プラスチックの皮膚、あるいは山田という名の聖域

すまげんちゃんねる

プラスチックの皮膚、あるいは山田という名の聖域

 制服の左胸、心臓の鼓動を最も近くで感じる位置にピンで留めたプラスチックの板には、明朝体で「山田誠」と彫り込まれている。だが、それは私の名前ではない。


 私の本名は、警備室のロッカールームの薄暗い隅、泥と油のついた革靴の中に隠した別の名札に刻まれている。その四文字の固有名詞を脳裏に描くだけで、私は胃のに溶解した鉛を流し込まれたような、重苦しく、かつ酸味を帯びた嘔吐感を覚える。文字の画数の一つ一つが、私の内壁を削り取る棘のように思えるのだ。


 名前。それは私という一個人をこの世界という巨大な布地に縫い留めるための呪術的なくさびであり、同時に逃げ場のない刑具でもあった。

 郵便受けに溜まる督促状の宛名、実家の母から留守番電話に吹き込まれた湿り気を帯びた溜息、かつて同棲していた女が去り際に吐き捨てた「あなたには中身がない」という呪詛。それら全ての鋭利な刃物が、数多ある人間の中から誤ることなく私へと到達するのは、私がその名によって世界にはりつけにされているからだ。


 ああ、この名前さえなければ。

 私という存在を定義するこの粘りつく呪縛さえなければ。

 呪われた杭さえ引き抜いてしまえば、私は無色透明な気体となり、あらゆる責任や痛覚からすり抜けることができるのに。


 深夜二時過ぎ。東京都港区に要塞のごとく鎮座する、テレビ局の車両搬入口。

 排熱ファンの唸り声と、遠くを走る首都高の走行音が反響するコンクリートの谷間で、私は儀式を執り行う。


 警備室の机の引き出しの奥に転がっていた、予備の名札を手に取る。表面は無数の細かい傷で白く曇り、縁は手垢で黄ばんでいる。そこに記された「山田誠」という文字。

 日本で最もありふれた苗字と、嘘で塗り固められた私の胸に輝く「まこと」という逆説。この滑稽な背反こそが、私にとっての唯一のリアリティだ。


 私はその他人の抜け殻を、制服の左胸に宛がう。安全ピンの針先が、化学繊維の布地を貫通する微かな感触。その瞬間、私の不整脈を打っていた心拍数は急速に低下し、凪いだ海のような不気味な静寂が訪れた。


 私は私であることを辞め、この巨大な虚構の発信基地を守護する「警備員」という部品へと変態を遂げる。血管を流れる生温かい血液までもが、冷徹な潤滑油へと入れ替わっていくような錯覚。これこそが、私の求めた安寧だ。


 通用門の前に直立する。

 体にはオーダーメイドのように窮屈な制服という装甲、腰には重たい誘導灯と無線機、頭には表情の半分を闇に沈める制帽。

 これらを装着した「山田誠」は無敵だ。

 借金も孤独も、ここには届かない。ここに立っているのは「私」ではなく、「警備員」という装置だからだ。三日前に配属されたばかりの新人の素顔など、誰も見ていない。彼らが見ているのは制服と記号だけだ。


 ここは眠らない城だ。

 深夜だというのに、巨大な黒塗りの車が絶え間なく出入りしている。スモークガラスの向こうには、テレビ画面の中でしか存在を許されない、過剰な自意識と視線によって肥大した自我の化け物たちが乗っている。


 車が止まり、窓が開く。漏れ出てくるのは、高級な香水のむせ返るような匂いと、頽廃たいはい的な疲れの混じった冷房の空気。

「お疲れ様です」

 私個人の感情を一切削ぎ落とした、自動音声のような敬礼。

 彼らは、私を見ない。私の顔など、彼らにとっては門柱の一部であり、アスファルトの染みと変わらない。


 それでいい。私を無視しろ。ドーパミンと承認欲求に突き動かされ、有名税という名前に縛られた彼らに比べ、名を捨てた私はどれほど自由で、透明で、高潔だろうか。この絶対的な匿名性こそが、私の王冠だった。


