幸せをくれるひと
千景 もも
聖女と護衛
「今日も、あなたにとびきりの幸せが訪れますように」
胸の前で手を組み祈りを捧げるその姿は、息を呑むほどに洗練されている。
一日に両手を越える数を相手に祈り続けるミラは、他人の目からそう映るよう、所作の一つに至るまで神経を張り巡らせていた。
心からの祈りだから、という立派なものではない。他人を欺き、自らを守るためだ。
他人に幸福を与える力。
それが彼女が生まれながらに与えられていた力で、捨て置かれるはずのない稀有な才能だった。
ただ、莫大な富を築くだとか、この世の全てを手に入れるだとか。そんな世の中を揺るがすような大きな幸福を与えるのではない。
「聖女ミラについて、ですか。彼女のすごいところは、潜在的な意志まで引っ張り出すところでしょうか。幸福のために探求していく力。それを最大限にまで引き上げます」
依頼人の幸せを導く力とも言えるその能力は、理解されないこともある。
特に他人任せな依頼人には、幸福の訪れを感じ取ることができない。そのくせ、『お前の能力は嘘だ』『騙された』などと理不尽なことをわめく。
よく喋るそのお口に何かぶちこんで差し上げたいわね。人参などいかがかしら、と相手の土俵に立って心を折ってもよいが、いかんせん時間がない。
優雅な振る舞いは、それを少しでも和らげるための、先手。
この高名で美しく優しい女神がそう言うのだから間違いない。そんな思い込みを信仰の水準にまで引き上げるために。信じる力が何よりも力を発揮するのだと、ミラは知っている。
「……相変わらず気持ちわりぃ微笑みだな」
「羽虫がうるさいわね」
「ぶーん」
依頼人の背後であくびばかりをこぼしていたロクデナシが、余計なことをぼやいている。こんなのが幼なじみだなんて信じたくない。
「今すぐ踏み潰してやるわ」
「護衛を倒してどうすんだよ」
「倒される護衛が悪いのよ」
「ぐうの音もでないんだけど」
それっぽいことを言っているが、この男。
依頼人がいなくなった途端に客人用のソファに寝そべって、土産物の茶菓子をつまんでいるのだ。だらしがない。行儀が悪い。守る気なんか微塵もない。クビが飛んでもおかしくない三拍子。
「なんでこんな腹黒にわざわざ祈ってもらおうとすんのかね」
「他人に頼ってまで自分の幸せを手に入れようとする人間には、そんなことどうでもいいのよ。過程より結果だもの」
「厳しい世界だことで」
わかりやすくていいんじゃないかしら、とミラは思う。
どれだけ努力しても、手に入らないものがある。どうにもならないことがある。変えられないことがある。藁をもすがる思い。そこに必要なのは、充分に祈りましたという報告ではない。目に見える答えだ。
「あの半年後には別れてるようなカップルに、わかりやすい幸せなんか要らなくね?」
「一年後に別れるならわかりやすい幸福じゃないかしら」
「そこなの?」
幸福の形は人それぞれだ。
年月とともに欲望は変化する。それでも、依頼人が前向きに進めるような手助けをすることは、ミラの使命であり自負でもあった。
ただ、来る日も来る日も祈り続けること。
それは彼女の心を大きくすり減らしていくことだった。
「私には、幸せになる資格がないのかしら」
「また難しいこと考えてんな」
いつもいつも幸せをくれと言って、詰め寄り、頼るだけの他人。あなたのお陰で幸せになれた、ありがとうなんて薄っぺらい言葉で恩を返したと思っている連中。
「頭にわいた花で花束でも作ってやりたいわ」
「怖いんだけど」
お前ら全員、誰一人私の幸福なんか祈ってくれやしない。
確かにもらった幸福はあるはずなのに、今はそれがうまく思い出せないでいる。結局他人は、自分さえ幸せであればそれで良いんだろうと。
「ふと、思うのよ」
「ミラ……?」
気付かないフリをして、それでも打ちのめされる現実。
つらくないわけがない。不平等だ。他人の幸せを自らの幸福とできるような、そんな清らかな人間であったらよかったのに。
