【短話版】【実話】冴えない理系大学生だった僕は、緑の瞳のギャルに「愛し方」と「捨てられ方」を教わった。――あれから12年、古都の冬に残る彼女の記憶

AKINA

【短編】 古都、十一月二十四日

【プロローグ】:聖なる夜の頂点


 2013年11月24日。


 古都の玄関口にそびえ立つ巨大な駅ビルは、光の洪水に溺れていた。4階から屋上までを貫く大階段には、見上げるほどの高さのクリスマスツリーが鎮座し、無数のLEDが冷たい夜気を焼き焦がすように煌めいている。


 周囲は幸福そうな恋人たちで溢れかえっていた。僕、秋元佑樹あきもとゆうきもまた、そのありふれた幸福な群衆の一人として、そこに立っていた。


 隣にいる彼女――美紅みくが、寒そうに身を縮める。


「うー、寒い……。ちょっと舐めてたかも」


 彼女は黒いレザージャケットを着ていたが、十一月の古都の盆地特有の底冷えは、その薄い革を容赦なく突き抜けてくるようだった。彼女の白い吐息が、イルミネーションの光に溶けて消える。


「だから言ったのに」


 僕は苦笑しながら、着ていたグレーのパーカーを脱いだ。幾何学模様の入った、僕のお気に入りの一着だ。


「ほら、着なよ」


「え? いいの? 佑樹が寒いじゃん」


「僕は平気だよ。男だし、代謝いいから」


 強がって見せると、彼女は少し驚いたように僕を見上げ、それから嬉しそうに目を細めた。


「……ん。ありがと」


 彼女は僕からパーカーを受け取ると、黒いレザージャケットの上から、不器用に袖を通した。華奢な彼女が着ると、僕の服は二回りほど大きく見える。袖から指先が少しだけ覗くその姿は、まるで彼氏の服を借りた女の子そのもので――いや、実際そうなのだが――その少し不格好で、けれどたまらなく愛おしい姿に、僕は胸の奥を強く鷲掴みにされたような痛みを覚えた。


 僕の服を着た彼女。僕の匂いと、彼女の甘いフローラルの香りが混じり合う。それは、世界で一番贅沢な「所有」の形に見えた。


 雑踏の中、誰も僕たちのことなど見ていない。みんな、自分たちの世界に夢中だ。だから、僕たちもそうすることにした。


 彼女がふと、顔を近づけてきた。緑色のカラーコンタクトを入れたその大きな瞳が、ツリーの光を反射して潤んでいる。そこには、僕だけが映っていた。


 言葉はなかった。吸い寄せられるように、僕たちは唇を重ねた。


 冷たい空気の中で、唇の熱さだけが鮮烈だった。一瞬の触れ合いではない。深く、確かめ合うような口づけ。周りの喧騒が遠のき、世界には僕と彼女、二人しかいないような全能感が全身を包み込む。彼女の冷たい鼻先が僕の頬に触れ、彼女の温かい舌が僕を甘やかす。


(ああ、幸せだ)


 心底、そう思った。この後、いつものように電車に乗って、山間部にある彼女の部屋へ帰るのだ。アロマの香りがするあの暖かい部屋で、誰にも邪魔されず、朝まで抱きしめ合うのだ。


 この幸せが、明日も明後日も、永遠に続いていく。僕たちは、この光の中で約束された恋人同士なのだと、僕は疑いもしなかった。


 ――それが、僕たちの「最後」になるとは知らずに。


 時計の針は、夜の八時を回ろうとしていた。


【第一章】:契約の予言


 あの日から遡ること7ヶ月。4月20日。季節は春。けれど、古都の春はまだ冬の名残を含んでいて、肌寒かったのを覚えている。


 僕たちの始まりは、街の中心を流れる川にかかる、古い橋のたもとだった。欄干に肘をついて川面を眺める女性の姿を見つけた時、僕は思わず足を止めて息を飲んだ。


 まだ当時にしては珍しく、アプリで知り合い、何通かのメールをやり取りしただけの相手。顔写真は交換していたけれど、実物は画素の粗い写メとは比べ物にならないほどのオーラを放っていた。


