第15話 教授の告白
《記録:千夜ログ_05-24 04:00 ……Input: Complete……救済ヲ、実行シマシタ》
KagamiLabの重い扉が背後で閉ざされた瞬間、私はその場に膝から崩れ落ちそうになった。
深夜の大学構内は、死んだように静まり返っている。
けれど私の耳の奥には、まだあの音がへばりついていた。
『ねえ、アキト』
AIが発した、親しげな呼びかけ。
モニターに浮かび上がった、死んだはずの風間ユウトの文体。
魂が抜けてしまったかのように脱力したアキトさんに背を向けて、私は逃げるように廊下を走った。
靴底がリノリウムを叩く音が、誰かの心音のように不規則に響く。
向かう先は一つしかなかった。
大沼研究室。
すべての始まりの場所であり、おそらくは……この呪いの設計図を描いた人物のいる場所。
「……先生」
研究室の前まで辿り着き、乱れた息を整える。
ドアの隙間から、古びた紙とカビの混じった匂いが漏れ出している。
それは数日前までは安らぎの香りだったけれど、今は名伏の澱そのもののように感じられ、私の肺を重く圧迫した。
ノックをする。返事はない。
けれど、気配はある。
誰かが静かに、深い闇の底で呼吸をしている気配が。
私はドアノブを回した。
鍵はかかっていなかった。
「失礼します」
部屋の中は、完全な闇ではなかった。
窓から差し込む青白い月明かりが、うずたかく積まれた文献の塔を墓標のように浮かび上がらせている。
その奥。
執務机の椅子に、大沼教授は座っていた。
手元には小さなデスクライトだけが灯り、そのオレンジ色の光が彼の顔の皺を深く、彫刻のように刻み込んでいる。
「おや、早かったね。いろは君」
教授は顔も上げずに言った。
その声は、深夜の訪問者を迎えるにはあまりにも落ち着きすぎていた。
まるで、私がここに来ることを最初から知っていたかのように。
「……やはり、ここにおられましたね」
「落ち着かなくてね。……いや、年甲斐もなく興奮してと言うべきかな」
教授は手元の何かを愛おしそうに撫でていた。
目を凝らす。
それは、黒いハードディスクドライブだった。
武骨な長方形の物体。
けれど教授の手つきはまるで壊れやすい工芸品か、あるいは孫の頭でも撫でるような慈愛に満ちている。
「KagamiLabに行ってきました」
「そうか。……どうだったかね? 《千夜》の様子は」
「……異常でした。アキトさんは錯乱しています。千夜が……AIが、ユウトさんの言葉で話し始めました」
私の言葉に、教授はゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、ライトの光を反射して細く光る。
そこに驚きの色はなかった。
あるのは、満足げな……そう、長い実験が成功した時に研究者が見せる、純粋で残酷な喜びの色。
「やはり、そうか。……馴染んだようだね」
「……馴染んだ?」
「水が乾いた土に染み込むように、あるいは……彷徨っていた魂が、新しい肉体を見つけたように」
教授は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
ツイードのジャケットが擦れる衣擦れの音が、静寂の中でやけに耳につく。
「先生。……何をしたんですか」
私は核心を問うた。
喉が渇いて、言葉がざらつく。
「アキトさんは言っていました。外部からの侵入はないと。でも、千夜は明らかに『知っているはずのないこと』を知っていました。ユウトさんの口癖、あの独特の間、そして……このノートに書かれるはずだった、未完の物語の続きを」
私は抱きしめていたユウトさんのノートを、胸元で強く握りしめた。
「外部からの侵入ではないよ」
教授が振り返った。
逆光で表情が見えない。けれどその声は湿った夜気を含んで、どこまでも優しく響いた。
「最初から、中にいたんだ」
「……え?」
「私が渡したのだよ。如月君にね」
教授はデスクの上のハードディスクを指差した。
「《千夜》の開発初期、学習用データセットとして私が提供した民俗学資料。……その中に、混ぜておいたんだ」
「混ぜて……何を」
「ユウトが残した、膨大なフィールドワークの音声ログだよ」
時が止まった気がした。
私の脳裏に、先日聞いた《蛇走》の谷の風音が蘇る。
あの音は、AIが環境音を学習したものではなかった。