「……なんで、私が、って」
そんなことばかりが膨らみ、激しく自己を嫌悪する。
「こんな力さえ、なければ……って」
弱音を吐くことすら不謹慎とされるこの風潮はなんだ。
受け取る側ばかりが理想を押し付ける。まかり通るのは、そちらが大多数だからだ。
負の感情が止まらなくなる。
まわる、まわる。回り続ける。
ぐるぐると。つらい、くるしい、しんどい、やめたい……ねぇ。だれか。
だれか───
「……、…………たすけてよ」
ミラの奥底の本音が溢れて、言葉とともにこぼれ落ちたしずく。
「……遅ぇよバカ」
「れ、お」
落ちる前に消えたのは、護衛の彼の服に染み込んだから。
今までずっと、一番近くにいた男。ミラの自負も使命も思いも気持ちも、全てを知った上で傍で守り続けてきた青年。言葉を発する前に、ミラを落ち着かせるようにゆっくりと背中をたたく。
「やっと、言った」
「え……?」
失望されることも覚悟していたミラにとって、彼の言葉は予想していなかったものだった。負の循環が、その驚きによって塗り替えられていく。
ただ、それは傷付きつつもひたむきに祈りと向き合ってきた彼女だからこそ、怖くて仕方のなかったことだとも言える。彼は、ミラがやっと見せた本音を待ちわびていた。
もう、ずいぶんと前から。
彼の思いをうまくのみ込めず、アイスブルーの美しい瞳を見開いているミラ。今一度隣に居続けた存在を思い出させるように、レオは彼女を強く抱き締め直した。
「なんのために俺が傍にいるんだよ。俺にさえ隠し事してんじゃねぇよ。無理ばっかして。本音さらせる唯一だろ」
「でも、レオまで離れたら私は……」
彼は、ミラがこの力に気付くよりずっと前から彼女を知っている数少ない一人で。
幸せを求める人間に辛辣な言葉を投げることも、飲んだくれてミラの背中を背凭れ代わりにすることもあるほどには、どうしようもない男。
だがそれらには、ミラの与える幸せに不満を感じて暴力に訴えようとした人から守るためだったり、傷付いたことを隠そうとして一人で泣くような繊細な彼女のことを思ってのことだったり。
言わなくても伝わる彼の優しさが、ミラの心の弱いところをあたためる、最後の砦だった。
でも、彼をつなぎとめることは、彼が本当に出会うべき運命を遠ざけているのだろうと。ミラは本当の心を告げないつもりだった。
死ぬまで隠し通して。そしていつでもあなたの幸福を祈れるようにと。
思って、いたのに。
「レオが、いなくなったら。私は、うまく笑えなくなる。泣けなくなる。言いたいことも見せたいものもなくなって、……ただ、心がなくなるわ。それでも、あなたの幸せだけは心から願えたらって……決めてたのに……っ」
ごめん、と口にするはずだった言葉。
消えたのは、しゃくりあげたからではなく。
「な、んで」
「ミラ。よく聞いて」
つい先程彼女の熱を奪った唇が、艶やかな声で囁き、鼓膜を揺らしていく。
「俺は、お前が幸せにならなきゃいいのにって思ってたよ」
「は……?」
どういうことか。
ミラは理解が追い付かず、うまく反応を返すことができない。けれども、瞬きだけでもその気持ちはレオには届いたようで。
「なぁ、ミラ。俺はお前が幸せにならないように、お前の傍にいたよ。幸せになりたいんだって口実でお前に近付く他人を蹴散らしてたよ。知らないだろ? 俺がいなきゃお前は、こんなに思い詰めて悩むこともなかったんだろうな」
可哀想に、と笑うレオの言いたいことを少しずつ噛み砕いていって。
理解した頃には、右手に力を込めて全力で振り抜いた……つもりだったけれど。
ペチン、と情けない音が鳴る。
「……ごめんな、」
「謝らないでよ。どうして私たち、お互いに足引っ張りあっているのかしら」
「さぁな。でも、まぁ、フラれて関係切れるくらいなら。ずっと近くにいたいって、思っちゃったんだよ」
ずっと傍にいてくれた彼の本音は、ひどく格好悪い。取り繕うこともしない。
だからこそ、ミラの心は強く揺さぶられた。