 アッシュブラウンに染められた、丁寧に巻かれた髪。ぱっつんに切り揃えられた前髪の下にある、切れ長の大きな目。彼女――美紅さんは、工学部に通う冴えない大学3回生の僕にとって、あまりにも「高嶺の花」だった。


「……あ、はじめまして。秋元です」


 恐る恐る声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。


「はじめまして、美紅です」


 その瞳を見た瞬間、僕は射抜かれた。緑色。日本人の黒い瞳ではない。透き通るような緑色のカラーコンタクトが、彼女のミステリアスな雰囲気を決定づけていた。


「ふふ、なんか緊張してる?」


 彼女が小さく笑うと、風に乗って甘いフローラルの香りが漂った。デパートの一階のような、華やかで、けれどどこか落ち着く、大人の女性の匂い。その匂いを吸い込んだ瞬間、僕のDNAが「この人だ」と叫んだ気がした。


 僕たちは、繁華街の路地裏にあるレトロなカフェを目指して歩き出した。隣を歩く彼女が気になって仕方がない。横顔が綺麗だとか、姿勢がいいとか、そんなことばかり考えて、僕は何度も彼女の方を盗み見てしまった。


 視線を感じたのか、彼女が不意にこちらを向いた。


「めっちゃ見るじゃん」


「えっ!?」


 悪戯っぽく指摘され、僕は顔が熱くなるのを感じた。


「あ、いや、その……綺麗だなと思って……」


「ふふ、ありがと。素直だね」


 彼女は余裕たっぷりに微笑んだ。その時すでに、主導権は完全に彼女の手にあったのだと思う。僕はただの手のひらの上の子犬だった。


***


 カフェは、鉄板に乗ったパンケーキが有名な店だった。カラフルでポップな内装で、僕一人なら絶対に入れないような場所だ。


「ここのパンケーキ、美味しいんだよ」


 向かい合わせに座った彼女は、ナイフとフォークを優雅に使ってパンケーキを切り分けた。僕はと言えば、緊張で味もわからなかった。彼女は僕と同い年だと言っていたけれど、その振る舞い、店員さんへの受け答え、そして僕を見る余裕のある眼差しは、どう見ても僕より精神年齢がいくつも上に見えた。


「佑樹くんは、大学で何してるの?」


「あ、えっと、工学部で……実験とか、レポートばっかりで……」


「へえ、理系なんだ。真面目そうだもんね」


 彼女は僕の「冴えない部分」を馬鹿にするどころか、「真面目」という長所として肯定してくれた。その包容力に、僕は少しずつ肩の力を抜くことができた。話せば話すほど、彼女の魅力に引き込まれていく。もっと知りたい。もっと一緒にいたい。気づけば、僕はパンケーキの甘さよりも、彼女の笑顔の甘さに酔っていた。


***


 店を出ると、日はすでに傾きかけていた。


「少し、歩こっか」


 彼女の提案で、僕たちは川沿いの河原へ降りた。等間隔にカップルが並んで座ることで有名な、あの河原だ。夕暮れの風は冷たかったが、隣を歩く彼女の存在が熱を帯びているせいで、寒さは感じなかった。


 歩きながら、僕は何度も彼女の手を見た。華奢な指先。繋ぎたい。でも、出会って数時間の僕が触れていいものだろうか。拒絶されたらどうしよう。そんな葛藤で、僕の視線は彼女の手と顔を行ったり来たりしていたのだろう。


 不意に、彼女が足を止めた。


「手、繋ぎたいの?」


「えっ」


 心臓が跳ね上がった。


「バレバレだよ」


 彼女はクスクスと笑うと、自分の方から僕の手を握ってきた。


「ほら」


「……!」


 柔らかくて、華奢な指。僕の無骨な指とは違う、壊れ物を扱うような感触。心臓が破裂しそうだった。女性と手を繋ぐこと自体が久しぶりだった僕にとって、それは劇薬にも等しい刺激だった。彼女は何も言わず、ただ前を向いて歩き出した。その横顔を見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、もう抑えきれなかった。