 だが、私の王国は唐突に侵犯された。


 午前三時。局内から一人の女性が現れた。疲れ切った足取りで私の前を通り過ぎようとした時、彼女の手からスマートフォンが滑り落ちた。

 乾いた音が静寂を引き裂く。私は条件反射で一歩を踏み出し、それを拾い上げた。

「……落ちましたよ」

 彼女は緩慢な動作で顔を上げる。化粧は崩れ、瞳は深い井戸の底のように澱んでいる。彼女はスマホを受け取ると、不意に私の胸元を見た。

 私の、プラスチックの皮膚を。

「……え?」

 彼女の表情が強張る。眠気が吹き飛んだように目を細め、私を凝視した。

「……ちょっと。山田くんじゃ、ないよね?」


 鋭利な刃物のような問い。

 恐怖ではない。私の聖域に泥足で踏み込まれたことへの、強烈な生理的嘔吐感だ。彼女は「本物の山田誠」を知る人間なのだ。彼女の眼は制服という防御壁を突き破り、その奥の「空洞の私」を暴き出そうとしている。


 私は奥歯を噛み締めた。ここで「いいえ、新人の○○です」と弁解し名札を外すことは容易たやすい。だが、そう口にした瞬間、私は「山田誠」という鎧を剥がされ、本名という名の呪われた標的へと再び引き戻される。


 嫌だ。私は戻りたくない。私は山田誠でありたい。事実がどうあれ、この名を名乗る限り、私はこの堅牢なシステムの一部でいられるのだ。

 私は制帽を目深に被り直し、能面のように表情を消し去り、答えた。

「……いいえ。警備員の、山田です」

「は? だって、顔」

 彼女の言葉ロゴスが、私の世界を殴打する。しかし私は頑として譲らない。私が認めない限り、真実は確定しないのだ。

「私は、警備員の山田誠です」

 壊れたレコードのように私は繰り返す。肯定も否定もしない。胸元の文字こそが唯一の正解であるかのように。

 彼女は気味の悪いものでも見るような目で私を睨みつけ、口を開きかけた。

「おい山本! 生放送入るぞ!」

 その時、局内から怒声が響いた。

 彼女は弾かれたように振り返る。そして私にもう一度だけ、理解不能な異物を見る視線を投げかけると、慌ただしく走り去っていった。


 再び、通用門に静寂が戻る。

 私は、背筋を這い上がるような暗い愉悦ゆえつに身震いをした。

 私は勝ったのだ。世界が追及を諦めた瞬間、私の虚構は現実を凌駕した。

 私は、実在していたかつての山田誠以上に、完璧な「装置」になりおおせたのだ。


 朝の光が、ビル群の隙間から白く射し込んでくる。

 それは希望の光などではない。私が隠していた顔の皺や皮膚のくすみを無慈悲に暴き立てる、現実という名の暴力的な照明だ。

 交代の時間だ。私は警備室で制服を脱ぐ。だが、左胸の名札だけは外さない。

 革靴の中から「本名の名札」を取り出した。今日から着用するよう通達されていた、私の正しい名札だ。

 指先で、彫られた四文字をなぞる。私を社会という拷問台に縛り付け、血を流させていた鎖の破片。

 私はそれを、ゴミ箱へと躊躇ためらいなく放り込んだ。

 栄養ドリンクの瓶やゴミと共に、私の名前が汚濁の底へ落ちていく。カタリ、と乾いた音。それは一人の人間が社会的に死に、透明な幽霊として生まれ変わった瞬間の、ささやかな産声のようだった。


 私は私服のシャツの胸ポケットに、そっと「山田誠」の名札を入れる。

 もはやこれは備品ではない。私の皮膚だ。

 裏口の鉄扉を押し開ける。

 朝の冷気と共に、通勤ラッシュの喧騒が津波のように押し寄せてくる。

 通りには無数の人間が歩いていた。彼らは皆、それぞれの重たい名前と責任を背負い、苦しげに酸素を奪い合っている。

「おはよう、山田さん」

 私はガラス壁に映る、昨日よりものっぺりと表情の消えた自分の顔に向かって、初めて心からの笑顔で挨拶をした。

 そして一歩、雑踏の中へと踏み出す。

 朝の光が私の輪郭を溶解させる。私は今、一人の人間から、都市の風景の一部へと、完全に還元されたのだ。


(了)

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