ほんの一言で恋をした

詩乃

第1話  図書室の夕陽と“またね”

 放課後の図書室は、静かな羽音のような気配で満ちていた。

 ページをめくる音、ペンが紙をなぞる音。

 廊下からは、部活動の掛け声と、夏休み前のざわめきが時おり流れ込んでくる。


 窓を少しだけ開けた図書室に、蝉の声が遠く混じる。

 古い冷房は、気まぐれに唸っては止まり、

 その隙間から、湿った夏の風に乗った草の匂いが、

 紙の乾いた香りとそっと重なって、季節の境目を知らせていた。


 万理まりはコピー機の前で立ち止まり、眉を寄せた。

 プリントの束を抱えたまま、紙が途中で止まって動かない。


「……紙、詰まったかも」


 小さな声が、むわっとした空気の中に溶ける。

 向かいの棚で本を戻していたしゅうが、少し汗のにじむ額を上げた。


「貸して」


 気だるげに見えたのは暑さのせいだろうか。

 それでも柊は迷いなく排紙トレイを開けて、詰まった紙をすばやく取り除いた。


「はい、これで大丈夫」


 夕陽に照らされた横顔が少し赤く染まり、

 万理の胸がふっと熱を帯びる。


「ありがと」


「どういたしまして」


 それだけの言葉なのに、

どこかそわそわと浮き立っていた夏休み前の空気の中では、

小さな会話さえ特別に感じられた。


 窓の外では、茜色の空が群青へとゆっくり溶けていく。

 蛍光灯の下で伸びたふたりの影が、机の上に静かに重なった。


 ――片づけが終わるころには、廊下のざわめきも薄れ、校内は夏の夜を迎える前の静けさに包まれ始めていた。


 校門を出たふたりの横を、部活帰りの生徒たちが駆け抜けていく。

 夕暮れの風が万理の髪を揺らし、

ふわりと、その香りが柊の鼻先をかすめた。

 並んで歩く沈黙が、すこしだけ心地いい。


「柊くん、さっき助けてくれてありがとう」


「別に。機械が苦手そうだったから」


 くすっと笑う声が、夏休み前の放課後にやわらかく響く。


 駅に近づくと、熱を含んだアスファルトの匂いと改札の白い灯りが見えてきた。

 人の流れが分かれる地点で、ふたりの足が自然に止まる。


「……ここから右が、万理のホーム?」


「うん。柊くんは左?」


「うん。」


 短い会話。

 その沈黙の中に満ちていくものが、言葉より確かだった。


 柊が少しだけ視線を落として笑う。


「じゃあ……またね」


 その“またね”は、どこか照れを含んだ、夏の夕暮れのようなやわらかさだった。


 万理の胸が、跳ねる。


「うん……またね」


 囁きのような声を聞いた柊は、一瞬だけ目を見開き、すぐにはにかむように微笑んだ。


 改札を抜けて振り返ると、柊もちょうどこちらを見ていた。

 お互いに笑って、軽く手を上げる。


 胸の奥でじんわりと熱を残したまま、万理は思った。

 ――“またね”って、こんなに嬉しい言葉なんだ。

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2025年12月30日 22:00
2026年1月6日 22:00
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ほんの一言で恋をした 詩乃 @flan9393

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