アラタマ ― 東京異人録 ―
津多 時ロウ
第一部 暁鴉(アケガラス)
寺沢幸司
第一話 月に叢雲、花に風、アラタマには暁鴉
昼間よりもいっそう輝きを増す、夜の東京。
不夜城という言葉が似合う東京の歓楽街であっても、さすがにビルの谷間は暗い。
喧噪からの逃げ場として機能してきたその一角も、今は赤く回転する灯りで忙しなかった。
「支部長、今回のターゲットはあれですか」
「どうやらそのようだな。
ビルの谷間の入り口近くで佇むのは、よれよれのスーツとよれよれのトレンチコートを着た中年男性と、詰め襟の学ランと羽織のようなコート、それにキャスケットを被った青年である。
二人は目も合わさず、表通りの光が届かない袋小路を、ゴーグル越しにじっと見ていた。
「相手は
「いい返事だ。じゃあ、早速……と言いたいところだが、お客さんだな」
アンバランスな見た目の二人に、やや早足で、しかし、背筋をピンと伸ばして近寄るのは、ピシッとしたスーツの上に、ステンカラーのコートを羽織った中年男性だった。
そして、よれよれのトレンチコートを着た中年男性に向けて発した声は、見た目通りの生真面目なものである。
「
「よう、
「お前は相変わらず話を逸らすな。それで、そっちの高校生はなんだ? お前の息子か? 部外者は避難させたはずなんだがな」
日吉と呼ばれていた男性は、精悍で生真面目な顔を綻ばせることなく、学生服の青年を睨むように見た。通常であれば
「あー、お前には面通しさせてなかったか。こいつは
「
青年はやはり柔和な顔で、少し頭を下げてそう言った。
しかし、日吉はそれに引きずられることなく、相変わらず表情が固い。
「ま、そんなわけで、日吉。一応、事件の概要をよろしく頼まあ」
「ふう、手短に話すぞ」
日吉は内ポケットから手帳を取り出し、ペンを挟んでいたページを広げる。
「逃走中の特別犯は、
「
「ちょうど、お前たちが立っているところで発見された。
日吉はそこまで話したところで、手帳を閉じた。もうこれ以上の情報はないということだ。
「こう言ってるが、どうする、界人……と
「了解です。日吉さん、抜け殻の確認は大丈夫です。その情報を聞く限り、犯人は刃物のイメージを増幅している可能性が高いということですね。ありがとうございました」
「一般人の避難は完了している。くれぐれも余計な被害は出さないようにしてくれよ」
「ええ、もちろん」
けれど界人が闇の奥へと視線を戻したところで、歯黒の声が緊迫感を増す。
「一般人が取り残されている可能性があるだと!? どの辺りだ? うん……うん……そうか分かった。そっちはお前に任せた。
そうして歯黒はスマートフォンをポケットにしまいながら、界人と日吉に矢継ぎ早に声をかけた。
「日吉、向かって右手、手前から三番目のビルのどこかに一般人が残っているらしい。部下に避難誘導を指示した。界人、そういうわけだから、お前はそれが終わるまでお預けだ」
「む、漏れがあったか。悪いな」
「了解です。しかし、歯黒さん、奴はもう完全にアラタマ化してしまったようです」
「本当か!」
「ええ、形が変わってます」
歯黒と界人が見つめる闇の奥。
二人ほどではないが、日吉にもおぼろげながら視えており、その顔つきは、先ほどまでよりも更に険しくなっていく。
「歯黒!」
「今やるから落ち着け。界人、やれるところまでやってみろ。ただし、
「サクさん、早く良くなるといいですね」
「ただの風邪だろ? そんなことよりお前はあいつに集中しろ。人間のなれの果て……いや、違うか。人類の敵、アラタマに」
「はい、行ってきます!」
界人は、どこかにお出かけするような笑顔で暗闇に歩みを進める。
彼の左右に並ぶのは、ペンシルビルの薄汚れた壁。
つい数刻前まで、競うように吹き出していたであろう蒸気や煙は、すっかりなりを潜めている。
左右の幅は、一メートルあるかないかくらいだろうか。
僅かな灯りの差し方から、奥は広がりがあるようにも見える。
戦うには狭いな、と思いつつ、界人は右腿から得物を引き抜き、右手に構えた。
寺沢まではまだ遠い。
しかし――
「うわっ、とぉ」
奥の、もはや人間とは呼べない異形の腕が、突如として伸び、界人の顔に向かってくる。
その先端は鋭く、そして鈍く光を反射している。
界人はおどけたような声を出しながらも、体を半身にしてそれを躱す。
目の前をかすめたその先端は、包丁だった。
その元を辿ると見えるのは、二メートルを超える赤褐色の体。
先端が包丁と化した細長い手、不自然に短い足。
頭は体に取り込まれ、大きく膨れた顔とも呼べない顔は、胸の辺りから凹凸を覗かせている。
「へえ、
そのような異形を前にしても、界人の表情にはいささかの動揺も見られない。
寧ろ、先ほどよりも口の端が上がっているようでもあった。
