猿蟹合戦
てててて!
第1話 蟹一家と幻の柿の伝承について
むかーしむかし、あるところに
深い谷間に抱かれた小さな村があった。村の真ん中には、かつて神社の御神木とされていた古びた柿の木が一本、悠然と立っている。樹齢千年とも、あるいはもっと古いとも言われるその巨木の足元には、風雨に晒されて苔むした祠がひっそりと寄り添っていた。
この村で代々柿の世話をしてきたのは、蟹一家だった。
父ガニは朝早くから柿の木に登り、一つひとつ慎重に柿の実を摘み取っていた。
それは10年に一度、この神木だけが実らせる『万能柿』だった。
遠くで蝉の声が響く夏の日差しの中、その柿の実はまるで宝石のように美しく光っていた。
父ガニは丁寧に収穫した柿を籠に入れながら、「これは、ただの柿ではないぞ」と子ガニたちに語りかけた。
「ずっと昔、この村が大病に襲われたとき、我々の先祖がこの柿の実を食べたところ、たちまち病が退いたのだ」
それを聞いて、子ガニの一匹が興味深げに首を傾げた。
「でもお父さん、普通の柿にしか見えないけど、本当に病気が治るの?」
父ガニはゆったりと首を振った。
「そこが不思議なところだ。何度も科学者が調べたが、見た目も成分も、まったく普通の甘柿と変わらない。だが、それでもなぜか万病に効く。世界には科学で説明できないものがあるのだよ」
父ガニの言葉に、子ガニたちは神妙な顔つきで頷き合った。
実際、研究機関や大学がたびたびこの柿を調べに村を訪れていた。白衣を着た研究者たちは初めこそ興奮してサンプルを採取して帰ったが、分析結果はいつも同じ。「ごく普通の甘柿」。それにもかかわらず、村人たちは「万能柿」を疑わなかった。いや、疑うことができなかった。なぜなら現に何人もの村人がこの柿のおかげで命を救われたと言い伝えてきたからだ。
人類が築き上げてきた科学的知見というものが、万病を治す柿一つすら解明できないとは、まったく不思議なものだ。
夏の日差しが翳りを帯び始めた頃、村の入り口の坂道を、痩せこけた猿がよろめきながら登ってきた。猿は旅装束を纏い、見るからに哀れな姿であった。やがて村の広場までたどり着くと、ひざまずいて両手を腹に当て、苦しげな表情で呻き始めた。
「助けてください、誰か……腹が、腹が痛いんです……」
村人たちは驚いて猿を取り囲んだ。子ガニたちも遠巻きに心配そうな顔をして覗き込んでいる。猿は苦しげに呻きつつ、ちらりと周囲を伺いながら言葉を続ける。
「噂を聞いてこの村に来ました。万能柿があれば私の病も治ると聞いて……」
父ガニが渋い顔をして進み出た。「万能柿」は村の宝、そう簡単には渡せない。猿を怪しむ父ガニに、猿は巧みに言葉を繋ぐ。
猿は苦しそうに腹を押さえながら、震える声で父ガニに訴えた。
「どうか、どうか柿をひとつ分けてください……余ったら子供にでも食べさせますので、ほんの一つだけ……」
父ガニは眉をひそめて考え込んだが、目の前の弱々しい猿を見ると、とうとう情にほだされてしまった。
「……わかった。ただし一つだけだぞ。これ以上はやれん」
父ガニが頷くと、子ガニがそっと柿を一つ差し出した。猿は震える手で受け取り、涙ぐみながら丁寧に懐の袋へしまった。
「ありがとうございます……これで命拾いします。本当に、本当に助かりました」
その言葉に村人たちは安心した笑顔を浮かべ、父ガニもまた、自分の行動に満足感を覚えていた。やがて猿は何度もお辞儀をしながら村を去っていき、その姿が坂の向こうに消えるまで、なども振り返ってお辞儀した。村は、誰もが善行をした心地よい満足感に浸っていた。
だが、猿は村から十分に離れた途端に地べたに座り込み、懐から柿を慎重に取り出すと、スマホで何枚も写真を撮り始めた。そして即座にフリマアプリに出品したのだった。
商品名は『万能柿(奇跡の実)』。
『民間伝承で万病に効くとされたあの伝説の柿。超希少品のため、即購入推奨です。価格:500万円』
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