【短編ホラー】錆びたブランコは、ふたりを揺らす

ささやきねこ

帰らぬ幼馴染と、団地のはずれの公園で

 団地の外れにあるその公園は、地図から名前を失って久しい。


 掲示板には「老朽化のため立入禁止」「解体予定」と、色褪せた紙が風にめくれ上がっている。フェンスには新しい銀色のワイヤーが縫い付けられ、その向こう側では、遊具たちが夕日の中で長い影を落としていた。


 子どものころは、もっと広くて、明るくて、ずっと賑やかな場所だった気がする。けれど今は、骨だけ残った巨大な動物の群れみたいだ。すべり台の階段はあばら骨、鉄棒は肋骨を繋ぐ筋、ジャングルジムは崩れかけた鳥かご。


 フェンス越しに、その中でも一番奥――ブランコだけが、取り残された歯車みたいに見えた。


「……来ちゃった」


 誰にともなく、小さくつぶやく。


 帰省のついで、なんて言い訳を自分にしながら、私はここに来た。本当は、ずっと前から決めていた。取り壊される前に、一度だけ見ておきたかったのだ。


 K君がいなくなった場所を。


 


 フェンスの隙間は、相変わらず甘い。下の方の針金は、誰かがこじ開けたのか、中途半端に曲がっていて、かがめば通れるだけの空間が空いている。子どもの頃はここをくぐるだけで、別世界に入り込む儀式みたいにドキドキした。


 今は、ただ制服から私服に変わっただけの、背の伸びた侵入者だ。


 「失礼します……」


 形だけの挨拶をして、フェンスの向こうに体を滑り込ませる。頬をかすった金属の感触は、ひんやりしていて、ほんの少しだけざらついていた。指先を見ると、うっすらと茶色い粉がついている。さびの匂いが、夕方の空気の中でかすかに濃くなった。


 足を踏み入れた地面は、乾いた砂と、崩れかけのゴムチップが混ざり合って、ふわりと柔らかい。誰も踏みつけなくなったせいか、雑草が好き放題に伸びている。細い茎がくるぶしに触れるたび、くすぐったいような、不法侵入を責められているような気分になった。


 ひぐらしが、遠くと近くで重なり合って鳴いている。団地の洗濯物は、夕日に透けてオレンジ色の旗のように揺れている。どこかの家から、カレーなのか炒め物なのか、馴染みのある香りがかすかに漂ってきた。


――なにもかも、昔と同じだ。


 そう思いかけて、すぐに否定する。


 違う。昔と同じに見えるように、そっくりそのまま残されているだけだ。誰も乗らない木馬。誰も登らないすべり台。誰も握らない鉄棒。生きもののいない標本室。


 私は、その標本の中央にようやくたどり着いた。


 二つ並んだブランコ。


 左側は、かろうじて水平を保っている。座面は色が抜けかけた青で、鎖は黒ずんで艶を失っている。風もないのに、ほんのわずかに揺れているのは、さっき私が足音を立てて歩いた振動のせいだろう。


 右側は――あの日のままだ。


 鎖が途中でねじれて、座面は傾いたまま、少し低く垂れ下がっている。誰かが乱暴にねじり遊びをして、そのまま解けなくなってしまったみたいに。座面の裏、支柱に近いところに、小さな靴の黒い跡が残っている気がした。


「……K君」


 名前を口にすると、胸の奥で何かがきしむように鳴った。


 K君は、このブランコが好きだった。いつも右側を選んで、私に左側を譲ってくれた。背中を押してほしいとせがんで、「もっと高く!もっと速く!」と笑う声が、今でも耳の奥にこびりついている。


 あの日も、そうだった。ただ、いつもより夕暮れが深くて、いつもより風が少し強くて、いつもよりK君のテンションが高かった。


「飛べるかもしれない」


 彼はそう言って、本気なのか冗談なのかわからない笑い方をした。


「鳥みたいに、団地の屋上までいけるんじゃない? もっと漕げばさ」


「無理だよ、そんなの」


 私は笑って返したけれど、本当は少しだけ期待していたのかもしれない。子どもの頃の私たちには、公園の外側の世界は知らない場所で、団地の屋上だって異世界の塔みたいなものだった。


