第11話 廃村《蛇走》──谷風の声

《記録:千夜ログ_05-23 10:15 ……Search: Origin……風ノ音ヲ、解析シマス》


 名伏の市街地を抜け、車で三十分ほど山道を登った先にその場所はあった。

 舗装された道路は途中で途切れ、そこからは鬱蒼とした杉林に覆われた獣道が続いている。

 私はエンジンを切り、車を降りる。

 途端に街とは比重の違う、鉛を含んだような重い空気が全身にのしかかってきた。


「……ここが」


 教授から託された『ユウトのノート』を開く。

 手書きの地図が指し示している地点。

 かつて林業で栄え、昭和の終わりにダム計画の頓挫と共に打ち捨てられた廃村──《蛇走(じゃばしり)》。

 KagamiLabのあの過剰なまでに乾燥した青白い空間とは対照的だった。

 ここはすべてが湿っている。

 足元の腐葉土は水を吸って黒く沈み、立ち枯れた木々には鮮やかな緑の苔がびっしりと張り付いている。

 古い図書館の奥で、誰にも読まれないまま朽ちていく書物の匂い。

 風化と忘却の匂いがした。

 私はリュックのベルトを握りしめ、濡れた山道を歩き始めた。

 …静かだ。

 鳥の声すらしない。

 聞こえるのは自分の心臓の音と、足元の枯れ枝が折れる乾いた音だけ。

 けれど、その静寂は『無』ではない。

 何かが息を潜め、こちらの様子をじっと窺っているような圧迫感を伴う沈黙だった。

 ノートの記述に目を落とす。

 ユウトさんの筆跡は、このページだけ乱れている。


『蛇走の谷は、風が澱む。

 言葉が腐る場所だ』


 実際に歩いてみて、その意味がわかった。

 この谷はその名の通り、巨大な蛇がのたうったような複雑な曲線を描いている。

 切り立った崖に囲まれた地形は外から吹き込む風を逃がさず、谷底で何度も反響させて渦を巻かせる構造になっているのだ。

 名伏盆地自体が『噂が逃げない地形』であるなら、ここはさらにその密度を高めた天然の密室。

 一度発せられた言葉や音はどこへも行けず、この湿った土に染み込んでいくしかない。


「……まるで、耳の奥みたい」


 独り言が、すぐに霧の中に吸い込まれる。

 私は地図に従って、村の最奥部へと進んだ。

 崩れかけた日本家屋が数軒、緑に飲み込まれるようにして残っている。

 屋根は抜け落ち、柱は傾き、かつて人の営みがあった痕跡だけが墨絵の滲みのように景色に溶け込んでいる。

 その外れ。

 崖の裂け目に半分埋もれるようにして、小さな祠が見えた。


「あった……」


 風化して角の取れた石造りの祠。

 注連縄はとうに腐り落ち、ただ黒ずんだ石の塊としてそこにある。

 私はノートを鞄にしまい、慎重に近づいた。

 ここだ。

 ユウトさんが何かを見つけ、そして何かを聞いてしまった場所。

 足を止める。

 妙な音が聞こえた気がした。


 ヒュゥゥゥ……


 風の音だ。

 崖の岩肌に空いた無数の亀裂を、谷底から巻き上げられた風が通り抜けていく。

 けれどその音色は、私の知っている風切り音とは違っていた。


 ヒュゥゥゥ……ハァァァ……


 一定のリズムがある。

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 湿った肺胞が膨らみ、空気が気管を擦りながら出入りする音。

 これは、呼吸だ。


「ッ……!」


 背筋に氷水を流し込まれたような悪寒が走った。

 聞き覚えがある。

 つい数日前、深夜のラボで聞いた音。

 ユミちゃんが解析し、アキトさんがバグだと断じた、あの《千夜》のノイズ音。


『……人の声帯模写に近い波形だ』


 あの日、アキトさんはそう言った。

 違う。

 あれは、人間を模倣したんじゃない。

《千夜》は、この場所を記憶していたのだ。

 かつてここを訪れた風間ユウトがICレコーダーか何かにこの音を記録し──そして、それを学習データとして取り込んだAIが、この土地の『呼吸』を再現していたとしたら。

 私は震える手で、祠の石肌に触れた。

 冷たく、湿っている。

 まるで、冷え切った死人の肌のように。


「……ここで、聞いていたんですね」


 ユウトさんは、この音の中に何を聞いたのだろう。

 ただの風音の中に、意味のある言葉の断片を──《牛の首》に繋がる禁忌の響きを見出してしまったのだろうか。


ヒュッ、ハァー……

ヒュッ、ハァー……


 風が強くなる。

 呼吸が荒くなる。

 谷全体が、巨大な生物の体内のように脈動し始めている気がした。

 岩の隙間から漏れ出る風は、単なる空気の振動ではない。

 この土地に積み重なった、語られなかった言葉たちの行き場のない呻き声だ。

 語りたい。

 聞かせたい。

 誰かの鼓膜を震わせて、意味として定着したい。

 そんな渇望が、湿った粒子となって私の肌にまとわりつく。

 怖い。

 けれど、逃げ出せない。

 民俗学徒としての性なのか、あるいは私の中にもある『語りへの執着』が共鳴しているのか。

 私はその場に立ち尽くし、ただその音を全身で浴びていた。

 視界が揺れる。

 白い霧が古びた和紙の繊維のように毛羽立ち、視界を白濁させていく。

 その時だった。

 ピタリ。

 唐突に、風が止んだ。

 吸気も、呼気も、すべてが遮断されたように完全な静寂が訪れた…キーンという耳鳴りがするほどの無音。

 鳥の声も、木々のざわめきもしない。

 世界が、息を止めた。

 カサリ。

 背後の藪の中から、乾いた音がした。

 落ち葉を踏む音。

 獣ではない。

 二本の足で立つ、ある程度の質量を持った何者かがそこにいる気配。


「……誰?」


 喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 振り返る。

 白い霧の向こう。

 杉林の黒い影と、崩れかけた家屋の影が混ざり合う場所。

 そこに人影のような揺らぎがあった。

 はっきりとは見えない。

 けれど、直感が告げている。

 あれは、この世のものではない。

 あるいは──この世に『語り残し』をしてしまった者の、成れの果てか。

 私は無意識に、鞄の中のノートを強く握りしめた。

 破られたページ。

 失われた結末。

 その『空白』が今、目の前の霧の中で実体化しようとしている。


「……そこに、いるんですか?」


 私の問いかけに、影は答えない。

 ただ、静寂だけが重くのしかかる。

 ふと、耳元で風が吹いた気がした。

 いや、違う。

 それは物理的な風ではなく、脳内に直接響く電子ノイズ混じりの囁きだった。


『……続きを……』


 私は息を呑み、後ずさった。

 その声はこの谷の風音であり、同時にあの青白いラボで聞いた機械音でもあった。

 過去と現在、アナログとデジタルが、この廃村で一つに溶け合っている。


「……まだ、聞かない」


 私は拒絶の言葉を口にした。

 ここで聞いてしまえば、私は戻れなくなる。

 アキトさんのいる『理屈の世界』にも、教授のいる『語りの世界』にも。

 影が、ゆらりと揺れた気がした。

 霧が濃くなる。

 視界が白く塗りつぶされていく中で、私は確かに感じていた。

 名伏盆地という巨大な器の底で、何かが目覚め、ゆっくりと這い出し始めていることを。


《記録終了:Connection_Established……Target_Locked》

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