1 - 迷子

すみません。迷子になってしまったのですが。


正直、この時点でこの子はどこかおかしいのではないか、と思ったわ。考えてもみて、ここで、ここから?迷子になることなど到底考えにくいもの。迷子からさらに迷子になること、という程度は、まあ観念出来ないというわけでもなさそうだけれど……その場合はやはり、ちょっと気の利いた別の言い方になるのではなくって?


すみません。迷子になってしまったのですが。


ここで疑念がほとんど確信に変わったの。文脈上確かに明確におかしいとは言えないラインかもしれない。でも人間は、普通そういうことってしないのよ。

というか、全然こちらの方が致命的なのだけれど、二回目の坊やの発言は、先ほどのものと語気や抑揚が全く同じだったように聞こえたの。

何か、先ほどの発言をコピーアンドペーストするようなやり方で喋ったのではなくって?坊や、人間にはそういうことってできないのよ。


…………


黙りこくっちゃって。いつもの私ならこの手合いは無視して進むべきだ、となると思うのだけれど、丁度一時的に足を失うことになっていたから、それこそいい感じにあしらう必要があったの。


目的地が右か左か分からなくて。


その二択になることは無いのよ。もうまともな分かれ道なんて無いのだし、無いと言ってしまって差し支えないでしょう。


単純化したくて、その


「そもそもどこに行きたいの?」


結局話しかけてしまったわ。はあ、たしかに口に出すことと考えることの境界はどんどん失われてしまっているけれど、それでも尚、口は十分にわざわいの元だっていうのに。というかだからこそなのかもしれない、わね。形骸化したことをわざわざする。どのような意味があって?


あの、わからなくて。


「あら、自分探しとでも言うつもりかしら?」


その場合損切りが必要かと思うのです


無視してきたわねこの、いいや、絶妙に返答としても解釈できる……かしら。


こういうことは、一般に難しいんです。


難しい。それは勿論そうでしょう。この世の中でどこか分からない特定の地点に至ろうとすることも、自分探しも。そこまで言ってしまって、はてさてこの二つの区別はどうすればつけられるのかしら?いささか陳腐にも見える響きだけれど。


でも動くしかないと思います。


「そうね、それで右か左に、ということかしら」


はい


「迷ったりせず直進したらどうかしら。単純距離を増やすことにしか意味がなさそうよ。それ」


私も直進することになっている。私のように目的地が分かっている場合であっても見かけ上戦略が一致することになる。


右か左か選んだあとは、直進することになるかと思います。


「前後で迷わないのはどうしてかしら」


違いがないからです。


「違いが……?」


全然意味が分からない。何と何が?何との対比でかしら?


シンプルです。前後って何が違うのかあまりわからなくって。


「入れ替えにおいて対称性がある、みたいな話かしら?」


多分違います、なんだろう、前後は経由するものでしかない、としか


ううん。

全然意味が分からないわ。もっともこの手の手合いに対して、部分的にすら会話が成立することの方が珍しいのだけれど。もしかして、こういうタイプが一番厄介なのかしら。


とりあえず、我々は決断する必要があります。


”我々は?”いつから私が、……私を指してるとも限らないかしら。


「ビュリダンのロバになるわけにはいかないってことよね」


ビュリダンのロバ?


「いいわ、大した話じゃないの。でもそうね。早く選んだ方が良いように見えるわ」


斜め上の迷い方をしてしまっている少年を見て、ふと思う。いつの間にかちょっと本気で心配になってしまっている自分がいる気がする。それが何か恥ずかしい。これが母性本能とかそういうやつだったりして、バカバカしいことこの上ないわね。


良いことを思いつきました。


表情が離散的に変わったように見える。まあ、この子は全体的にそんな感じなのでしょう。


貴方に決めてもらいたいです、そうしないと、始まらない。


「何故かしら?」


差があるとは思えないからです。


もう完全にビュリダンのロバじゃないの。ここまでそうだとは思いもしなかったわ。でも、ああ、確かに違う点もあるわね……


急に話が変わってきた。私は空を一瞥する。


そう、左右の道の先どちらにも干し草があることは別に確定していない。まるで、ね。これはどっちでもいいのに片方を選べないみたいな、そんな簡単な話ではないの。端的に言って、私がこの子の運命を完全に決定づけるかもしれない。