 K君は、いつもギリギリまでペダルをこぐみたいに、ブランコを加速させた。鎖がぴん、と張って、座面が空に向かって伸び上がる。戻るたびに、砂がかすかにざらざらと擦れる。鉄の軋みが、胸の鼓動と同じリズムで鳴る。


 その日も、ほんの数秒だけ、K君の姿が見えなくなった。


 そして、戻ってこなかった。


 


「あれ?」


 最初は、そういう感覚だった。


 ブランコの軌道から外れて、ふっと消えてしまっただけのように思えた。座面だけが空っぽになって、鎖がねじれて、金属が「ギィ」と嫌な音をたてる。


 私は叫ぶ代わりに、呆然とそれを見ていた。


 砂の上に靴が一足、転がっている。さっきまであんなに元気に笑っていたのに。泣き声も、叫び声も、なにひとつ聞こえなかった。風が少し強くなって、夕日の色が急に冷めた。


 大人たちは「神隠し」と言った。危ないから、あの公園には近づいてはいけない、と。


 私は長い間、そう信じるしかなかった。その方が、納得しやすかったから。


 でも今、目の前にあるのは、神様の痕跡ではなく――ただの、錆びかけた鉄の塊だ。


 ねじれた鎖。低く垂れ下がった座面。支柱に取り付けられた金属のフレーム。風もないのに、わずかに揺れている。


「……飛び立てなかったんだ」


 口から、勝手に言葉が零れた。


 K君は消えたんじゃない。どこか遥か遠い場所へ連れ去られたんじゃない。彼は、このブランコから離れられなかったのだ。それどころか――


「ここ、から」


 胸の奥で、なにかが形を変える音がした。


 


 私は、左側のブランコの前に立つ。


 座面に溜まった砂を、指で軽く払った。茶色い粉が舞い上がり、夕日に溶けてセピア色の霞になる。指先の汚れを拭おうとして、開いた自分の掌を見て、少しだけ笑ってしまった。


 涙じゃない。血でもない。ただの錆と砂だ。


 それなら、怖くない。


「最後に、一回だけ」


 自分にそう言い聞かせて、そっと座面に腰を下ろす。鉄パイプの支柱が、背中のほうでかすかに鳴る。座面は思ったより冷たくて、ジーンズ越しに硬い感触が伝わってくる。


 足を前に出して、軽く蹴る。砂が柔らかく崩れて、ブランコが小さく揺れだす。


 ギィ。ギィ。


 右隣の、誰もいないはずのブランコも、遅れて揺れはじめる。鎖がねじれたまま、相棒を追いかけるように、ゆらゆらと。


「……合わせてくれてるの?」


 思わず、話しかけてしまう。


 返事はない。ただ、揺れのリズムだけがぴたりと重なる。ギィ、ギィ、と二つの音が同じタイミングで鳴り、空気を震わせる。まるでK君の笑い声と、息を切らしながら喋る声が、薄く薄く金属に焼き付いたみたいに。


 背中を押してくれる人はいない。でも、ブランコはゆっくりと加速していく。足を前へ、後ろへ。膝を曲げて、伸ばして。子どもの頃、体に刻み込まれた動きは、まったく錆びていない。


 風が顔を撫でる。前髪が頬に貼り付きかけて、すぐに離れていく。団地の建物が、上下に揺れる視界の端で、遠くなったり近くなったりする。


 ギィ。ギィ。ギィ。ギィ。


 右隣が、完全に同期した。


 笑ってしまう。涙が出そうになる。


「ねえ、覚えてる? いつもここでさ――」


 声が、風にちぎれていく。私は続ける。


 夏休みに二人で、虫取り網を放り出して、夕暮れまで漕いだこと。雨の日に、びしょ濡れになりながら滑り台を滑って怒られたこと。冬の朝、息が白くなった時に、二人で「ドラゴンのブレス」だとふざけたこと。


 どれも、残っていないはずなのに。


 ここには、全部が残っている気がした。


 鉄の匂い。湿った砂。ヒグラシの声。団地の窓から漏れるテレビの音。遠くの道路を走る車の低い唸り。


 ――そして、ブランコの音。


 ギィ。ギィ。


 ふいに、右隣の音の合間に、かすかな違和感を覚えた。


 カチリ。


 微かな、嚙み合う音。


 最初は、自分の握力のせいだと思った。鎖を握る手に、力を入れすぎたのだろうと。けれど、次の瞬間、指の関節のあたりで、冷たい輪っかがぴたりと自分の骨格をなぞる感触がした。