「本当にヘタレね。あなたは何も考えず私を救えばいいのよ」
「そうすりゃよかったよ」
あれほど思い悩んでいたことが、このおバカのせいで全て吹き飛んだ。
初めからそうだと知っていれば。他人に吸い取られて、ただただ消費されてゆくだけだと思っていた幸福が、ミラの中を満たしてゆく。
笑いが込み上げてきて思わずふき出すと、いじけた顔をしていたレオの表情も緩んでいった。
「やっぱそっちの方がいいよ。すげぇかわいい」
「……急におだてられると寒気がするわ」
「耳まで赤くなっといてそれ言う?」
ミラにとって自らに向けられる幸福と慈愛を多分に含んだ眼差しは、とてもくすぐったいもので、どう受け取るべきかわからなかった。
そのことを理解した上で、整った造形をさらに引き締めるレオ。危ない輩を追い払う時か、女を口説く時くらいにしかしないその表情。少し赤みがあることが、いつもとは違う手がかり。
「俺は、ミラが幸せだって笑うその相手に、俺を選んでほしかった。幸せの形って色々あるけど、俺はミラが好きだよ。今までの関係で傍にいられるならってカッコ悪くすがりついてたけど。でも、それ以上を望んでいいなら」
ミラの手を取り、薬指の付け根にそっと唇を寄せたレオ。
幼い頃。普通の幸せを夢見ながらミラと一緒に読んだ、物語をなぞるように。
「人生の最期に、最高に幸せだった、って笑わせてみせます。だから、ミラの一生を俺にくれませんか」
息が、止まるとは。
こういうことなのだと、ミラは思った。
キザな台詞をキザな格好で、でも何よりも真剣な表情と想いで。
過ぎた幸福とはこんな形をしているのかと、初めて知った。
「飲んだくれのロクデナシで、口が悪いレオが、……っ、私には、お似合いね」
「人のこと言えないだろ」
決して王子様とお姫様なんかではない。
他人には見せられない醜い気持ちも、全部さらけだした。それでも共に歩もうと手を差し出してくれる、そんな人がいること。それは何よりも幸せなことだと、ミラは思った。
「ちなみにあなたがさっき口付けをした手、右手だわ」
「左手にしたら冗談だった、で済まされなくなるけど?」
「逃げ道なんかいらないのよ」
「じゃあ全力で囲い込みにいっていい?」
好きにすれば、と彼女が返したのは一週間前。
それから両親を説得して結婚式を挙げて、二人で住む家を決めて、外部依頼の護衛任務で英雄レベルの成果を挙げて、その褒美に私たち二人の一か月特別休暇をもぎ取った、と満足げに笑う気狂いがここにいる。
にこにこと、本当に嬉しそうに笑っていて。
「蜜月だな! 楽しくなりそうだ」
「……その動機でよくここまでやったわね」
「死に物狂いでやってやったわ」
彼女があれほどに望んでいた幸福。
与えられることの苦しさは、想像よりも大きなものだった。けれども、これまでに彼女へと幸福を求めてきた彼らの気持ちも、よくわかるようになった。
知ってなお、求めるのだ。
「目移りなんかしたら、許さないわよ」
「……へぇ」
「な、なによ」
いや、と目の奥の光が消えたレオが、ミラの左手をとる。
するりと絡ませ、口元にもってくると。
「!! い、ったいわね、何するのよ」
「あ? 指輪だよ、ユ・ビ・ワ。目移りなんかする暇もねぇっつの」
がぶり、と薬指に付けられた歯形。
今度こそ間違えなかったのね、というイジリを口にすることはできなかった。もう逃げられないという諦めに近い感情を深く理解する。
けれども抗うことはしない。
「どれだけ待ったと思ってんだよ」
ミラの呆れを飲み込むように顔を近付けたレオの、欲深い本音を聞き入れるように目を閉じる。
わかっていた。
「一生捧げる覚悟なんか、とっくにできてる」
その重苦しいほどの幸福が、彼女だけに向けられたものだということを。
幸せをくれるひと 千景 もも @8chikage
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