


 少し考え、頼む、と声をひそめて答える。

 幼少期に患った右脚を包む器具が軋む。

 私は、荒事には自信がない。



 ◇



 視線を戻すと、男は立ち上がっていた。


 机の上に置いていた私の帳面を手に取り、

 その白紙のページを指でめくっている。犬は、彼の足元であくびをしていた。


「人の日記を勝手に読むのは、礼儀に反するね」


 私は慎重に戻る。

 彼は、素直に帳面を机に戻す。


 精神をやられた兵士。妻の言葉が頭を離れない。

 男の話しぶりから、これは単純な錯乱ではないとわかる。


 警備の者が来るまでの時間稼ぎ。そう、ただの時間稼ぎだ。


 だが、少なからず、興味をそそられいる自分にも気づく。


 舌先で人間を操るのは得意技だ。無論、狂気にひけは取らない。


 ――言葉を練り上げる。


「では、親愛なる私の読者くん。

 ニュース映画の話でもしよう。君も、それには詳しいのだろう?」


 男は椅子に深く腰をかけ、にこりと笑むと、

 ブロンディの頭に自分の帽子をちょこんと乗せてみせた。

 犬は、迷惑そうに首を振り、すぐに帽子を床に落とす。


 そして、ゆっくりと私に問いかけた。


「例えば、あなたが総統閣下の演説を演出するとき。

 あなたは、どこからカメラを回させますか?」


 私は、頭の中で、何十本ものニュース映画を巻き戻した。

 党大会。スポーツ宮殿。戦線から戻った兵士たちへの演説。


 一息吸って、始める。


「群衆のざわめきから始める」


 目を閉じる。


 私はその様子を想像し、ゆっくりと身振りを交えて答えた。


「群衆。まだ総統は姿を見せない。

 人々の期待が、画面の外の何かに向かって高まってゆく様子を見せる。

 そして、旗の波の向こうから。総統が現れる。


 だが、まだハッキリとは総統を映さない。

 カメラは、まず群衆の顔を映す。

 憧れ、陶酔、涙。

 観客は、その群衆を通して、それを自分の感情だと錯覚していく」


 男の目が輝いた。


「そうです。あなたはいつも『観客の観客』を用意する。

 ニュース映画を観る観客のための、画面の中の観客。

 それこそが、あなたの最大の発明です。


 そして――あなたは、総統閣下さえも、

 その観客の一人に仕立て上げることができた」


 私は内心の動揺を悟られぬように言う。

 その気になれば声音を操作する事は造作もない。


「何を言う。総統は常に主人公だ。観客ではない」


 男は、ブロンディの耳をつまみ、軽く引っ張って離した。

 犬は、彼を一瞬だけ不満そうに睨み、それから床に顎を乗せた。

 あくまで穏やかな声で続く。


「主人公と観客の境界は、どこにあります? 

 誰もが、舞台で台詞を吐く者が主人公で、客席の者が観客だと思っている。

 しかしあなたは、いつも逆をやった。


 国民を『主人公』と呼びながら、勝利の物語に酔わせた。

 スクリーンの中にこそ自分たちの人生があると、信じ込ませた。

 でさえも同じだ」



 ――確かに、私は、そうしてきた。


 群衆を「歴史の主体」と称えながら、

 実際には暗い映画館の椅子に縛りつけていた。

 怒りや希望が、スクリーンに映る虚構以外に向かわないようにした。


 それは我が総統とて例外ではない。


 男は、私の方に身を乗り出す。



「そして、あなたは今、すでに総統閣下の『最期』を演出し始めている。

 ここで。頭の中で。まだカメラも回っていないうちから」



 私は、息を呑んだ。本当に、息を呑んだ。



「ここ数日、あなたは、日記に総統の健康状態について、

 彼の耳に届く情報の偏りについて、詳細に描写している」


 彼は、私の眼を真っすぐ見た。

 際どい所で私は目を逸らすことだけは耐える。


「あなたはもう、すでに何度も頭の中で編集しているでしょう? 