 空が藍色に染まり、街灯が灯り始めた頃。僕たちは河原の一角、誰もいないスペースを見つけて腰を下ろした。対岸のビルの明かりが、黒い川面に揺れている。周りには、幸せそうなカップルたちのシルエットが点々と並んでいる。僕たちも、その中の一つになれるだろうか。なりたい。いや、ならなきゃいけない。


 僕は、繋いだままの彼女の手を、ギュッと握りしめた。


「美紅さん」


「ん?」


 彼女がこちらを向く。逆光で表情は見えないが、あの緑色の瞳だけが、街灯の光を吸い込んで妖しく光っていた。


「……好きです。僕と、付き合ってください」


 声が震えた。断られるかもしれない。こんな素敵な人が、僕なんかの相手をしてくれるわけがない。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。


 その時だった。


 彼女がおもむろに立ち上がったかと思うと、座っている僕の膝の上に、向かい合わせになるようにして跨ってきた。


「えっ、ちょ、美紅さん!?」


 僕は狼狽えた。ここは屋外だ。周りには人がいる。だが、彼女はそんなことなどお構いなしだった。僕の首に細い腕を回し、全身の体重を預けるようにして、ギュッと抱きついてきたのだ。


「……!」


 柔らかい胸の感触が、僕の胸板に押し付けられる。鼻先をくすぐるフローラルの香りが、脳の処理能力を奪っていく。彼女の体温が、服越しにじんわりと伝わってくる。温かい。いや、熱い。


 彼女の唇が、僕の耳元に触れた。吐息がかかるほどの距離。彼女は、悪戯っぽく、けれど低く、熱を帯びた声で、呪文のように囁いた。


「いいよ。……でもね、佑樹」


 彼女の腕に力がこもる。逃がさない、とでも言うように。


「もし君が浮気したら、私なしじゃ生きられないくらい、惚れさせて、捨てるから」


 ゾクリとした。背筋に冷たい電流が走り、同時に下腹部が熱くなるような、奇妙な感覚。それは甘い愛の言葉というより、逃れられない「契約」の宣告だった。


 普通なら恐怖を感じるべき言葉なのかもしれない。けれど、二十一歳の世間知らずな僕は、その言葉に隠された深い情念と、僕という存在をそこまで強く求めてくれる独占欲に、どうしようもなく興奮していた。


「……分かった。浮気なんて、絶対にしない」


 僕は震える声で答え、彼女の背中に腕を回して抱きしめ返した。彼女は「ふふ」と満足そうに笑い、僕の首筋に顔を埋めた。


 これが、僕たちの始まりだった。いや、当時の僕はそれを「運命の恋」と呼んで疑わなかったけれど。いま思えば、あの瞬間、僕は彼女という飼い主に首輪をつけられ、そのリードを喜んで差し出したのだ。


 川のせせらぎと、遠くの車の走行音。そして腕の中にある彼女の体温。世界が、彼女を中心に回り始めた夜だった。


【第二章】:通い路と安息


 それからの僕の週末は、ある一つの「巡礼」のために捧げられることになった。


 僕が住んでいた市内にある学生アパートから、市バスに揺られて三十分。途中の駅で電車に乗り換え、そこからさらに四十分。古都の中心部から離れ、電車がトンネルを抜けるたびに、窓の外の景色は緑濃い山間部へと変わっていく。片道一時間以上、往復千円弱の交通費。当時の僕の薄い財布には決して軽い負担ではなかったけれど、その移動時間さえも、彼女に会うための助走だと思えば苦にならなかった。


 最寄りの駅に着くと、いつも彼女は改札の向こうで待っていてくれた。僕の顔を見つけると、パッと花が咲いたように笑って手を振る。その瞬間、一週間の実験やレポートの疲れが嘘のように吹き飛んだ。


 彼女のアパートは、駅から少し歩いた静かな住宅街にあった。ドアを開けると、ウッディなアロマの香りがふわりと鼻をくすぐる。森のような、静かで落ち着く匂い。それが僕にとっての「安息」の合図だった。