けれど、界人がそうだからといって、異形――アラタマと化した寺沢幸司の攻撃が止むことは、当然ない。
「よっ、ほっ」
幅の狭い路地を最大限に生かすように、寺沢の腕が次々と繰り出される。
界人も楽しそうな顔をしてはいるが、なかなか距離を詰められない。
そうなれば、アラタマとなった寺沢はともかくとして、生身の界人の体力は有限である。
半身にしたり、跳ねたりして躱しているものの、口からはつい本音が漏れてしまった。
「歯黒さーん、解放許可まだですかー?」
「まだだ。もう少し粘れ。だいたい避けるより、祭器で弾いた方が体力つかわねーんじゃねえか?」
「あ、それもそうですねー」
今まで気が付かなかったのか、それとも意図したものだったのかは分からないが、界人はようやく、その右手に構えた得物を振るい始めた。
祭器・
暗い中にあっても構造色の光を放つそれは、人類がアラタマにトドメを刺せる、数少ない祭器と呼ばれる武器の一つである。
その中でも界人が操るものは、通常の金剛杵と比べて実戦向けになっていた。
通常の加持祈祷に使われる金剛杵は、両端の突起部も含めて十センチほどで、長くてもその倍ほどなのだが、界人のものは優に五十センチは超えている。
柄も扱いやすいように長くなっている上、両端の突起部も飾りではなく、本物の刃となっていた。
つまり、棒の両端に刃が付いている、かなり変則的な武器で、一歩間違えれば自らも斬りつけてしまうものなのである。
だが、界人は苦も無く振るう。
顔、首、腹など、的確に急所目がけ、突き刺すようにまっすぐ伸びてくる寺沢幸司の鋭利な腕。
暗闇から突如現れたように見えるそれを、次々と弾き、界人は人間だったものに近づいていく。
「まずは右腕」
自身の顔を狙ってきた右腕を弾かずに
アラタマが一瞬よろけるも、苦悶の声は出ない。
「お次は左」
よろけながらも伸ばされた左腕は、やはり界人の心臓を目がけて飛んでくる。
しかし、界人はもうその動きを読んでいた。
最初から相手にしていなかったと言ってもいい。
半身で難なく躱すと、先ほどと同じように、金剛杵をくるりと回して切断した。薄暗い闇の中にモルフォ蝶のような光の軌跡が浮かぶ。
そうなれば界人の前進を止めるものは何もない。
「とどめだよ」
素早く懐に飛び込む。
その勢いで、膨張し尽くした顔に金剛杵の刃を沈め、そのまま下に切り裂く。
界人は軽やかに後ろに下がり、寺沢幸司だったアラタマが、牛の鳴き声のような断末魔の叫び声を上げた。
界人は、これで終わりだと思った。
報告を待ちながら見ていた歯黒も、これで終わりだと思った。
だけど、これで終わりではなかった。
「うぅ……」
切り落とされた右腕が、左腕が、蛇のように界人の体に巻き付き、金剛杵ごと締め上げる。
完全に油断していたのだ。
界人の表情にはまだ余裕があるが、彼のそばでは切断したはずのアラタマの胴体が、徐々に修復しつつある。
このままではまずいと、歯黒が慌てて駆け寄ろうとしたそのとき、再び着信があった。
「くそ、こんなときに誰だ……っと
界人に近づきながら、しかし、電話に出ながらでは遅い。
それでも歯黒は話を聞かなければならない理由がある。
「……それは本当か!? まあ、いい。詳細はまた後でな」
歯黒は通話が切れたかどうかも確認せずに、スマートフォンを乱暴にポケットにつっこみ、界人に大きな声で指示を出す。
「界人! 祭器の解放を許可する! やっちまえ!」
「了解です!」
満面の笑みで答えた界人は、締め付けられながらも、すぅっと深く息を吸い、吐いた。
するとどうだろう。
バチッという音ともに、アラタマの両腕が弾き飛ばされたではないか。
しかし、アラタマの執念もさるもので、修復を続ける本体と両腕が、あっという間に融合した。
異形の巨大な体は、もう九割方、元に戻っているようにも見える。
だというのに、界人はその場から動かず、目を薄く閉じた状態で深く長い呼吸を続けている。
歯黒はもう助けに入らない。
界人が勝つと信じているから。
そうしてアラタマの修復がすべて終わったかのように見えた瞬間、界人は、吸い込んだ息をすべて吐き出すように、祭器を解放するための言葉――解放句を詠唱する。
「悪鬼滅せよ。オン・インダラヤ・ヴァジュラ」
金剛杵の刃が、界人の体が雷を纏い、紫色に輝いた。
次の瞬間、雷の刃がかつて寺沢幸司だったものに突き刺さり、内部からその存在を崩壊させていく。
「さよなら」
それは誰に向けての言葉だったのか。
寺沢幸司の体が消滅すると、界人はドサリとその場に倒れ込んだ。
彼らの名前は
人にして人でなく、けれど隣人のアラタマを駆逐する者。
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