 ぞくりとする、という感覚ではなかった。痛みはなく、むしろ、関節の隙間がきちんと埋められていくような、安心感に近いもの。


 指と指の間に、鎖のリングが滑り込む。皮膚の柔らかさが、鉄の輪の硬さに押しつぶされていく――はずなのに、そこには不思議な調和があった。冷たさと温度の境界が溶けて、どちらが自分でどちらが鉄なのか、わからなくなっていく。


 カチリ。カチリ。


 握るたびに、音が増える。


「……あ」


 ようやく、違和感に名前がついた。


 私の指が、鎖の一部になりつつあるのだと。


 けれど、恐怖は遅れてやって来ることも、怒鳴ることもなかった。代わりに胸を満たしていくのは、ずっと昔からこうなるべきだった、と告げるような奇妙な納得だった。


 K君は、あの日、右側の席に座っていた。私は、左側。


 右だけが、先に選ばれた。都市が求めたのは、おそらく――


「強い骨格と、柔らかい関節」


 誰が言っていたのだろう。テレビか本か、都市伝説めいた噂話か。遊具は、子どもを遊ばせるためのものではない。選別のための鋳型であり、型に嵌まりやすい骨格を探しているのだ、と。


 小学校の帰り道に、誰かがそんなことを冗談半分で話していた。その時は笑って聞き流した。けれど今、鎖と指の嚙み合わせが完璧になっていく感覚を味わいながら、その言葉が妙に具体性を帯びて蘇る。


 ギィ。ギィ。


 右隣のブランコが、嬉しそうに揺れ幅を広げる。誰もいないはずなのに、座面の重心が変わったように、支柱全体が同じリズムで軋む。


 K君は、ずっとここにいたのだろう。


 鎖のねじれは、彼のねじれた脊椎。支柱の根元を支える金属フレームは、彼の足の骨格。砂利の下に埋もれたコンクリートブロックは、彼の腰骨。


 ひとつだけでは、不安定だったはずだ。右側だけが過負荷になり、夏の嵐か、冬の雪か、地震のたびに、少しずつ歪みを溜めてきた。


 都市にとって、それはきっと「不良品の機構」だった。


 だから――


「私が、来るのを待ってたの?」


 問いかけると、ギィ、という音が一瞬だけ間を置いた。すぐに、今までよりも滑らかなリズムで再開する。まるで、「そうだよ」と笑っているみたいに。


 背中側の支柱に、妙な感覚が走る。私が座っている左側のフレームから、細い冷たいものが伸びてきて、背骨のラインに沿って触れる。じわり、と溶け合うように、金属の硬さが私の骨をなぞる。


 痛くない。むしろ、姿勢矯正チェアに座らされたときのような、「正しい位置」に押し戻される安心感だ。今まで少し傾いていた肩や腰が、ぴたりと水平になる。


 わずかに足を動かそうとして、違和感を覚えた。


 靴の中で、足先が、重くなっている。骨の周りに、なにかが巻き付いて、ぎゅっと固められているような感覚。脱ごうとしても、靴は動かない。むしろ、靴の底から冷たいものが這い上がってきて、くるぶしまで満たしていく。


 足先を、無理に曲げようとしてみる。すると、関節が鉄の心棒に沿って、滑らかに回転するだけだ。肉の柔らかさは消え、あるのは硬質な軸と、その軸に適切な角度で取り付けられた回転機構。


「……ああ」


 声が、安堵のような吐息になる。


 これが、本来の動きだったのだ、と理解してしまう。私の骨格は、最初からこう組まれるために用意されていたのかもしれない。人間として立って歩くよりも、支柱として固定され、一定のリズムで揺れ続ける方が、よほど自然なのだと。


 スカートの裾が、ざら、と鳴った。布が鉄板に張り付くような音がする。視線を落とすと、色褪せたプリーツのひとつひとつが、薄い鉄板の折り目になりつつあった。光を反射して、オレンジ色から鈍い灰色に変わっていく。


 指を開こうとしても、鎖のリングがそれを拒む。関節が完璧に噛み合っているせいで、離れる理由を失っている。試しに力を込めると、私の筋肉ではなく、支柱の方が微かに悲鳴を上げた。