 総統閣下が、自ら命を絶つ場面を。

 この地下で、自殺し、ガソリンをかけられて燃える場面を。

 今を生きる観客に見せるニュース映画としてではなく、


 『後世の読者』のための1行として。


 もっとも効果的な演出を考えている」


 私は、無意識に拳を握った。


 図星だった。恐ろしいほどに。

 この数日、私はすでに、その場面の「編集」をしていた。


 総統が書記を前に遺言を口述している映像。


 猛毒のアンプルを噛み砕く音。


 遺体を包む毛布。


 ガソリン。


 炎。


 黒い煙。


 私はそれらを、まだ起きてもいない出来事であるにも関わらず、

 何度も頭の中で組み立て、切り貼りし、ナレーションを考えていた。


 状況はここに至り、極まっている。

 ドイツの敗北も、総統の自決も避けられないのは、もはや自明と言えた。



 それは同時に、今後1000年語り継がれる、悪の帝国の終焉を意味する。



 私は、それがつまらない物になることに耐えられない。

 それは、歴史のハイライトを安売りすることに他ならないからだ。



 演出を。――もっと派手で効果的な演出を!







 ……そうしないでは、いられなかった。


 最悪の場面。


 私はそれを加工しなくては、とても直視できない。


 彼は、囁くように言った。


「どう書くつもりです。

 あなたは、総統閣下の最期を、どう、書くのですか?」


 私は、唇を湿らせた。口を開きかけて、閉じた。

 頭の中には、いくつもの文句が浮かんでは消えた。


「総統は、最後まで勇敢だった」

「総統は、祖国と運命を共にした」

「総統は、敵に辱めを受けることなく、自らの意志で人生に幕を閉じた」


 どれも、新聞の見出しにふさわしい。

 だが、どれも、あまりにも薄っぺらい。

 彼は、静かに続ける。


「あなたはもう答えを持っている。あなたは、総統閣下をそう記録すべきだ」


 男はそう言うと、机の上の帳面を引き寄せた。

 私は一歩踏み出しかけ、足を止める。


 男は白紙の余白に、鉛筆で軽く線を引いた。

 まるで新聞の見出しのような枠を書く。

 そして、ためらいもなく、そこへ短い一行を書きつけた。


 『総統は、最後まで観客だった』


 私は目を見開く。喉の奥が、乾いた。


 男は帳面をこちらに戻す。

 すると、もう全てに興味を失ったかのように、

 指で犬の眉間に皺を寄せ、遊び始めた。


 ――これは、罠だ。


 そう直感するまでに、長い時間は必要なかった。

 秘密警察ゲシュタポ。あるいは、党内の誰か。

 肥満体の元帥、もしくは、あのいけ好かない同僚。


 宣伝大臣を陥れるための録音器具が、どこかに隠されていてもおかしくない。

 私がうっかり総統の最期を「観客だった」と評したなどという記録が残れば、

 それだけで処刑に値する。努めて冷静な口調で私は言った。


「総統に関しては、公的に認められた表現以外はない。

 総統は、最後まで戦われる。最後まで、祖国と共にある。

 私は、そのようにしか書かないし、そのようにしか話さない」


 自分でも、その言葉の空虚さを感じていた。

 だが、今はそれしか口にできなかった。


 そのときだった。扉が激しくノックされ、即座に開いた。

 警護隊の兵士が2人、銃を構えて飛び込む。




 その背後に――総統の姿があった。



 ◇