別にかまいません。選べないことが問題なのです


「けれど、私にとってもビュリダンのロバであることに変わりはなくって?問題が先送りになっただけではないかしら」


そうですね、僕の行く末とあなたは関係ないので、どうでもいいからこそ選べたりしませんか。


「……」

そんな、急にある種まともなことを言う。観念的に過ぎて止まらないところで止まっていた矢先にそんな普通のことを言われても、と正直思わざるを得なかったわ。

そりゃあ別に、できるわよ。適当に言うことはできる。現に。

しかしそれは何かしらの矛盾をはらんではいないのかしら。選択ができないとき、選択を託すことならできるといった論理はどこに存在するのかしら。別にはらんでいたところで私には関係ないのではなくって?というかビュリダンのロバの意味知ってるんじゃない。何よ。


ちなみに一応言っておくと、東西南北は相対的な概念なので使えません。


全然聞いてないし意味が分からないわね。

無視して、どうしたものか考える。考える?果たしてそんな必要があるのかしら。足はもう治っている。全て無視して進んでしまって構わないのかもしれない。自分はそうしたいのではないかしら?トロッコ問題でもレバーを引かないことをどちらかと言うと選びたい側の人間だと自負していて、人一人?の人生?を決定つけることなどしたくはないの。きっと他人にとって私が完全な偶然性になるためには、少しばかりの関心もあってはならないの。石ころを蹴り飛ばすようにこの子の道筋を決められればよかったのにね。思考実験ですらそうはできない。

そう、まだ色々なものがまともだった小さい頃、帰り道でよく小石を蹴り飛ばして遊んだわ。ある程度ランダムな軌道を描いて飛んでいく石ころに依存して動く私。とは言ってもそこまで逸脱した方向に飛んで行ったりしないから、迷子になんてならないのだけれど。


ふと、


そこまで考えて、たしかに……直接は関係ない、のだけれど、私はとあることを思いついたの。

何故かね。


「ねえ」


なんですか。


この子はずっと同じ調子だったわ。こんな感じ。このあり方。


決まりましたか。


そう、こちらに顔も向けないこの子を見て、気づいたの。


「あなた、私と一緒に来ない?」


丁度、私の進行方向は彼にとっての左だったの。

私の進行方向は完全に彼にとっては偶然性だけれど、一緒に行くということには必然性がある。迷子になった子のため、ある程度ついて行ってあげる。普通のことよね。なんでこんな普通の面倒なことを言い出したのかしら?よくわからないけれど。確かに色々よく分からないけれど、恐らくこれは機能するわ。そしてそれで十分なの。


意味が分かりません。


「何がよ。わざわざ繰り返すけど、私の進行方向はあなたにとっての左なの。だから左にしておきなさい」


よく分かりません。


「何がよ!」


でもありがたいです。


「何がよ」


やはり思うのです、どう頑張っても自分一人では決められなかったのです。

僕はそういう風に決定づけられた存在でした。貴女がいなかったらずっと。

本当に、ありがとうございます。左ですね。


何がよ。大したことはしていないわ。

本当によく分からない。よく分からないがそれでいいと思える。

何が分からないのかも分からないような相手だけれど、互いに一人であるよりはいい。そんなひどく凡庸な感覚に陥っていて、それだけだったの。


「それじゃあ行くわよ」


はい。ありがとうございました。


私は彼の手を引いていこうとした。した。

──取った。刹那。


「……ッ!!」


思考を超えた速度でつかもうとした手が弾き飛ばされる。視界ごと斜め上に体が浮く。体内外一緒くたに全バランスを崩し、弾き飛ばされた手を下敷きにするように倒れこむ。人体の限界を超え明後日の方向を向いた腕に全体重というさらなる負荷が容赦なく。激痛。痛みより嘔気に近いタイプの。


大丈夫ですか?


直後少年の声と、自らの声にならない声に息を切らせる。冷静になれ。ああ、何でだ、何が


大丈夫ですか?


何だやっぱり無視するべきだったんだ。何であんな、クソ、何も、どうしてこんな。痛い。痛い。


大丈夫ですか?


怖い、殺される。「大丈夫ですか」だなんて、考える限りで最悪なセリフだ。顔を上げたくない。痛い。


意識が曖昧になっていく。


大丈夫ですか?


理解を拒絶。同じ声。


大丈夫ですか?


曖昧になる。輪郭を持った曖昧さがさらなる曖昧に溶ける。


大丈夫ですか?


恐怖と激痛のさなか、視界は混濁し、闇へと落ちていく。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


何もないところの過多から初めに痛み。自他押し並べて何者かも判然としない段階からの、認識外の次元からの分割不能な一撃。伴って目を覚ます。

痛い。何が。誰が?

