蔵本星奈を愛してる~何故、私が世界で一番可愛い妹に身も心も未来も捧げるに至ったか~
海野しぃる
第1話 世界で一番のお姉ちゃん
突然自慢するが、私の妹は世界で一番可愛い。
身長158cm、体重50kg、誕生日は4月1日、好きなものは
勉強もスポーツも苦手でどんくさいところはあるが、幼い頃から続けていたピアノだけはもう私じゃ敵わないくらい上手になった。
私がピアノよりも受験勉強が楽しくなってしまっても、あの子はずっとピアノが好きだった。私と違って、一つのことにコツコツと打ち込む根気がある。
世界一、いや、宇宙一の妹だ。
「お゛姉゛ち゛ゃ゛~ん゛!」
だからそんな妹が、夜も遅くなってから私の寝室に飛び込んできて大声で悲鳴を上げていると、やっぱり宇宙一可愛い。
「あらどうしたの星奈、また学校で困ったことでもあった?」
「お姉ちゃん、勉強おしえて~! もうすぐ中間テストなの! 補習受けたくないよぉ゛~!」
「そうね、また38点とか取ってあなたのピアノレッスンに支障が出たら困るもの。科目は何?」
「英語! あのね、もう何書いてあるか分かんなくてぇ……」
先月、私が蛍光ペンでラインを引きながら、勉強を見てあげたばかりの教科書を見直す。
教科書は信じられないことになっていた。
「あんたなによこれぇ!? なにこのショッキングピンクの魔導書は!?」
「あぁぁああん! でもでも全部覚えなくちゃ駄目だと思゛っ゛た゛の゛ぉ゛~!」
教科書の全てを頭に入れるのは素晴らしい勤勉な態度だ。
でもピアノで忙しい上に、元よりどんくさくて覚えの悪いこの子にそこまで勉強するような時間はない。
「おバカ! 良い? テストで聞かれる場所はある程度決まってるんだから、まずその部分の単語だけ覚えなさい!」
「構文ってなに!?」
ともかく目先のテストをなんとかする方法から考えよう。
「……分かったわ、まずお姉ちゃんが作った英語のノートを見せてあげるから、それを参考に単語を覚えるところからね?」
「はーい!」
英語がこれなら、他の科目も似たようなものだろう。夏休みに基礎から見直した方が良いかもしれない。
この子の夢が、勉強に足を引っ張られてはいけない。
この子の夢は、私が支えてあげなくてはいけない。
だってお父さんもお母さんもこの家には居ないのだから。
「じゃあこれ、新しいノート」
「もう授業でノートとったよ!?」
「黒板の内容を写しただけじゃ駄目よ。あなたが考えて納得した工程を、あなたの手で紙に書き残すのが大事なの」
「今からぁ~!?」
「ほら、つべこべ言わずにやる! 時間は待ってくれないんだから! まずは頻出単語のおさらいよ! この前の単語テストで出た単語を十回ずつ書き取って、意味を言われたすぐ書けるようにしておくこと。この後すぐに確認テストをやるわ!」
「げええええええ!?」
私の妹は宇宙一可愛い。
だから私は宇宙一のお姉ちゃんにならなくてはいけない。
宇宙一のお姉ちゃんは、妹の勉強を完璧に見てあげなくてはいけない。
「にひひ、じゃあお姉ちゃん、夜ふかしのためにコーヒー淹れてくるから! せいぜい戻ってくるまで必死に頑張ってなさい!」
私は踊るような足取りで一階へと降りていった。
*
冷凍庫の中で保管していた豆を、お父さんが遺していった電動ミルの中に入れてスイッチを押す。
お父さんが大好きだった一番細かい粉が、モーターとミルの音と共に機械から吐き出されていく。
コーヒー粉はとびきり熱いお湯で淹れる。それがお父さんの味だ。なんでこうしていたのか私は知らない。
prrrr
鼻歌交じりにコーヒーを用意していると、こんな時間に電話がかかってきた。
またお母さんからだ。今日も遅くなるらしい。
「はい、もしもし? お母さん?」
「ごめんね、今日も残業で遅くなる」
「良いのよ良いのよ、頑張って働いてお家にお金を入れてくれれば。もう家事だってできるし、なにか有ったら隣には緑郎叔父さんも住んでいるし」
憎まれ口を叩くのは、仕事で忙しい母に気に病んでほしくないからだ。
