袖を引かれる

月浦影ノ介

袖を引かれる




 ―――雨の降る夜道で、ふと袖を引かれる。振り返るが誰もいない。そういう場所は、昔に人が死んだところだ。


 そんな話を読んだのは、小学生の頃だった。確か子供向けに怪談をたくさん集めた本で、怖いというより寂しい話だと思った。他の話はすっかり忘れてしまったのに、その話だけ何故か憶えているのは、そのとき感じた寂しさのせいだったのかも知れない。

 死者は何故、生者の袖を引くのだろう。手を合わせて欲しいのか、ただ気付いて欲しいだけなのか。それとも、連れて行きたいからなのか。

 

 その話をふと思い出したのは、ある女性の体験談を伺ったのが切っ掛けだった。

 女性の名は民恵さん(仮名)といって、四十代半ばの専業主婦である。その民恵さんが若い頃の話だという。


 二十代の頃、民恵さんは会社勤めをしていた。仕事が忙しく、帰宅はいつも夜遅かった。駅から自宅アパートまで、いつも徒歩で帰る。その途中に、ある交差点があった。

 別に何の変哲もない普通の交差点である。車の交通量が多く、近くにコンビニやガソリンスタンドもあるので、特に暗いとか不気味ということもない。 

 その横断歩道の信号脇に、とある看板が立て掛けられていた。交通事故の目撃証言を募る看板らしいが、何年も風雨に晒されたせいか、酷く薄汚れている。誰も注意すら払わなくなった、忘れ去られた看板だ。民恵さんも、その文面をきちんと読んだことはない。自分には関係のないことだと思っていた。


 ある夜のこと。会社からの帰り道、民恵さんはその交差点に差し掛かった。そろそろ師走も近付いた寒い夜で、冷たい雨が降っていた。

 赤信号で立ち止まり、目の前を次々と車が走り抜けるのをぼんやりと眺める。傘を打つ雨音が耳元で跳ねている。

 

 そのときふと、袖を引かれた。傘の柄を握る右腕の、手首に少し近い辺り。服を摘んで、クイックイッと二度、どこか遠慮がちな様子で引っ張られる感覚がある。

 誰?と振り返ったが、そこに人の姿はなかった。代わりに薄汚れた看板が目に入った。

 民恵さんはそのとき初めて、そこに書かれた文面をしっかりと読んだ。二年前の冬、ここで轢き逃げ死亡事件が発生した。信号無視の車に歩行者が轢かれ、加害者はそのまま逃走した。犠牲になったのは当時二十三歳の女性で、看板に名前が書いてある。その名前に見覚えがあった。

 「⋯⋯⋯嘘」

 思わず言葉が衝いて出た。看板の一番上に顔写真が印刷されてある。被害者の顔だろう。薄汚れてはいたが、その面影はハッキリと認識出来た。


 「⋯⋯⋯中学のときの友達だったんです」


 喫茶店で話を伺ったのだが、そう言った民恵さんの声は心なしか震えていた。


 とても仲の良い友達だった。一緒の高校に進む約束もした。しかしその約束は叶わなかった。彼女の父親が事業に失敗し、夜逃げ同然に引っ越してしまったからだ。

 それ以来、その友達は行方知れずとなった。いったい何処でどうしているのか。音信不通になっても、例えもう二度と会えなくても、どこかで元気に暮らして欲しいと民恵さんは願った。

 やがて大学を卒業すると、民恵さんは就職のために地元を離れ、その街のアパートで一人暮らしを始めた。看板には通勤途中で車に撥ねられたと書いてある。つまりほんの二年前まで、民恵さんとその友達は、期せずして同じ街に住んでいた可能性があるのだ。


 「⋯⋯⋯こんな再会の仕方ってある?」


 民恵さんは絶句し、思わずその場で泣き崩れた。あとほんの少し何かが違えば、生きて再会出来たかも知れないのに。

 翌日、民恵さんはその看板の足元に花束を供え、手を合わせた。今まで気付かなくてゴメンねと、謝罪の言葉と共に。

 あれから二十年の月日が流れたが、友達を轢き逃げした犯人が捕まったという話は聞いていない。


 民恵さんから話を伺ったあと、私は喫茶店を出た。午後四時、日が傾いていた。いつの間にか雨が降り始めている。天気予報の通りだ。傘を持って来て正解だった。

 帰り道の途中、交差点で立ち止まる。信号は赤だ。傍らの電信柱の陰に、花が供えられているのが目に入った。来るときには気付かなかった。おそらく誰かが、ここで死んだのだろう。

 

 信号が青に切り替わる。歩き出そうとしたそのとき、見知らぬ誰かにそっと、袖を引かれた気がした。

 


                (了)

 

 

 


 


 


 

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