第2話 たすけて行政!
「つまり、これがその……幻の柿というわけですね?」
町役場環境課職員・山田は、半信半疑で眼前の柿を見つめた。確かに地理的には村の中央に存在し、下に祠もあったが、深い山奥、崖沿いの険しい斜面にその柿の木はあった。樹齢数千年とも言われるその柿の木は、山田がこれまでに見たどの木よりも堂々としていて、どこか厳かな雰囲気すら漂わせている。
裏手に広がる柿畑は、丹念に手入れされ、美しい姿を見せていた。枝々にはみずみずしく鮮やかな柿の実が輝き、程よい重みでふっくらと実っている。果実は一つひとつが完璧に熟れ、甘く爽やかな香りが辺り一面に漂い、心地よい空気を満たしていた。
この町で柿農家を営んでいる蟹井が苦渋に満ちた表情で呟いた。
「ええ、この柿はわが一族が代々守り抜いてきました。効能はそれはもう絶大で、どんな病にも効き目があるんです。……だからこそ、猿田に騙されて奪われたときは、目の前が真っ暗になりましたよ」
その横では、この辺りの地域を地盤とする衆議院議員・富田が腕を組み、深刻そうに何度も頷いていた。
「職員さん、この問題は単なる詐欺事件という枠を超えていますよ。柿自体が町の……いや、日本の財産とも言える。あの詐欺師の勝手な振る舞いを、行政が許すわけにはいかんのです!」
富田議員の鼻息は荒い。どうやらこの問題を議会に持ち込み、存在感を示そうという腹らしい。しかし山田にとって、この柿が「日本の財産」と言われても、率直に言って困惑するばかりだ。彼が役所で取り扱う問題と言えば、野生のサルが家庭菜園を荒らしたとか、ゴミ捨て場に出没した程度の話だったのだから。
詐欺事件を環境課にどうしろというのか。とはいえ国会議員まで出てきている、何かをするしかないだろう。何かを。山田は渋々スマホを取り出して役場の環境課長に電話を入れた。
「課長、例の万能柿の件ですけど……ええ、現場に来てますが、まぁ普通の柿にしか見えないです。え?写真ですか?えっと、撮ってはみますが、ほんとに普通の柿です……いえ、私も食べてませんよ!?」
不意に真面目な山田の態度が崩れ、滑稽さがにじむ。電話を切ったあと、山田は気まずそうに咳払いをして、蟹井に向き直った。
「えーっと、確認しますが、この柿の科学的分析とか、鑑定書みたいなものはないんですか?」
蟹井はあからさまに嫌そうな表情になった。
「柿の木は神聖な存在で、科学などという俗っぽいものでは説明できん!学者どもは普通の柿だと言ってくる!毎回!!普通だとな!!この柿を!!!」
山田は慌てて手を振った。
「いえ、私もそういうことを言いたいわけじゃなくて……でも行政手続き上、薬効があるかどうか、証拠が必要でして……」
議員が割り込んできた。
「役所の手続きとか、証拠とか、そういう形式論にこだわっている場合じゃないでしょう!実際にあいつは柿を売りさばいているんですよ!」
山田はうんざりし始めていた。役所というところは、形式にこだわらないわけにはいかないのだ。どんなに特別だと言われようと、所詮はただの柿。証拠もなく、被害額も算定できないままでは、どの手続きも進められない。心の中で軽くため息をつき、再度、柿の木を見上げた。
木漏れ日の中で、柿の実は確かに美しく輝いている。それでも山田には、これが『万能』かどうかなど、とうてい信じられなかった。
*
役場に戻った山田を待っていたのは、すでに深刻な雰囲気に包まれた会議室だった。環境課長の前田を中心に、農政課や地域振興課の職員も集まっている。議論の焦点は、もちろん柿を転売した猿田という男への対応だ。
「……それで、山田君。この猿田という男だけど、具体的にどんな罪状になるんだ?」
前田が疲れ切った声で問いかけると、山田は苦々しくスマホのメモを読み上げる。