 総統が自ら、私の部屋に足を運ばれるのは、久しぶりだった。

 ここ数日、彼は自室と会議室を、僅かな距離で往復するのがやっとだったはずだ。


 その彼が、今日は立っていた。背筋を伸ばし、目にかつてのような光を宿して。

 私は思わず立ち上がり、右腕を掲げた。


 総統は、右手を僅かに持ち上げ返礼する。

 その仕草には最近までの「老いた男」の影はなかった。


 むしろ、かつて演壇の上で群衆を見下ろしていた頃の、

 あの冷たい精悍さが戻っていた。


 その変化に私は目頭が熱くなった。そうだ、これだ。

 これこそが、私が世界に向けて見せてきた「希望」だった。



 ――私の、最高傑作。最高の、観客。



 私が演出し、照明をあて、編集し、

 群衆の歓声とともに送り出した奇跡。

 それが、今、ここにいる。

 総統は、兵士たちに顎をしゃくった。


「連れて行け」


 ルドルフは、抵抗しなかった。

 両腕を取られながらも、彼は一度だけ、私の方を振り返った。

 私は咄嗟に口を開いた。


「我が総統。この男は……」


「処分する」


 総統は、低く呟いた。その横顔には、揺るぎない確信があった。

 それは、5年前と同じ確信だった。

 全世界を敵に回しても、ドイツを導くと信じて疑わなかった男の顔。


 私は、その横顔に、ひどく安堵した。自分でも嫌になるほどの、安堵だった。

 この瞬間だけは、彼はまだ「物語の主人公」だった。

 兵士たちはルドルフを連れ出し、扉が閉じられた。

 愛犬は総統の足元に戻り、しっぽを振っている。

 総統は、その頭を一度だけ撫でた。


「おお、ブロンディ。火星人なんぞについて行ってはいけない」


 誰も何も反応はしなかった。私は何故か妻の声を思い出していた。

 総統は目線も向けず私に言う。


博士ドクトル。犬に余計なことは教えるな」


 返事も待たず、総統は部屋を出て行った。

 私は、その姿が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。



 やがて私は、脚を引きずって机に戻り、帳面を開いた。

 鉛筆を握る。

 私が縋る事ができる物は、最早これしかないのだ。




『きょうも、ベルリンは健在である』





 私は日記の、最初の1行目をそう書いた。


 嘘だ。


 だが、嘘こそが、今の私にとって唯一の救いだった。

 この嘘を、いつか誰かが読むだろう。首をひねるか、見栄と笑うか。

 分かっていて、なお書く。


 嘘と承知した1行を書きつけ、その上に自分の人生の全てを重ねてしまう。

 そうでもしなければ、指先はもう何も掴めない。


 1行目を書き終えた瞬間、胸の奥で何かが、くくっと笑った。


 誰の笑い声かは、判然としない。

 新聞の読者か、映画の観客か、あるいは、あの資料係か。


 失笑が漏れる。

 今度は、私だ。


 全ては、有りもしない妄想。だとすれば辻褄が合うではないか。


 明晰な総統も。居ないはずの男も。


 狂っているのは私だ。


 全てが妄想。


 だとすれば――。

 だとすれば、どれほど都合が良いだろうか。


 ――いつから? 

 いつから、歯車は狂っていたのだろうか。


 遠くに衝撃音。この地下壕も揺れる。


 ソ連の砲撃は昼夜を問わず止まない。


 破滅は、近い。


 映画が思い浮かぶ。日記が思い浮かぶ。そして、我が総統。

 

