第1話「白衣の天使」
「柏木先生、次の患者さん、来られましたよ」
明るい声に振り向くと、そこには白衣に身を包んだ看護師が立っていた。水瀬あかり。この総合病院に配属されて三ヶ月になる新人看護師だ。
「ああ、ありがとう」
僕はカルテから顔を上げ、リハビリ室の入口に視線を向けた。
月曜日の午前。いつもと変わらない朝だ。窓から差し込む九月の陽光が、リハビリ用のマットの上に白い長方形を作っている。空調の音、遠くから聞こえる電子音、消毒液の匂い。この五年間、僕はこの空間で何人もの患者と向き合ってきた。理学療法士として。
「おはようございます、藤崎さん」
車椅子で入ってきたのは、七十五歳の女性患者、藤崎トヨ子さんだった。一ヶ月前に大腿骨頸部骨折の手術を受け、現在は荷重訓練の段階に入っている。
「先生、おはよう。今日もよろしくね」
柔和な笑顔。こういう患者さんと接していると、この仕事をやっていてよかったと心から思える。
「では、まず可動域の確認から始めましょうか」
僕は患者さんの患側の足に手を添えた。股関節の屈曲、外転、内旋——ゆっくりと、痛みの出ない範囲で動かしていく。
「痛みはどうですか?」
「大丈夫よ。前よりずっと楽になってる」
「それは良かった。じゃあ、今日は平行棒で少し距離を伸ばしてみましょう」
リハビリテーション。ラテン語で「再び適した状態にすること」を意味する。僕たち理学療法士の仕事は、病気や怪我で失われた身体機能を、できる限り元の状態に近づけることだ。
時には完全には戻らないこともある。それでも、患者さんが「できる」ことを一つずつ増やしていく。その積み重ねが、生きる希望になる。
「先生、すごい集中力ですね」
訓練が終わり、藤崎さんを病棟に送った後、あかりが声をかけてきた。
「そう?」
「はい。患者さん一人一人に、本当に真剣に向き合ってらっしゃる。私、先生みたいな療法士さんと一緒に働けて嬉しいです」
まっすぐな瞳でそう言われて、僕は少し戸惑った。
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃないです。先輩の看護師さんたちも、柏木先生のこと信頼してるって言ってましたよ」
あかりは本当に天使のような笑顔で笑う。こんなにまっすぐな人間が、この病院に——いや、医療の世界にいることが、少し不思議にさえ思えた。
この世界は、綺麗事だけじゃない。
「水瀬さんは、なんで看護師になろうと思ったの?」
「えっ?」
突然の質問に、あかりは少し驚いた顔をした。
「あ、ごめん。変なこと聞いて」
「いえ、そんな……」
あかりは少し考えるように視線を落とした。
「私、昔入院したことがあって。そのとき看護師さんにすごく優しくしてもらったんです。だから、今度は私が誰かの支えになりたいって」
「そっか」
シンプルで、純粋な動機。きっと、多くの医療従事者が最初に抱く想いだ。
でも、それがいつまで続くかは——。
「柏木先生は?」
「え?」
「どうして理学療法士に?」
僕の手が、無意識にポケットの中で握りしめられた。
「さあ、何でだろうね」
曖昧に笑って誤魔化す。あかりは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
その時、リハビリ室のドアが開いた。
「柏木先生、新規の患者さんです」
事務員の女性が、カルテを持って入ってきた。
「ああ、はい」
僕はカルテを受け取った。
患者名——神崎雄一、四十八歳、男性。診断名は脳梗塞後遺症による右片麻痺。既往歴に——。
カルテをめくった瞬間、僕の手が止まった。
転院元の病院名。
「——聖光記念病院」
その名前を見た瞬間、五年前の記憶が鮮明に蘇った。
白い廊下。転がる車椅子。広がる血だまり。
そして——霧の中に消えた、あの影。
聖光記念病院はグループ病院で柏木はこの病院から今の病院へ移動している。
「先生? どうかしました?」
あかりの心配そうな声が遠くに聞こえた。
僕は、ゆっくりとカルテを閉じた。
「いや、何でもない」
嘘だ。
何でもないわけがない。
聖光記念病院——あの事故が起きた、あの場所から、患者が転院してくる。
それは、偶然なのか。
それとも——。
「神崎さん、明日の午後に初回評価ですね」
事務員が言った。
「わかった。準備しておく」
できるだけ平静を装って答えた。
でも、胸の奥で何かが囁いている。
これは、始まりだ。
五年前の真実が、再び動き出す——。
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