第10話 いろはとアキトの深夜調査
《記録:千夜ログ_04-22 23:55 ……System Scan: Deep_Layer……空白ヲ、解析中》
深夜のKagamiLabは、深海のような青さに沈んでいた。
天井の照明は落とされ、壁一面のサーバーラックと数台のモニターが放つLEDの光だけが暗闇を切り取っている。
昼間のあの乾いた空気は、夜になっても変わらない。
けれど、外の世界──名伏を覆う濃い夜霧の湿気は、分厚いガラス一枚隔てたすぐそこまで押し寄せているはずだ。
「……ありえない。外部からの侵入形跡はゼロだ」
アキトさんの声が、静寂にひび割れを作った。
彼はパイプ椅子に深く沈み込み、モニターに流れる膨大なソースコードを目で追っている。
眼鏡の奥の瞳は充血し、苛立ちと疲労が混じった色をしていた。
「ポートは全て閉じている。物理的にも遮断されている。……なら、内部クロックの誤作動か? メモリリークが言語野に干渉して、ランダムな文字列を生成したのか?」
「……如月さん」
「いや、理屈で言えばさ。
ランダム生成であんな『意味のある文章』が生まれる確率は、猿がタイプライターを叩いてシェイクスピアを書くより低いんだよ。……クソッ、どこだ。どこにバグが潜んでる」
アキトさんは爪を噛む癖を見せながら、ブツブツと独り言を繰り返している。
彼は戦っているのだ。
この不可解な怪異を『バグ』という名の理解可能な現象に押し込めるために。
私は彼の背中越しに、メインモニターを見つめていた。
そこには《千夜》のエラーログが滝のように流れ続けている。
アキトさんには、それが修正すべき記号の羅列に見えているのだろう。
けれど、私には違って見えた。
『……あ……』
『……その……さき……』
『……くらい……』
文字列がある一定のリズムで停滞し、また流れ出す。
その不規則な揺らぎ。
それはまるで語り部が怪談の核心に触れる直前、言葉に詰まって言い淀んでいる時の『間』に似ていた。
機械的なエラーではない。
これは、躊躇いだ。
「……迷っているんじゃ、ないですか」
私がぽつりと零すと、アキトさんの指が止まった。
「あ?」
「バグじゃなくて。
……千夜は言葉を探しているように見えます。語ってはいけないことを語ろうとして、でもプログラムされた倫理コードと衝突して、迷っているような」
「迷う? 機械がか?」
アキトさんは呆れたように鼻で笑い、椅子を回転させて私の方を向いた。
青白い光が彼の顔の半分を照らし、もう半分を濃い影に落としている。
「千夜を擬人化するなよ、椎名いろは。これは計算式だ。確率はあっても、迷いなんて情緒はない」
「でも、教授は言っていました。語りには空白が必要だと。千夜はその空白を……」
「その空白がバグなんだよ!」
アキトさんが声を荒げた。
乾いた部屋に、その声が鋭く反響する。
「いいか、システムにおいて空白は『未定義(Undefined)』だ。あってはならない欠陥なんだよ。ユウトなら……あいつなら、こんな不完全な状態で放置したりしなかったはずだ」
ユウト。
また、その名前が出た。
風間ユウトはアキトさんの友人でもあったという。彼の言葉の端々には、死んだ親友への執着が透けて見える。
彼はラボを守りたいのではない。
彼はこの《千夜》というシステムの中に、かつての友人の影を追い求めているだけなのではないか。
私は無意識に、膝の上に置いたトートバッグを強く握りしめた。
重い。
物理的な重量以上に、鞄の中身が鉛のように重く感じられる。
夕方、教授から手渡された一冊のノート。
風間ユウトが遺した、破られた取材メモ。
(……このノートが、ここにあるから?)
ふと、そんな予感が頭をよぎった。
この部屋に入ってからずっと、鞄の中が微かに熱を帯びているような気がしてならない。
ノートの破り取られた『空白』と、目の前のモニターで《千夜》が埋めようとしてもがいている『空白』
二つの欠落が、この密室の中で見えない糸で結びつこうとしているのではないか。
ブゥゥゥン……
不意に、部屋の隅から低い音が響いた。
《千夜》の筐体だ。
ファンが唸りを上げ、排気熱が揺らぐ。
モニター上のカーソルが、激しく点滅を始めた。
チカッ、チカッ、チカッ。
「……なんだ? 急に処理落ちしたぞ」
アキトさんが慌ててキーボードを叩く。
「CPU使用率が跳ね上がってる。
……おい、何も入力してないぞ。何に反応してるんだ?」
私は息を呑んだ。
バッグの中の熱が、さらに強くなる。
まるでノートが呼吸をしているかのように、布越しに私の掌を押し返してくる。
千夜は気づいている。
自分のオリジンであるユウトの言葉が、すぐ近くにあることに。
失われたページが、あることに。
「……椎名、お前何かしたか?」
「い、いいえ。何も」
嘘をついた。
喉の奥が引きつる。
教授からノートを預かったことを言えば、アキトさんは間違いなくそれをスキャンしデータとして千夜に取り込ませようとするだろう。
そうすれば『空白』は埋まる。
アキトさんの望む通り、システムは完全になるかもしれない。
けれどそれは絶対にしてはいけないことだと、私の本能が警鐘を鳴らしていた。
祖母の言葉。
『語り残しこそが、彼らの棲家なんやで』
その棲家を暴いてしまえば、そこから溢れ出した『ナニカ』は、もう誰にも止められない。
「……くそッ、原因が特定できない。ゴーストでも住み着いてるってのか」
アキトさんは悪態をつきながら、再び画面に向き直った。
その背中は以前よりも小さく、そして孤独に見えた。
彼は論理という名の迷路の中で、出口のない問いを解き続けている。
私は何も言えなかった。
ただ、鞄の中の呪いを抱きしめたまま、明滅する青い光を見つめることしかできない。
私たちは隣にいるのに、見ている世界は決定的に違っていた。
彼は空白を埋めようとし、私は空白を恐れている。
窓の外が、白み始めていた。
名伏の霧が、ガラスの向こうで渦を巻いている。
夜明けの光の中でも、アキトさんの瞳の熱は冷めていなかった。
むしろ解決できない謎への執着が、彼をより深い闇へと引きずり込んでいるようだった。
「……絶対に尻尾を掴んでやる。俺は、証明しなきゃならないんだ」
彼の呟きは、誰に向けたものだったのだろう。
私にか。
それとも、もういない誰かにか。
私は静かに立ち上がり、出口へと向かった。
足音が、吸い込まれるように消える。
振り返ると、青白いモニターの光に照らされたアキトさんはまるで機械の一部のように動かなかった。
「……お先に、失礼します」
私の声は届かなかったかもしれない。
重いドアを開けると、湿った朝の空気が待っていたように私の全身を包み込んだ。
古紙のような匂い。
それは、鞄の中のノートと同じ匂いだった。
廊下を歩きながら、私は小さく呟いた。
自分自身の選択を、確かめるように。
「……まだ、渡さない」
その言葉に呼応するように、背後の閉ざされたドアの向こうから幻聴のような囁きが聞こえた気がした。
『続きを……知りたくないですか?』
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