歩き出せなかった真実~リハビリ室からの告白~
彩花 咲
序章
「先生、患者さんが——!」
看護師の叫び声が廊下に響いた瞬間、僕の足は既に走り出していた。
リハビリ室のドアを蹴るように開けると、目に飛び込んできたのは倒れ込んだ車椅子と、その横で痙攣する患者の姿だった。白い床に広がる鮮血。頭部を強く打ったらしい。
「救急カート!」
誰かが叫ぶ。僕は患者の傍に膝をついた。脈を確認する。まだある。呼吸も——浅いが、ある。
「柏木さん、どいて!」
医師が駆け込んできて、僕は押しのけられた。その後は医療チームが慣れた手つきで処置を始める。僕はただ、壁際に立ち尽くすことしかできなかった。患者の名前は——確か、桐谷さん。六十二歳。脳梗塞後のリハビリで、最近ようやく平行棒内での歩行ができるようになったばかりだった。
「なぜ一人で立ち上がろうとしたんですか!」
担当看護師が泣きそうな声で言った。でも、違う。僕は知っている。
桐谷さんは、立ち上がろうとしたんじゃない。
誰かに——。
「柏木、君は見ていたのか?」
上司の厳しい声が僕を現実に引き戻した。
「いえ、気づいたときには既に……」
嘘だ。僕は見ていた。確かに見ていたはずなのに、記憶が——霧がかかったように、ぼやけている。
廊下の向こうに、誰かの影があった。
あれは、誰だったのか。
担架に乗せられた桐谷さんが運ばれていく。その表情は、もう何も語らない。
僕の手が震えていた。
五年前のあの日と、全く同じように。
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