 このような状況で、なお思い浮かぶのは私が残した作品たち。


 そして、読者の姿。


 読者は、私が、いつから狂ったと考えるだろうか。


 くくっ。また笑い声。



「当然、最初からだ」



 ◇



 翌日。4月29日。


 日付を書くのは、もはや儀式だった。

 もはや意味もないのに、それをしないと1日が始まらない。

 日付だけが、世界に残された最後の規則のように思えた。


 この日は、朝から地下壕全体がざわめいていた。

 人々が行ったり来たりし、どこかで書記が机を増やし、椅子を並べている。


 総統が結婚すると聞いた。密やかな式を挙げるという。


 この状況で。

 この地下で。

 この終末のただ中で。


 私は、その知らせを聞いても、

 驚きより先に演出の視点が働いてしまう自分に気づいた。


 最後の24時間に、そういう「シーン」を挿入するのか、と。


 遺言と結婚。自殺と祝宴。

 誰かが後で映画を作るとしたら、この対比は確かに美しい。


 冷静に考えれば、滑稽でもあるのだが。


 それでも式には出席した。

 総統地下壕で行われた簡素な婚礼。窓もない小部屋。

 書記が読み上げる形式的な文句だけが、かろうじて儀式の体裁を保っていた。


 新婦は白くやつれ、しかし微笑を崩さなかった。

 総統は、疲れ切った顔に僅かな満足の色を浮かべていた。



 午後、私は、総統執務室の近くの狭い廊下で、妙な匂いを嗅いだ。

 焦げたような、薬品のような、金属のような。


 あまり馴染みのない、その匂いを嗅ぎつけて、私は足を止めた。

 その先の小部屋から、総統と医師の声が漏れ聞こえる。

 扉は半ば閉ざされていたが、隙間から灰褐色の毛並みが見えた。


 ブロンディ。


 私は、そっと後ずさりした。

 扉の隙間から見えたのは一部だけだったが、それで十分だった。


 総統が、自らの愛犬を毒殺した。


 これは、予行演習だ。



 ◇



 4月30日。


 私はメモ帳を開き、日付を書いた。

 その下は、しばらく空白のままにしておいた。


 今日は終わりの日だ。


 ここが物語の最終場面になることを、この地下壕の誰もが悟っていた。


 総統は、自室で命を絶つだろう。

 地下壕の全てがその一点に収束している。


 扉の向こうで何が起きるかは、見えない。

 だが、遺体が運び出される瞬間だけは、この廊下から観ることができる。


 湿ったセメントと煙草の匂い。

 だが今日は、その混合物の奥に、鉛のような重さがあった。


 


 地下壕に、銃声が鳴る。

 私は、動かなかった。今日は、脚が痛む。




 しばらくして、扉が開いた。誰かが短く叫び、すぐに静まった。

 若い秘書が青ざめた顔で飛び出してきて、別の者を呼んだ。


 こちらに何人もの人間が駆け寄って指示を仰いでくる。

 私は、それらにどういった答えを返しただろうか。

 とにかく、私の意識はその場に釘付けになっていた。


 総統の遺体は、布に包まれ出てきた。

 その顔は、陰に隠れて見えない。

 その姿勢、重さ、運び出す者たちのよろめき方。

 それら全てが、私の頭の中に「シーン」として記録されてゆく。


 ――ここで、カメラをどこに置くべきか。


 私は、考えずにはいられなかった。

 廊下の片隅、私が今いるこの位置か。

 あるいは、扉のすぐ側で、遺体の足元を追うローアングルか。

 銅像を背景に入れるべきか。ソ連の砲声をどれくらい音声に残すべきか。


 庭へ運び込まれる遺体を追うように、私は廊下を進んだ。

 外への出口の前で、ガソリンの匂いが強くなった。


 凡庸なエンディング。


 この幕切れを、私はどう演出し直すかばかり考えていた。

 映画のナレーションのように、この場面に言葉をあてがってみたくなった。

 独裁者の死を、誰が観ても心を震わせる名シーンに昇華するため、

 どんな嘘が必要なのか、思考を巡らせていた。


 ふと、誰かの視線を感じて振り返った。

 廊下の曲がり角のあたりに、ひっそりと1つの影が立っていた。


 ――ルドルフ。


 あり得ない。彼は「処分」されたはずだ。


 しかし、その男は観客席で、ただ鑑賞していた。

 私と目が合うと表情を変えず暗がりに消えた。



 ……私は、壊れ始めている。

 壊れかけの作家気取りほど、見苦しい存在もない。



 だが、これが私のベルーフだ。

 それは、呪いであり、救済でもある。



 その夜、私は机の前に座ったまま、しばらく鉛筆を握ることができなかった。


 総統の自殺。庭での焼却。地下壕の人々の狼狽と沈黙。

 これら全てを、日記にどう書くべきか。


 資料係の顔が思い浮かぶ。

 この日記を読む「読者」は誰か。


 敵国の歴史家か、後世の学生か、同じ地下壕で震える者か。

 それとも、死者なのだろうか。

 彼らは皆、私を憎み、ときに同情しても、決して許しはしないだろう。

 私は何百万人の命の責任の一端を負っているのだから。


 ならば、あまりにも陳腐で安全な嘘だけを並べ、

 彼らに失望を味わわせてやるのも一興だ。


 私は、ようやくペン先を紙に落とした。


「本日、総統は、祖国と運命を共にされた」

「総統は、敵の手に落ちることを拒み、自らの意志で死を選ばれた」

「総統のお遺体は、庭において火葬された」


 私は、わざと無表情に、そう書いた。

 書き終えると、指先から力が抜け鉛筆を取り落とした。

 