段々と思いだす。眠気と痛みによる意識の明瞭さのトレードオフを以てして、日常的なスケールが認識に顔を出す。

思い出す、思い出せる。自分のこと、訳の分からない少年のこと。何かしらの攻撃を受けたこと。混濁しつつ未だ判然とせず夢なのではないかと思うし、そう思って無理もない内容ではないか、と思う。ここはどこなのか。

ふと顔を上げる。すぐに目に入る異質なもの。取り立てて言及するまでもなく間違いなく異質なものが映る。


何かが、回転していた。

ゆっくりと、右向きに。


寝ぼけ眼ではそう遠くない距離のものでさえ同定できない。経験があると思う。暫くは何なのかよくわからない。眠気が完全に痛み優位になり激痛になったぐらいの頃には、流石に何が回転してるのかが自ずと理解できる。

というか薄々気づいてはいた。さっきから。段々と理解して、その事実は不思議と恐ろしくもなんともなかった。特に感情が動かなかった。

端的に言って、あの少年が回転していた。


少年が、高速回転していた。




「……」

未だ残る激痛のさなか、事態を理解するのに数分ほどかかった。鈍痛がほんの少しだけ快さに変わっていくあの感覚を得ながら、左向きに高速回転しているあまり右向きにゆっくり回転しているように見えているということに気づくのはそう簡単ではない、ストロボ現象と言った……かしら。そこまで分かってしまえば、芋づる式に全てが分かるまでの時間は数秒だったけれど。

分かった。分かったけれど、なんなのか。

ああ、もう、なんだ。

バカバカしい。バカバカしいことこの上ない、わ。



「左回り、右回り!!」


馬鹿。

何の意味がある?

拍子抜け。回り方を真剣に考えてあげて、高速回転に巻き込まれた。それだけ。何も意味不明ではなかった。いや筋が通っているならば意味不明でないというわけでもない、いい、そんなことより私の筋が物理的に数か所通えていない。


なんか、ごめんなさい。


と少年。その声の聞こえ方に回転前と回転後で変わりはなかった。そもそもこの状況でなぜ普通に喋れているのかしら?


「……」

当然、文句の一つも言いたくなったわ。けれど言おうとしたことはたちまち解けていく。前後とかじゃない、東西南北の方が相対的、一緒に行くことはできない……つまるところ考えれば考えるほど辻褄は合ってしまって、初発以外の何も間違っていなかった。コミュニケーション一般にでも異議を申し立てるべきかしら?


すみません、僕も説明不足だったと思います。


いや、そんなことは無いのでしょう、私の理解と辻褄の合う形で解釈できてしまうか、まるきり意味不明なことを言っているかどうかにしか恐らく、ならなかったでしょう。それはいつもそうなのかもしれないけれど。そして、

それでも気になって尋ねたいことというのはある。これもいつもそうなの。


「というか、それで目的地にはたどり着けそうなの?」


分かりません。


そうね。


「……というかその場合、右と左で何が変わるというの?」


全てが違いますよ。


ええ、そうね。

……そうね。


そうして、私たちはお別れまで他愛のない雑談をした。例えば、初速とかないの?と聞いてみて、必要でしたか?と返されるとか、その状況はリングワンデルングのようねと指摘してみて、それは全然違う概念ですよ、と言い返されて、そりゃあ厳密には違う概念だけど……うん……のような。そんな感じの。


「じゃあもう私、行かないと」


分かりました。本当にありがとうございました。


「いいのよ、大したことはしてないわ。大したことをされたけどね」


少年は、高速回転していても分かるぐらい離散的な変化で何とも言えない表情になる。いつも通りの考え方で無視して進むことにした。


這って動いていく。ギリギリ見えていた少年の姿が見えなくなる程度の動きですら思ったより時間がかかる。体がろくに動かなくてもお別れの時間だった。全身が痛いけれどこんなものはそのうち良くなるもの。

ずりずり痛みながら進んでいく、良くならないもの、どこかにある寂しさが私を呼ぶ。今日起きたこと、ねじれの位置にいたって分かり合えない何かがあったこと、それがうれしかったような気がする。彼には彼なりの動線があって、私もそうだった。それ故に歪んで歪んだ結果が出力された。私はそれの何が嬉しかったのかしら?よく分からない。考えれば考えるほどよく分からないけれど、こんな、何かを掴もうと思えば解れて、解れた矢先に凝縮してしまうようなこの世界では、どんな滅茶苦茶な脈略でも、とても貴重ではないかしら?


進むさなか、ふと顔を後ろにやってしまっている自分がいる。


360°に向け手を振る少年の姿が見える。


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