「いらっしゃい。お疲れ様」


 部屋のソファには、白くて大きなクマのぬいぐるみが鎮座している。


「こいつ、私の命の恩人なんだ」


そう言って彼女が笑って紹介してくれたそのぬいぐるみは、いつも変わらない呑気な顔で僕たちを見守っていた。


 彼女の部屋で過ごす時間は、どこまでも穏やかで、時間の流れがそこだけ止まっているようだった。彼女は料理が上手だった。派手な見た目とは裏腹に、出てくるのは「鰤の照り焼き」や「きんぴらごぼう」といった、心身に染み渡るような家庭料理ばかりだった。僕が「美味しい」と言って食べると、彼女は頬杖をついて、満足そうに僕が食べる姿を眺めていた。


 夜、お風呂に入るときも、彼女は当然のように一緒に入ってきた。最初は目のやり場に困って狼狽える僕を、彼女は面白がっていたけれど、やがてそれが当たり前になった。


「じっとしてて。洗ってあげるから」


 彼女は僕を椅子に座らせると、泡立てたシャンプーで僕の髪を洗ってくれた。細い指先が頭皮を優しく刺激する感触。お湯の温かさと、背中に感じる彼女の体温。僕は目を閉じて、されるがままになっていた。それは単に髪を洗ってもらっているという以上の、僕の抱える不安や疲れを、彼女がその手で丁寧に洗い流してくれているような、絶対的な慈愛に満ちた時間だった。


「私ね、人の頭を洗うの好きなんだ」


 そう言って笑う彼女の指先に、僕は身も心も委ねきっていた。自分が社会に出る前の「何者でもない学生」であることを忘れ、ただ一人の人間として愛され、許されている心地よさ。その湯気の中で、僕は彼女なしではいられないほど、骨の髄まで甘やかされていたのだと思う。


 週末が終わる夕方、駅の改札で別れる時の寂しさは、回を重ねるごとに増していった。早く週末が来ないか。早くあの部屋に帰りたい。気づけば僕は、大学にいる平日よりも、彼女の部屋にいる週末の方を、本当の自分の居場所だと感じるようになっていた。


第三章:聖域の深淵


 季節は巡り、夏。その日、僕たちの関係は、決定的な一線を越えることになった。


 久しぶりに街でデートをしようということになり、僕たちは夕食の後、夜景が綺麗だという駅ビルの屋上へ向かった。あの巨大な階段を登りきった先にある広場。しかし、そこは期待していたようなロマンチックな場所ではなかった。週末ということもあり、カップルで芋洗い状態だったのだ。


「……すごい人だね」


 彼女が苦笑いする。手はずっと繋いでいた。けれど、ベンチはおろか壁際すら確保できず、僕たちは人波に揉まれて立ち尽くすしかなかった。夜景は綺麗だったけれど、二人の世界に浸るには、あまりに騒がしすぎた。僕たちが求めていたのは、こんな煌びやかな喧騒ではなく、互いの呼吸が聞こえるほどの静寂だったのだと気づかされる。


「……帰ろっか」


 僕が肩を落として言うと、彼女も頷いた。人混みをかき分け、駅の改札へと向かう。いつもなら、ここで解散だ。僕は市内のアパートへ、彼女は郊外の部屋へ。名残惜しいけれど、明日は月曜日だ。


 改札の前で、繋いでいた手を離そうとした、その時だった。彼女が僕の手を、キュッと握り返してきた。


「佑樹」


 彼女が上目遣いに僕を見る。駅の雑踏の中、彼女の声だけが、鮮明に耳に届いた。


「……来る?」


 心臓が跳ね上がった。その短い言葉が、いつもの週末の誘いとは違う響きを持っていることを、本能が悟っていたからだ。今日は、ただ泊まるだけじゃない。もっと深い場所へ、彼女の心の奥底へ踏み込むことになる。そんな予感が、背筋を震わせた。


「……うん、行く」


 僕たちはそのまま、吸い込まれるようにホームへと降りた。いつもの電車。いつもの風景。けれど、車窓に映る僕たちの顔は、いつもより少しだけ紅潮していた。


 部屋に着き、お風呂から上がると、いつものウッディなアロマが焚かれていた。明かりを落とした部屋。一つの布団に潜り込むと、自然と体が触れ合った。彼女の肌は滑らかで、熱かった。僕たちは貪るように、互いの体温を確かめ合った。言葉なんていらなかった。ただ、お互いの寂しさを埋め合わせるように、存在を刻み込むように、深く繋がった。