 本当の1行は、どこにも書かれていない。


『総統は、最後まで観客だった』


 それは、帳面の余白にしか刻まれていない。

 私の頭蓋骨の内側という、最も薄暗い資料室にだけ。



 ◇



 5月1日。


 日付を書いて、私は筆を止めた。

 今日は、書くべきことが多すぎる。

 それなのに、何1つ書く気力が沸かなかった。


 私は、礼装に身を包み、子供部屋を訪れる。


 6人の子どもたちは、私たちが入ってくると、一斉に顔を上げた。

 上の3人は、すでに私の目をまともに見ようとしない。

 下の3人は、まだ遠慮がちに笑いかける。


 上の子たちは、何かを察している。

 下の子たちは、まだ何も知らない。


 どちらが幸せかは、もう考えない。

 私は彼女らの顔を一人ずつ見た。


 末の娘、まだ4歳。その袖のほつれに私は微笑む。


 かつて私は、彼女らが物語の主人公になる未来を夢に見たことがある。

 悪人として、恋人として、兵士として、実業家として、

 私と対決するアナキストとして。


 もうそれは、永遠に存在しない未来。私は呟く。


「おやすみ。良い夢を」


 廊下に出る直前、

 注射を扱える歯科医と部屋へ入っていく妻の手元がちらりと視界に入った。


 同じく礼装に身を包んだ彼女の細い指が、小さなガラス瓶を握っていた。

 透き通った液体。

 私は、その瓶から目をそらした。


「犠牲」「悲劇」「運命」。そんな嘘を、頭の中から追い出すように。



 自室に戻ると、またルドルフがいた。椅子に腰かけ、ただ床を眺めている。


「生きていたのか。……それとも全て私の頭の中だけの亡霊か」


 彼は無表情に見つめ返してくる。


 私は妻の声を聴いた気がした。

 諧謔心が立ち上り、おどけて言う。


「時間旅行者、なんだろう?」


 私は帳面を差し出す。


「これは渡す。後は、好きにするがいい」


 彼は何も言わない。

 それでいい、と私は思う。


 すると扉が開き、妻が部屋に来た。着飾った礼装。

 細い指には、ガラス瓶。

 中身はもう、半分減っている。


 妻の視線が、椅子の上を一度だけ滑った。

 まるで空席でも見るように、何事もなく通り過ぎる。


 私は妻と手を取り、歩き出す。

 影は、動かない。



 地上への扉の前で足を止める。

 雨と煙と砲声が混ざった空気が、地下壕の匂いと入り混じる。

 私は誰にともなく言った。


「ここから先は、日記に書かない」


 妻が淡々と答える。


「じゃあ、未来の誰かが書くわね。

 あなたを憎み、分析し、笑って、ときどき同情して。

 ――でも、許さないまま。

 その余白に好きなだけ、罵倒や創作を書き込むのでしょうね」


 私は頷いた。

 ふと、あの日記の最初の1行が蘇る。


『きょうも、ベルリンは健在である』


 世界がどう崩れても、紙の上ではあの1文が真実だ。

 少なくともそのページを読んでいる間だけは。それは未来においても変わらない。


 扉が開く。


 灰色の空。濡れた地面。崩れかけた建物。


 私たちは庭に向かって歩く。

 ベルリンは、どこにも「健在」ではない。

 それでも紙の上では、永遠に健在のままだ。


 私がそう書いたからだ。


 その滑稽さと甘美さを胸の奥に隠し持ったまま、私は歩む。


 余白のまま残される自分の最期へ。


 誰ともしれぬ未来の読者へ向かって心の中で呟く。


『きょうも、ベルリンは健在である』



〈了〉



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