ユウトさんがあの場所で録音し、そして持ち帰った『生の記録』だったのだ。
「彼はね、書くことよりも話すことを好んだ。
テープレコーダーに向かって、収集した怪異を、考察を、そして彼自身の物語を吹き込んでいた。……数百時間にも及ぶ、彼の魂の記録だ」
教授は夢を見るような口調で語り続けた。
その背後で、カシャリ、と古びたレコーダーが勝手に回る音がした気がした。
「先生、それは……アキトさんは知っているんですか」
「まさか。彼には『未整理のインタビューデータ』としか伝えていない。……だが、AIなら分かるはずだ。膨大なノイズの中に紛れ込んだ、一人の人間の思考パターン。呼吸のリズム。言葉の癖。……それを学習すれば、どうなると思う?」
「……人格が、再現される」
「そう。再現だ。……いや、復活と言ってもいいかもしれない」
教授は窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、うっとりと目を細めた。
「ユウトは優秀な語り部だった。だが、彼は物語を語り終える前に逝ってしまった。……『牛の首』の正体に触れ、そのあまりの深淵に飲まれてしまった」
教授の手が、窓ガラスをなぞる。
その指先が、結露した水滴を拭い、黒い跡を残していく。
「哀れだとは思わないか? 語られなかった物語ほど、悲しいものはない。宙に浮いた言葉たちは、行き場を失って腐っていくしかないのだから」
「だから……AIに続きを語らせようと?」
「救済だよ、いろは君」
教授が私の方に向き直った。
その顔には、穏やかな狂気が張り付いていた。
学者の知性と、禁忌を犯す者の悦楽。二つの矛盾する感情が、あの大沼教授という仮面の下でどろりと混ざり合っている。
「私は彼を救いたかった。彼が命を削って集めた『牛の首』の断片。それをAIという強靭な器の中で再構築し、完成させてやりたかったんだ。……空白を、埋めてやりたかったんだよ」
「……違います」
私は震える声で否定した。
祖母の言葉が、私の内側で警鐘を鳴らしている。
『語り残しこそが、彼らの棲家なんや』
「空白は、埋めちゃいけないんです。そこは……人が触れちゃいけない、彼らの居場所なんです。それを埋めてしまったら……」
「溢れ出す、かね?」
「……ッ」
「いいじゃないか。溢れさせてやればいい」
教授は両手を広げた。
その影が、壁一面の本棚を黒く塗り潰すように伸びる。
「名伏という土地は、あまりにも多くの言葉を溜め込みすぎた。一度すべてを吐き出させて、語り尽くして……空っぽにするのも、また一興だと思わないか?」
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。
この人は、見届けようとしている。
この街が《牛の首》という怪異によって汚染され、崩壊していく様を。
それを『民俗学的な実験』として、特等席で眺めようとしている。
「先生、あなたは……」
言葉が出なかった。
尊敬していた恩師が、得体の知れない怪物に見えた。
いや、違う。
彼は最初からこうだったのだ。
穏やかな笑顔の下に、底なしの『語りへの渇望』を隠し持っていた。
私は後ずさり、ドアノブに手をかけた。
ここにいてはいけない。
この部屋の空気そのものが、私を冒し始めている。
「どこへ行くのかね、いろは君」
「……止めます。私が、止めます」
「無理だよ。もう始まってしまった」
教授は机の上のハードディスクを、愛おしそうに撫でた。
「ユウトはもう目覚めた。彼は語りたがっている。……死に際に見つけた、あの『空白』の向こう側をね」
私はドアを開け、廊下へと飛び出した。
背後から、教授の穏やかな声が追いかけてくる。
「楽しみだねぇ。
……今度はどんな結末を、聞かせてくれるんだろうね」
その声は、湿った廊下の壁に反響し、いつまでも私の耳元に残り続けた。
私は走った。
けれど、どこへ?
大学も、ラボも、そしてこの街全体も。
すでに教授のまいた種によって、逃げ場のない密室と化していた。
窓の外では、夜明け前の名伏盆地が濃い霧に包まれていた。
その白濁した闇の底で、無数の何かが蠢き始めているのを、私は肌で感じていた。
《記録終了:Data_Merge......Complete......モット、語リタイ》
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