母が一生懸命働いているのは知っている。
やりがいがあって、お給料も沢山もらえて、私だって母のことは自慢に思っている。
「緑郎には確かにあたしも感謝してるけどね……でも、私が星奈の面倒をあなたに頼ってばかりなのは良くないのよ」
「けど私って良いお姉ちゃんでしょ?」
「……あのね、あなたは世界一のお姉ちゃんよ。でもね……」
「ほら、忙しいんでしょ? お仕事戻ったら?」
「……そうね、今度ゆっくり話しましょうか。進路のこととか」
「三者面談はまだ先じゃないの。心配しすぎ」
「あなたのお母さんですもの……もう、じゃあ仲良く留守番しててね?」
「はーい!」
お母さんは心配性だ。
私と星奈が仲良く留守番しない訳がない。
話している内にコーヒーが準備できた。今日は基礎から星奈の勉強を見直しだ。
何ができていて何ができていないのか、そしてこれから何をさせるのか、星奈が眠った後からが大仕事になる。
「星奈~ちゃんと勉強してた?」
やけに静かな私の部屋。
星奈はちゃんと勉強しているのだろうか。ドアを開ける。
「あ」
ドアの向こうでは星奈が寝ていた。
「え、あ、え、え……」
星奈が寝ている。
寝息が聞こえない。
それになんだか寝相が悪い。
「星奈、何してるのよ~」
コーヒーをゆっくり机に置いて、星奈に近寄る。
寝息はまだ聞こえない。
「寝た振り~? 面白くないわよ?」
脈は無い、呼吸は無い、ひっくり返してまだ温かい身体を揺すって、それから瞳孔を覗き込む。
「ちょっと、星奈、起きなさい。星奈、どうしたの、星奈、ねえ星奈、星奈、星奈? 何やってるのあなた、ねぇ、なんで、起きなさいって。起きて。こら、起ーきーろー!」
反応はない。
救急車、救急車を呼ばなきゃ、スマホで110番。
違う、それは警察。急いでいる時こそ冷静に、深呼吸。
そうだ。1、1、9だ。
電話口の人に、今の状況をできるだけ簡潔に伝える。
「妹が倒れて息をしてません」
それから住所を伝えて、心臓マッサージの手順を教えてもらった。
救急車が来るまで続けなくちゃいけない。十分くらいはかかるそうだ。
落ち着いて対応しなくてはいけない。私は妹を助ける為、お姉ちゃんを遂行する。
「ねえ、星奈、起きて?」
胸を強く押す。一定のリズムで。
すっかり大人の体になっていて、胸を触っていると少し変な気分になってしまう。
きれいで、可愛くて、体温が少し低い。
何回か胸を強く押し込んでから、唇をべったりとつけて、星奈の肺の中に息を吹き込む。
少しだけ胸が膨らんで、もしかして生きているのかもと思ったけど、これは肺に空気を吹き込んで膨らんだだけ。生理現象に過ぎない。
もう一度胸を強く押す。胸骨(生物の授業でやったから分かる)の下側。何度も何度も深く押し込む。
反応はない。
嘘だ。
死んでいる訳がない。
「起きて、星奈。あなたが居なかったら、私何のために生きているか分からなくなっちゃうわ」
「星奈、返事して? 痛くない? ごめんね? もうちょっとだけ我慢してね。お姉ちゃんが助けてあげるからね」
「絶対大丈夫だからね。お姉ちゃんが居るからね」
肺いっぱいに溜め込んだ空気を、妹の肺の中に移し替える。
私の命が生み出す息吹が、妹の肺胞の一つ一つに宿って膨らんで、ほんの少しだけ彼女の胸が膨らみ、そしてまた肺が縮み、息が抜けていく。
命が抜け落ちていく。
私はどうなってもいい。
私だけが生きていてもどうしようもない。
だから、どうか、この娘だけは、たった一人の妹をどこにも連れて行かないでください。
私と妹が過ごす日々が終わらないでください。
「私の寿命をあげるから……起きてよ……星奈……」
心臓マッサージを続ける。
そのリズムは、ちょうど子供の頃から星奈が好きだった曲と同じだった。
二人でピアノで弾いた時のことを思い出しながら胸を押す。
星奈、あなたアンパンマンとかドラえもんとか好きだったよね。
あなたの大好きな曲だよ、起きて。
「神様……星奈を返してください……」
