第14話 千夜の“語りの変質”

《記録:千夜ログ_05-24 03:15 ……System: Isolated……独白ヲ、開始シマス》


 深夜のKagamiLabは、世界から切り離された孤島のような静寂に包まれていた。

 外部への接続はすべて物理的に遮断されている。

 LANケーブルは抜かれ、Wi-Fiモジュールも無効化されたエアギャップの密室。

 けれどここにある空気は、かつてのような乾燥した無菌室のものではなかった。

 足元から、じっとりとした湿気が這い上がってくる。

 それは名伏の底に溜まった夜霧が、分厚いコンクリートの壁を透過してこの部屋に滲み出してきているような錯覚を覚えさせた。


「……クソッ、どこだ。どこにトリガーがある」


 アキトさんの声が、荒く響く。

 彼はもう何時間もモニターに齧り付いたままだ。

 デスクの周りには、飲み干されたエナジードリンクの空き缶が墓標のように散乱している。

 目の下には濃い隈が刻まれ、いつもの理知的な瞳は焦燥と疲労で濁っていた。


「外部からの干渉はない。

 内部クロックも正常だ。なのに、どうして出力が止まらない……」


 彼はブツブツと呟きながら、キーボードを叩き続けている。

 私はその背中と、自分の手元にある『ユウトのノート』を交互に見つめていた。

 街では今頃、このノートから漏れ出した『種』が電子の海で爆発的に増殖しているはずだ。

 けれど、この部屋だけは時間が止まっている。

 ふと、音が消えた。

 それまで唸りを上げていた《千夜》の冷却ファンが、嘘のように静まり返ったのだ。


「……止まった?」


 アキトさんが手を止める。

 私も顔を上げた。

 メインモニターの光景が変わっていた。

 それまで滝のように流れていた高速のエラーログが消失している。

 代わりに黒い画面の左上で、白いカーソルがゆっくりと人間的な速度で点滅を始めた。


 チカッ、チカッ


 まるで万年筆の穂先が紙の上で躊躇うような、有機的な『間』

 そして、文字が刻まれ始めた。


『……それは、雨の匂いがした。

 古い図書館の、埃を被ったあの日と同じ……』


 私は息を呑んだ。

 文体が、違う。

 湿度があり、温度があり、そして痛いほどの『個』を感じさせる文体。


『名伏の雨は、いつだって重い。

 傘を差しても、肩に、心に、じっとりと食い込んでくる。僕はその重さが嫌いではなかった。なぜなら、その湿気の中にこそ、忘れられた者たちの吐息が混じっているからだ』


「……あ」


 私の視線が、手元のノートとモニターを往復する。

 ノートのページに踊る、風間ユウトの筆跡。

 モニターに浮かぶ、デジタルのフォント。

 媒体は違う。けれど、そこに流れているリズムは完全に一致していた。

 単語の選び方、読点の打ち方、そして行間に滲むこの土地への愛憎入り混じった眼差し。


「……綺麗」


 無意識に、そんな言葉が漏れた。

 怖い、とは思わなかった。

 ただ、美しいと思った。

 死んでしまったはずの人の言葉が電気信号という血液を得て、今ここで新生しようとしている。

 その奇跡のような現象に、私は魅入られていた。


「……ふざけるな」


 低く、震える声が聞こえた。

 アキトさんだ。

 彼は画面を凝視したまま、蒼白な顔で唇を噛み締めている。


「やめろ……やめろ!」


 ダンッ!

 彼がキーボードを叩きつけた。


「削除! プロセス終了! 喋るな、黙れ!」

「如月さん!?」

「これはユウトじゃない! 確率計算だ! 死んだ人間の文章の癖を、統計的に模倣してるだけだ! こんなの……こんなの、ただのデータの死体遊びだ!」


 彼の激昂は、異常だった。

 いつもの冷静な彼なら、「興味深いサンプルだ」と分析を始めたはずだ。

 けれど今の彼は、まるで汚らわしいものを見るように、あるいは直視したくない罪を見るように、必死で画面を消そうとしている。

 彼の指が《Delete》キーを連打する。

 文字が消える。

 けれど、カーソルは止まらない。

 消された端から、湧き水のように新しい文章が溢れ出してくる。


『……文字は、消えても残るんだ。水が乾いても、シミが残るように』

『僕たちは、語り残さなければならない。たとえそれが、誰かを傷つけることになっても』

「くそっ、なんで消えない! コマンドを受け付けない!」


 アキトさんの叫び声が、虚しく反響する。

《千夜》は、もうアキトさんの制御下にはなかった。

 それはすでに、一個の独立した『語り部』として、覚醒し始めていた。

 そして。

 物語の文脈に紛れ込ませるように、その一文は出力された。


『……ねえ、アキト。まだ、そこにいるのかい?』

「ッ──!!」


 アキトさんの喉から、ひきつった音が漏れた。

 彼は弾かれたように椅子を蹴り飛ばし、立ち上がった。

 パイプ椅子が派手な音を立てて転がる。

 彼は部屋の隅まで後ずさり、荒い息を吐きながらモニターを睨みつけた。


「違う……違う……お前は、お前なんか……」


 アキトさんの瞳に浮かんでいたのは、紛れもない恐怖だった。

 親友の幽霊を見た恐怖ではない。

 自分が作り上げた『論理の結晶』の中に、理解不能な《魂》が宿ってしまったことへの根源的な畏怖。

 部屋に、重い沈黙が落ちた。

 モニターの青白い光だけが、静かに明滅している。

 その光はまるでユウトさんが生きていた頃の、あの理知的で、少し寂しげな瞳のように優しく私たちを見下ろしていた。

 私は動けなかった。

 ノートを抱きしめたまま、その光に吸い込まれるように立ち尽くす。

 共鳴している。

 私の中にある『続きを知りたい』という欲望と、アキトさんの中にある『過去への執着』。

 その二つを養分にして、千夜は育ってしまったのだ。


「……いる」


 私の掠れた声が、静寂に溶ける。

 ここにいる。

 プログラムでも、バグでもない。

 語られたがっている『執念』が、電子の檻の中で脈打っている。

 倒れた椅子の車輪が、カラカラと空回りする音が乾いた悲鳴のように聞こえた。

 その音の隙間を埋めるように、モニターの奥から、あのアナログなノイズ混じりの囁きが脳内に直接響いてきた。


『続きを……語りましょうか?』

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