 事後の余韻の中、静寂が部屋を満たす。彼女が僕の腕の中で、小さく呟いた。


「……ねえ、佑樹」


「ん?」


「私ね、二年くらい前までは、金髪で結構派手だったんだよ」


 僕は少し驚いて、彼女の顔を覗き込んだ。今は落ち着いたアッシュブラウンの髪。清楚な雰囲気すらある彼女が、金髪。


「想像つかないな」


「ふふ、怖かったかもよ? ……だからね、思うの」


 彼女は僕の胸に頬を擦り寄せた。


「その頃の私だったら、きっと佑樹みたいな真面目な人とは付き合ってなかった。すれ違ってたと思う」


 彼女は自嘲するように、けれど優しく笑った。


「タイミング、よかったね」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の中で彼女の存在が、ただの「憧れの人」から「愛おしい人」へと変わった。彼女には、僕の知らない過去がある。きっと、傷ついたことや、荒れていた時期もあったのだろう。けれど、今ここにいる彼女は、僕の腕の中で安らぎを求めている。高嶺の花だと思っていた彼女が、急に等身大の女の子として、僕の懐に入ってきたような気がした。


 胸の奥が熱くなって、僕は無言のまま、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。すると彼女は顔を上げて、僕をじっと見つめた。薄暗い部屋の中で、緑色の瞳が潤んで光っている。


 彼女は、僕の頬に手を添えて、吐息のような声で囁いた。


「好きだよ、佑樹」


 その一言で、僕の心は完全に溶かされた。不安も、自信のなさも、彼女の過去への嫉妬も、すべてが消え去った。ただ、彼女に愛されているという事実だけが、僕の存在意義のすべてになった。


「僕も……大好きだよ」


 僕たちは、もう一度深く口づけを交わした。アロマの香りと、彼女の匂い。この世界の中でなら、僕は永遠に幸せでいられる。そう信じて疑わなかった夜だった。


【第四章】:秋の深まり


 季節は足早に過ぎ、古都の山々が鮮やかに色づき始める頃。11月9日。その日のデートは、僕たちの9ヶ月間の中で、最も穏やかで、そして完成された一日だった。


 僕たちは少し足を伸ばして、紅葉の名所として知られる西の景勝地を訪れていた。有名な禅寺の庭園を歩く。赤や黄色に染まった木々が、池の水面に映り込んでいる。観光客は多かったが、不思議と気にならなかった。僕たちはしっかりと手を繋ぎ、時折立ち止まっては「綺麗だね」と笑い合った。


 川にかかる長い木造の橋を渡る時、彼女が言った。


「私ね、この橋を渡るのが好きなんだ」


 秋の風が、彼女の髪を揺らす。


「川風が気持ちいいし、なんだか背筋が伸びる気がして」


「うん、分かる気がする」


 僕たちは欄干に寄りかかり、流れる川を眺めた。4月に出会った頃の緊張感はもうない。彼女の横顔を見ていると、ただただ愛おしさが込み上げてくる。この穏やかな時間が、これからもずっと続いていくのだと、僕は疑いもしなかった。週末になれば彼女の部屋に行き、こうしてデートをして、また部屋に帰る。そのサイクルが、僕の人生の「日常」として完全に定着していた。


 帰り道、いつものように電車に揺られながら、彼女が僕の肩に頭を預けてきた。


「……眠い」


「寝てていいよ。着いたら起こすから」


「ん……ありがと」


 彼女の規則正しい寝息を聞きながら、僕は幸せを噛み締めていた。彼女は僕を信頼してくれている。僕も彼女を守りたいと思っている。何もかもうまくいっている。そう信じていた。


【第五章】:閉じた扉


 そして、運命の11月24日がやってきた。


 前日の23日は祝日だった。僕はその日から彼女の部屋に泊まり込んでいた。部屋の中は暖かく、平和だった。彼女がキッチンでコーヒーを淹れている間、僕はソファに寝転がり、あの白いクマのぬいぐるみの写真を撮って遊んでいた。ファインダー越しの、のんきなクマの顔。背景には、彼女の部屋のカーテンと、柔らかな日差し。この瞬間を永遠に閉じ込めておきたいと思うほど、満ち足りた午後だった。


