第19話 逃避と遁走
北門前には二十人ほどの老若男女が集まっていた。
酸っぱい臭気。薄汚れて破れた服。生気の薄い瞳。互いに交流があるのか、ちらほら談笑している姿さえ見える。
「今日も、僕が『青』を引いてみせる」
「いやいや、俺の『赤』だな」
その輪の中には、マルスも含まれていた。
◇ ◇ ◇
罪人となった日の翌朝。白髪を撫でつけた老人が牢を開けた。
連れていかれた先は橋の向こう――南側の街だった。小綺麗な服を着た人たちが行き交う、まるで別世界のような場所。黒い鍛鉄の門扉をくぐり、屋敷の中へ通される。とある一室で、契約と呼ばれるものを交わした。
机の上に置かれた一枚の羊皮紙。
マルスは赤い染料を親指の腹につけ、言われるまま印を残した。
詳しい内容はもう覚えていない。羊皮紙には『奉仕活動』という文言が記されていたが、意味がわからなかった。覚えているのは、大きな窓と――教会のある方角で、灰色の煙がもくもくと上がっていたことだけだ。
今は、その奉仕活動を終え、裏通りの酒場へ戻ってきたところだった。
「また辛気くせえ顔して……これ飲めば吹っ飛ぶぞ?」
そう言って、酒場の親父が透明なグラスに紫色の液体をなみなみと注いだ。
マルスは顔を寄せるように口をつけ、啜るようにして喉へ流し込む。グラスを傾けるたび、甘い香りが鼻の奥へ抜けた。
「くぅ!!」
葡萄の香りが詰まった飲み物だ。『青』色で得られるご褒美――ジュースと呼ばれている。一日の疲れが吹っ飛ぶ、労働の対価。周りの同僚たちが、羨ましそうな目を向けてきた。
「俺にも、一口、一口でいい。分けてくれよ」
「やだね! 僕がそう言ってもくれないくせに」
「しばらく飲めてねぇんだ。頼むよ……」
マルスはその場で飲み干し、空になった瓶を逆さにした。中身が残っていないことを示すみたいに、何度か軽く振ってみせる。
男は一滴でも欲するかのように、仰向けに這いつくばって口を開けた。待っていても幸福はやってこない。男は一瞬だけ怒りを滲ませる。やがて、虚ろな目をしたまま、ふらりと去っていった。
捕食菌の魔石集めは、やろうと思えば誰でもできる。
問題は、一日に百個という
だから、脱走をする者が後を絶たない。
彼らは契約違反者――冒険者崩れと呼ばれた。大抵は今よりひどい結末を迎えるか、逃げ切れたとしても魔物のいる森など、人の生活から離れた場所で暮らすしかないだろう。
けれど、逆転の手はある。それは――色付きの魔石。
一個でも手に入れば、その日のノルマは免除され、追加でご褒美すらもらえる。『青』以外にも、『黄』や『赤』なんてものもある。方法は簡単だ。捕食菌に魔素を吸わせてから鉄鍋に入れること。
ただし、注入する魔素が少なければ、『白』になってしまう。
(もう今さら、百個なんて集めてられないよ)
最初は、日に日に精神を摩耗していく人たちを横目に、背筋を震わせていた。だが、もうここにはいない先輩がくれた〝一口のジュース〟。一度味わったら、忘れられるはずがなかった。
恐る恐る、捕食菌の入ったかごへ手を入れ始めた日。
その日から、マルスが決まって引き当てるのは『青』だった。不思議と、マルスはまだ正気を保っていられた。
(いつか自分も、おかしくなっちゃうのかな)
そんな気持ちを胸に今日も夜を迎え、――朝がやってくる。
ギルドの依頼は受けるだけで、もう何日も達成報告をしていない。淡々と色付きの魔石を狙う日々を繰り返す。必要なのは、かごと鉄鍋だけだった。
「トマト、茄子、胡瓜! ヤオサの香ばしいトウモロコシはどうだい!」
「ララーナ牛の串焼き、ぜひ食べてってー!」
背を丸め、表通りをこそこそと歩く。
金銭を持たないマルスにとって、肉の焼ける音や匂いは毒だった。目に入れることさえ、腹の奥が疼く。いつも持っていた革袋は、どこへいってしまったんだろう。今は盗まれていないことしかわからない。
厨房の中から怒鳴り声が聞こえる。
「生焼けじゃねーか!」
「すんません、ご主人! こっちは――」
「焦がしすぎだ! 火祭りまでにはしっかり覚えろよ」
「でも今の流行は、生焼けっすよ?」
「んなもん、伝統の味じゃなくなるじゃねーか!」
(火祭り……)
街中には松明立てが置かれ始めていた。
店先の飾りが増え、薪の束がいつもより高く積まれている。誰もが準備を急ぎ、視線だけが忙しなく行き交う。『何かが始まる前』の気配。
最近は汗を流す日も多い。――夏が目前まで迫っていた。
正午の北門前。同僚はいつの間にか消えていき、新しい人が入ってくる。ここではそれが当たり前だった。だが、目の前の少年を見た瞬間――マルスは目を見開き、思わず声が漏れた。
「ダイ……」
窪んだ目元に、干からびたような唇。マルスの声が届いたのか、目が合うと怯えたように顔を背ける。あの軽口を叩いていたダイとは、似ても似つかない。
(「どうしたんだよ」なんて聞けない)
この回帰では、まだダイと出会っていない。だとしても、四人でこの町に来ているのは変わらないはずだ。アイカ、シシド、ロロの三人の行方も気になる。
でも、口にすることはできない。マルスは遠巻きに、ダイの様子を見守った。
「うう……ぁ」
ダイは手順だけは知っているかのように、かごの中の捕食菌に魔素を吸わせた。苦悶の声を漏らす。それでもやめない。途中で何度も手を止め、呼吸を整え、それでも続けていく。しまいには肩で息をし、脂汗まで浮かべていた。
(合ってない)
自分の経験と、これまで見てきた周囲の様子がそう告げた。嬉しくはないが、マルスは捕食菌と相性が良い。短時間でこうはならない。
ダイはこのままでは早々に潰れるか、狂ってしまうだろう。これ以上、黙ってなんていられなかった。
「僕はマルス――君は?」
「え……? おれ?」
「うん、君だよ。歳が近そうで、つい声をかけたくなって」」
今にも泣き出しそうな顔で、彼は「ダイ」と言った。
(名前ならもう知っているよ)
心の中でそう答える。
これはある種の儀式。友だちになるために、大事な過程。
少しでもダイの気が紛れるように、他愛もない話を切り出していく。だから、他の仲間については聞かなかった。
休み休み手を動かし、日が暮れる前になんとか作業を終える。
――ダイが吸わせた捕食菌の魔石は『赤』色だった。
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