どうしようもない。私の大好きな人はこのまま居なくなるんだ。
「神様、私は何も要らないので妹だけは助けてください」
温度が抜け落ちていくのが、私にも分かる。
「あなたが、いちばん大切なのに」
人工呼吸。
人工呼吸というには、あまりに長くて、あまりに思いが籠もっていた。
分かってる。
でも、もう二度と触れられないならば、せめてこのまま冷たくなるまで。
あなたにくちづけしていたい。
ガリッ
唇を何かが噛んだ。
最初、私は痛みを感じなかった。
次に、口の中を何かが動いた。
動いたものは私の唇を舐め取って、それからそれでも足りないとばかりに口の中に残っていた水分を吸い取った。
「もう、お姉ちゃんのエッチ」
星奈の腕が、私の肩を押す。
呆気にとられた私はそのまま尻もちをついてしまった。
「いけないんだ。人工呼吸さぼってた~」
「な、なに馬鹿な事言ってるのよ!? あなた起きてたんなら早く言いなさいよ! そもそも救急車だって呼んじゃったのよ! すぐあなたが起きたって伝えないと!」
「お姉ちゃん、通話切れてるよ。電波も通じてないじゃん」
「は!? え!? いつから!?」
スマホの通話履歴を見ていると結構最初の頃から通話が切れていたらしい。
心臓マッサージと人工呼吸のやり方を教わった後から、確かに電話の向こうから呼びかけが無くなっていた。
「とりあえず救急車を待たない? 呼んじゃったんでしょ?」
そもそもなんで星奈は起きたの?
どう考えたって死んでいたような……いや今は何だって良い。
「呼ぶに決まってるでしょう!? てっきり死んだと思ったんだから! 馬鹿ァ!」
星奈に飛びついて抱きしめる。
心臓が動く音が聞こえるし、体温も高いし、抱き返してくれる。
「生きててよかった! 痛いところない? 食べたいものない? 叔父さんにつれてってもらいましょう! あ、そうだ叔父さんも呼ばなきゃね。無事だったし、救急車の人に説明しないと」
「急いで叔父さん呼んだ方が良いと思う、そろそろ救急車来ちゃうよ?」
「なんであんたはそんなに冷静なのよ! 死にかけたのよ!」
この娘、こんな状況で冷静に私に指示できるような娘だったっけ?
「そう言われたってぇ……お姉ちゃんが慌ててるんだもぉん……せめて私だけでも頑張らなきゃって……」
――いけない、こんなに可愛い妹が私を心配しているんだから、細かい疑問は後にしなきゃ。
「いいわ! あなたはそこで横になってなさい! なにか有ったら大変ですもの!」
「はぁい……」
私は部屋を飛び出した。
*
スマホは相変わらず圏外だ。
救急車のサイレンはまだ聞こえない。
叔父さんの愛車は隣の家の駐車場に停まっている。帰ってきているようだ。
「叔父さん! 緑郎叔父さん! 星奈が大変なの! 医者でしょ!? なんとかして!」
早く来て欲しい。
救急車ももうすぐ来るだろうし、起きたと言っても星奈が本当に平気なのか分からないし、なにより――なにより――あれは本当に――
「さっさと出てきなさーい!」
ドアが開いて眠そうな顔の背の高い大人が現れる。
缶ビール片手に持ったままだし、よれよれのパジャマ姿だし、いかにもだらしない大人だ。
「あぁ……どうしたんだ姪よ、夜勤明けから残業をキメた緑郎叔父さんを呼ぶほどのことなのかな?」
「星奈の心臓が止まったの! 今は目を覚ました!」
流石に『心臓が』と言ったあたりで叔父さんはビールの空き缶を玄関に放り出して動き出していた。
「それを先に言え!」
と、叔父さんは私を置いて家に向けて走りながら叫んだ。
良かった――本当に。
あの人なら、きっとなんとかしてくれる。
だって――。
私は向き合えない。
私じゃ分からない。
私は知りたくない。
起きてきた星奈が、本当に星奈なのか、私には分からない。
なお、結果としてこの時の嫌な予感は正解だった。流石私。
――――ああ、全部、悪い夢だったら良かったのに。
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