 翌24日の夕方。


「ねえ、駅ビルのツリー、見に行かない?」


 彼女の提案で、僕たちは部屋を出た。いつもの電車に乗り、古都の玄関口へ向かう。


 駅ビルはクリスマスムード一色だった。少しリッチなディナーを楽しみ、ほろ酔い気分で大階段へ向かう。巨大なクリスマスツリーの前で、僕たちは足を止めた。


 寒がる彼女に、僕は着ていた幾何学模様のグレーのパーカーを貸した。黒いレザージャケットの上に、僕のパーカーを羽織る彼女。その姿がたまらなく愛おしくて、僕は人混みの中で彼女にキスをした。彼女も、それを受け入れた。冷たい空気の中で触れ合う唇の熱さ。世界中で僕たちだけが、本当の愛を知っているような気がした。


「……じゃあ、そろそろ帰ろっか」


 余韻に浸りながら、僕は言った。当然、彼女の部屋に一緒に帰るつもりだった。明日の朝、そこから大学へ行けばいい。


 僕たちは手を繋ぎ、駅の改札へと向かった。いつもの、西の山間部へ向かうホームへの入り口。夏のあの日、彼女が「来る?」と招き入れてくれた、幸福へのゲート。


 僕が改札を通ろうとした、その時だった。


 繋いでいた手が、動かなかった。振り返ると、彼女が立ち止まっていた。


「……美紅さん?」


 彼女は僕の手をゆっくりと離した。そして、羽織っていた僕のグレーのパーカーを脱ぎ、丁寧に畳み始めた。


「あれ、どうしたの? まだ寒いよ?」


「ううん。もういいの」


 彼女はパーカーを僕の胸に押し付けるようにして返した。そこには、彼女の体温と、フローラルの香りが色濃く残っていた。


 彼女は、緑色の瞳で僕をまっすぐに見つめた。その目は、さっきキスをした時の甘い瞳ではなかった。出会った頃の、あの射抜くような、何処か遠くを見ているような目だった。


「佑樹」


 彼女の声が、雑踏の音を切り裂いて届く。


「今日は、帰って」


 僕は言葉の意味が理解できず、ポカンとした。


「え? どういうこと? 明日早いとか?」


「違うの」


 彼女は首を横に振った。そして、静かに、けれどはっきりと言った。


「今日を、最後にしよう」


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。最後? 何が? 今日が? 僕たちが?


「……またまた。何言ってるのさ」


 僕は引きつった笑顔を作った。きっと、いつもの悪戯だ。「惚れさせて捨てる」と言ったあの時のように、僕を試しているんだ。ここで縋ったり、動揺したりしたら、格好悪い。


「冗談でしょ? さあ、行こうよ。電車来ちゃうよ」


 僕は再び彼女の手を取ろうとした。けれど、彼女はその手をそっと避けた。


「元気でね、佑樹」


 彼女はそれだけ言うと、踵を返した。振り返る彼女の顔はとても寂しそうだった。改札の向こうへ。彼女だけがゲートを通過していく。


「ちょ、美紅さん!」


 僕は叫んで、改札を越えようとした。物理的には、追いかけることなんて造作もないことだったはずだ。けれど、足が動かなかった。


 彼女の背中が、あまりにも遠く見えたのだ。彼女が纏う空気が、全身で「来るな」と拒絶していた。ここから先はあなたの居場所じゃないと、目に見えない分厚い壁で隔てられたような、圧倒的な圧力を感じて、僕は一歩も踏み出せなかった。