――ああ、だめだよ。


 誰かにそう言われた気がして、すぐに力を抜いた。


 右隣のブランコが、嬉しそうに揺れる。ギィ、ギィ。さっきまでよりも低い音で、しかし確実に、構造全体が一体化していく音。


 二人で並んで座っていた頃よりも、ずっと近い。距離という概念そのものが、意味を失いかけている。鎖を通じ、支柱を通じ、地中のコンクリートを通じて、私の中の何かがK君と混ざり合っていく。


「これで、やっと……」


 言葉が自然と続く。


「やっと、一緒になれたね」


 その瞬間、公園の空気が静かに変わった。


 ひぐらしの声が、少し遠のく。代わりに、どこかで水道管が動き出すような、低い振動が地面から伝わってくる。団地の建物の影が、わずかに揺れた気がした。道路の向こうを走る車の音が、妙に滑らかになる。


 ブランコが、ポンプのように動いている。


 ギィ。ギィ。ギィ。ギィ。


 一定のリズムで揺れるたびに、骨と鉄の継ぎ目を通じて、何かが出入りしている。空気か、水か、人々の気配か。はっきりとはわからないが、都市全体のどこかの循環が、私たちを通して調律されていくのを感じる。


 都市にとって、これは「正常運転」なのだろう。


 長い間片側だけが機能していたポンプが、ようやく両輪揃って稼働し始めた。ブランコは遊具ではなく、都市の見えない回路の一部であり、ここを通して選別された骨格たちが、少しずつ、形を変えながら組み込まれていく。


 涙が零れた気がした。


 頬を伝う感覚があって、反射的に肩をすくめる。だけど、目尻に溜まる温度は、すぐに冷めていった。手を放せない代わりに、頬を支柱に軽く擦りつけてみる。


 ざら、ざら、と砂を撫でるような感触。


 ぽろぽろとこぼれ落ちるのは、水ではなく、茶色い粉だった。夕日に照らされて、セピア色の粒子が宙を舞う。私の涙腺のかわりに、さびた鉄が泣いているみたいだった。


「ねえ、K君」


 声はもう、誰に向かっているのかわからなかった。


「遅くなって、ごめんね」


 ギィ。ギィ。


 優しく、許すように、音が返ってくる。


 


 どれくらい時間が経ったのか、わからない。


 夕日はいつのまにか沈みきって、空は群青と藍の境界線になっていた。団地の窓に灯りがぽつぽつと灯り、洗濯物はもうほとんど取り込まれている。公園の中だけが、時間から取り残された空洞のように暗く、しかし、どこかで鈍く光っていた。


 ブランコの支柱だ。


 さびを塗り直したばかりのような、妙に新しい光沢がある。薄い街灯の光を受けて、二本の支柱が、静かに並んで立っている。風が吹くたびに、ごくわずかに揺れ、ギィ、と低く鳴く。


 フェンスの外側で、誰かの足音が通り過ぎる気配がした。


「ここ、取り壊すんだってさ」

「そりゃそうだよ。危ないもん、こんな古い公園」


 遠くから聞こえる会話。若い男女の声だろうか。ひそひそと笑いあいながら、足音はすぐに遠ざかっていく。立ち止まって、中を覗き込む気配はなかった。


 フェンスの向こうからは、人の姿は見えない。


 中から見ても、人の姿は見えない。


 そこにあるのは――


 柔らかい砂と、伸び放題の雑草と、骨だけ残った遊具たち。そして、静かに揺れ続ける、一対のブランコだけ。


 座面は撤去されるかもしれない。鎖は引きちぎられるかもしれない。けれど、支柱は簡単には抜けない。地中深くまで埋め込まれたコンクリートブロックと、それに絡みついた鉄の骨格は、都市の基礎として、簡単には壊せない。


 たとえ表面が粉々になっても、錆となって、砂となって、この場所から完全に消えることはないだろう。


 誰かが探しに来ても、もう人間は見つからない。


 K君も、私も、団地の子どもたちの誰とも、面影は重ならない。


 ただ、新しく塗り直されたように鈍く光る支柱が、二本、並んでいるだけだ。


 ギィ。ギィ。


 今日もまた、都市は静かに、私たちを揺らし続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編ホラー】錆びたブランコは、ふたりを揺らす ささやきねこ @SasayakiNeko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