「課長、猿田は蟹井さん宅から『万能柿』を騙し取りまして、半分は転売しています。一応、警察も詐欺罪や窃盗罪を検討していますが、これが実に微妙でして……」
保健所の中堅職員が目を瞑りながら言った。
「食品衛生法にしても薬機法にしても、結局『万能柿』そのものが違法成分を含んでいるわけではない以上、流通差し止めは難しいですよ。そもそも猿田が転売した際の商品説明を見ましたけど、『医薬品的効能』や『病気が治る』などの明確な違反表現もなく、『体に良いとされる希少な柿』という曖昧な言い回しに留めている。これだと誇大広告や薬機法違反にも該当しない。正直、法律の抜け道を巧妙に突いてきていますね……」
若手職員の佐藤が手を挙げた。
「蟹井氏に町が被害額を補填する、というのはどうでしょうか」
同じく農政課の年配職員が眉をひそめて口を挟んだ。
「補填ね、そもそも根拠がねぇ……。それに、行政としては、どんな作物でも市場価格で判断するしかないからね、フリマアプリで高値だろうが、スーパーで安値だろうが、10年周期でしか実らなかろうが、実際の価格が証明できなきゃ算定不能だ」
山田は気まずそうに頷いた。
「それが最大の問題でして、アプリ上では1個500万円近い値が付いていますが……。ただ、現実の価格は……まあせいぜい100円程度でしょう」
部屋の空気が、さらに重苦しくなった。
地域振興課の若手女性職員が、小さく手を挙げて発言する。
「あの、それに猿田さん、X(旧Twitter)で『役所が柿を管理しないから、善意で困っている人々に提供した』って大々的に訴えてます。しかも『町が権力で柿を奪おうとしている』なんて投稿してて、すごく拡散されてますよ」
全員が一斉にため息をついた。SNSという舞台は役所の論理がまったく通用しない、完全な別世界だ。感情と共感が支配する世界で、法律や規則にこだわる役人は無力だった。
農政課の職員が再び口を開いた。
「この柿が『万能』だという科学的根拠があるなら、農林水産省や厚生労働省とも相談できるけど、蟹井さんがいうにはいくら分析しても普通の柿なんだろう? 科学的な証拠がなきゃ、行政も法的に動けないよ」
山田は申し訳なさそうに頷いた。
「しかも、猿田は『半分は自分の病気に使った』『残り半分は善意で提供』と言い張ってますから……詐欺で立件しても検察が『故意』を認定しにくいらしいです」
前田課長が椅子に背をもたれかけ、目を閉じて深く息を吐いた。
「形式論に陥ってるって批判されるのは承知してるけど、行政はあくまで法と規則の範囲内でしか動けない。すぐにでも販売を止めたいってのはわかるけどさ、国会議員まで引っ張ってきて、俺たちにどうしろっていうんだよ」
そのとき、廊下から激しい足音と共に議員の富田が現れ、会議室に怒鳴り込んできた。
「ちょっと皆さん!いったい何を悠長に話し合ってるんですか!猿田がXで『行政が私を迫害しようとしている』と騒いで、炎上してますよ!」
富田の声に職員たちは表情を引き締めるが、課長の前田は冷静さを崩さなかった。
「富田議員、落ち着いてください。行政が焦って対応を間違えれば、さらに悪化します。猿田氏を即時に捕獲……いや逮捕というか、拘束というのも根拠がないと難しいんですよ」
富田が机を叩いて怒鳴った。
「根拠?町が笑いものになっても『根拠』が必要なんですか?!」
前田は静かな口調で切り返した。
「我々行政は『根拠』に従うしかないんです。『万能柿』という特別なものを扱う根拠がないからこそ、猿田氏の行為が『特別な犯罪』として扱えない。このジレンマは理解してください」
富田は悔しそうに歯ぎしりをし、職員たちは重い沈黙のなかで視線を落とした。