 彼女は一度も振り返らなかった。黒いレザージャケットの背中が、人混みの中に紛れ、やがて見えなくなった。


 手元には、返されたパーカーだけが残っていた。抱きしめると、彼女の匂いがした。ついさっきまで、あんなに幸せだったのに。どうして。なんで。


 僕は呆然と、彼女が消えた改札を見つめ続けることしかできなかった。



【エピローグ】:十二年後の答え合わせ


 あれから、彼女とは一度も会っていない。


 あの日、僕は何度もメッセージを送った。


「どういうこと?」

「話し合いたい」

「会いたい」


 既読はつかなかった。電話も繋がらなかった。クリスマス用に用意していたプレゼントのネックレスは、渡せる相手を失ったまま、机の引き出しの奥で眠ることになった。


 年が明け、1月になり、2月になっても、彼女からの連絡はなかった。僕は徐々に悟らざるを得なかった。あれは、「試し行為」でも「一時的な喧嘩」でもなく、彼女の固い決意による「切断」だったのだと。


***


 あれから十二年。2025年。僕は今、家庭を持ち、二人の子供の父親になっている。仕事にも恵まれ、慌ただしくも幸せな日々を送っている。今彼女がどこで何をしているのか、僕には全くわからない。


 僕の部屋の棚には、一つだけ、当時の名残がある。彼女が初めてプレゼントしてくれた、アンティークな置き時計だ。カチ、カチ、と正確なリズムで、それは今の僕の時間を刻んでいる。


 彼女は最初に出会ったあの日、「浮気したら捨てる」と言った。僕は他の女性を見たりなんてしなかった。でも結局捨てられた。ただ今なら、分かる気がする。あの頃の僕は、彼女と対等な恋人なんかじゃなかった。彼女という安らぎの場所に、ただ無邪気に甘え、寄りかかっていただけの「子供」だったのだと。


 それに、僕は彼女に「依存」していた。僕は、「対等なパートナーとしての僕」を裏切り、「守ってもらうだけの子供」へと逃げ込んでいた。それは、彼女が求めた「大人の付き合い」に対する、ある種の「浮気」だったのかもしれない。


 だから彼女は約束通り、僕が彼女なしでは生きられないほど骨抜きにされたタイミングで、僕を捨てたのだ。


 僕は、彼女の深い部分を何一つ知らなかった。彼女が抱えていた事情も、笑顔の下にあった寂しさも。知ろうともせず、ただ与えられる優しさに溺れていただけだった。


 彼女は、そんな未熟な僕を見限るのではなく、愛情を注ぎきった上で、心を鬼にして突き放したのだ。


「これ以上、私に依存してはいけない」


「次はちゃんと、一人の男として、誰かと向き合いなさい」


 あの別れは、彼女が僕に課した、最初で最後の「教育」だったのかもしれない。


 ……いや、まだ僕は歩き出せていないのかもしれない。ふと首元に手をやると、彼女との日々の記憶が、見えない重みとなって残っているのを感じることがある。でもそれは、僕を縛る鎖ではない。僕が道を踏み外さないように守ってくれる、大切なお守りだ。


 遠い空の下、彼女は今、どこで何をしているだろうか。あの緑色の瞳で、誰かを見つめ、幸せに笑っていてくれるだろうか。


 ありがとう、美紅。君のおかげで、僕は今、幸せだよ。


 どうか君も、お幸せに。


 時計の針が、静かに時を刻み続けている。


(完)


【あとがき】


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


実はこの物語は、12年前に私が体験した出来事をベースにしています。 先日、家族旅行で思い出の駅に降り立った時、あの大階段を見て、当時の記憶が鮮明に蘇ってきました。


当時の私は若く、未熟で、彼女にただ甘えているだけの子供でした。 突然の別れに納得できず、追いかけることさえできず、ずっと心におりのようなものが残っていました。しかし、12年経った今、ようやく彼女の本当の優しさに気づけたような気がします。


彼女は私を捨てたのではなく、未来へ送り出してくれたのだと。


この小説を書くことは、私にとって12年越しの「答え合わせ」であり、彼女への『謝罪文』と『感謝状』でもあります。 もし、どこかで彼女がこれを読んでくれていたら。 「立派になったね」と、あの頃のように笑ってくれたら嬉しいです。


読んでくださった皆様にも、大切な人との時間が、温かい記憶として残りますように。


*星評価、フォロー、感想なんかもお待ちしてます。この作品がどう受け止められたのか、私は知りたいです。


*万に一つ『当事者』の方が見つけてしまった場合でも感想ウェルカムですので。

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