山田はスマホに届く通知を見つめる。猿田の投稿に大量の『いいね』がつき、行政批判のコメントが増えていく。実際には猿田への『いいね』は賛同の意味ではなく、晒し上げられたその投稿の既読マーク程度の意味しかなかったのだが、今仮の矛先が猿田に向いているだけで、それが行政に向けられるのは時間の問題だと思われた。
*
翌朝、役場の玄関前は早くから大勢の人々で騒然となっていた。
「俺たちの税金で飯食ってるくせに、仕事しろ!」
「猿田を今すぐ捕まえろ!」
「柿は町の財産だろ!勝手に転売されていいのか!」
詰めかけた町民たちが掲げるプラカードには、『猿田を捕まえろ』『万能柿を守れ』というスローガンが鮮やかに躍っている。山田や前田課長をはじめとした職員たちは、玄関前に立たされ、困惑した表情で住民たちと対峙していた。
「皆さん、落ち着いてください!町も全力で対処しています!」
前田がマイクを握り、声を張り上げる。しかし群衆の熱気は収まる気配がない。
その中から、一歩前に出てきたのは蟹井だった。蟹井は険しい顔で前田に詰め寄る。
「課長さん、行政は一体なにをやってるんだ?うちの柿が盗まれて、それを転売されたんだぞ!あの柿を、我が町の、いや日本の誇りが!」
蟹井の声は怒りと悲しみに震えていた。前田は頭を下げ、冷静に対応を試みる。
「蟹井さん、私どもも事情は理解しています。ただ、行政には法律や規則というものがありまして、証拠や根拠が明確でない限り、強引な措置を取ることはできないんです」
蟹井はさらに顔を紅潮させて叫ぶ。
「証拠?根拠?それがなければ動けないというのか!柿が盗まれ、町が混乱している。それが証拠であり根拠じゃないか!」
前田は肩を落としてため息をついた。
「お気持ちは分かります。ですが、お話を伺っている限り所有権の移動は明確ですし、販売を止めるにしても『万能柿』というのは法律上、ただの柿でしかないんです。薬として扱うには薬事法や食品衛生法、農産物としてなら農業関係の法律、文化財なら文化財保護法など、どの法律を適用するにしても説明が求められる……」
「法律なんてどうだっていいだろう!」
群衆から誰かが怒鳴り、同調する叫び声が上がった。
「そうだそうだ!役所はいつもそれだ!法律だの根拠だの言って結局何もしない!」
前田は必死に理解を求める。
「いいですか、もし役所が『根拠なし』に柿を万能薬だと認定してしまったら、後で大きな問題になります。行政は前例のないことはそう簡単には動けないんですよ!」
蟹井は絶望的に頭を振った。
「つまり役所は何もしてくれないと、そういうことなのか?」
前田は沈黙した。山田が代わって小さな声で説明を補足する。
「蟹井さん、現実問題として、猿田氏は柿を『半分だけ』フリマアプリで売っています。しかも『自分の病気のため』『善意で他者に提供』と巧妙に主張しています。彼が詐欺的な意図を持っている証拠を示さないと、警察も動けないんです」
蟹井は呆然とした顔で空を仰いだ。
「半分だけ……。その残り半分は冷蔵庫に隠して、次のタイミングを狙っているに決まってる!あいつは詐欺師だ!」
山田は悔しげに唇を噛んだ。
「ですが法律上、『彼の行為が違法である』と証明する明確な根拠が、いまのところ不足しています……」
そして気まずそうな声でこう続けた。
「あの、大変申しづらいのですが……私どもに訴えるのではなく、民事訴訟でまずはその……解決を……」
群衆のざわめきが大きくなり、人々の失望と怒りが役場を包み込んだ。
山田は、自分たちがまるで無能な悪役であるかのように感じ、やりきれない気持ちだった。
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