怨念の回廊
しがない短編小説家
怨念の回廊
高橋悟、35歳。彼の部屋は、薄暗く、常にパソコンのディスプレイの光だけが、彼の顔を青白く照らしていた。数年前、彼は「社会の敵」だった。些細な発言がネットで切り取られ、歪曲され、瞬く間に「炎上」した。顔写真、実名、勤め先、家族構成。彼の全てが晒され、無数の罵詈雑言が殺到した。会社をクビになり、友人は離れ、家族は崩壊した。彼は、全てを失った。
その時から、悟の心には、深い怨念が宿った。自分を攻撃した不特定多数の「世間」への、そして、炎上の火種を作ったとされる、匿名の情報提供者への、拭い去れない憎悪。彼は、その怨念を抱き続けることだけが、自分の存在理由だと信じていた。
悟は、ネットの闇に潜んだ。匿名掲示板、裏SNS、フェイクニュースサイト。彼は、自らを「正義の番人」と称し、社会に蔓延る「悪」を糾弾することに、生きがいを見出すようになった。政治家の不祥事、企業の不祥事、芸能人のスキャンダル。ターゲットを見つけると、彼は鬼のような形相でキーボードを叩き、憎悪に満ちた言葉を吐き出した。彼の書く文章は、的確に相手の弱点を突き、人々の感情を煽る力があった。彼の書き込みがきっかけで、新たな炎上が起きるたび、悟の心には、冷たい満足感が広がった。
「ざまあみろ…これが世間の怒りだ。お前たちも、俺が味わった苦しみを味わえ。」
悟は、自分が「正義」の執行者であると信じていた。自分を傷つけた「世間」への復讐。そして、かつて自分を攻撃した者たちと同じように、誰かを「社会の敵」へと仕立て上げることで、自分の存在価値を確かめていた。
ある日、悟は、新たなターゲットを見つけた。それは、若手の女性起業家、佐藤美和だった。彼女は、AIを活用した新しい教育サービスを立ち上げ、メディアで注目を集めていた。しかし、そのサービスの利用規約に、一部のユーザーが「個人情報の不適切な収集」と「高額な料金設定」を指摘する声が上がった。
悟は、その声に飛びついた。彼は美和のSNSアカウントを徹底的に調べ上げ、過去の些細な発言や、少し贅沢なライフスタイルを「金儲け主義」「情報弱者からの搾取」と結びつけ、匿名掲示板で猛烈な批判を展開した。彼の書き込みは瞬く間に拡散され、美和のサービスは「炎上」した。
美和のSNSには、悟がかつて浴びせられたような、無数の誹謗中傷が殺到した。彼女の過去の交際歴、家族構成、果ては容姿への攻撃まで。美和は、会見で深々と頭を下げ、涙ながらに謝罪したが、世間の怒りは収まらなかった。悟は、ディスプレイに映る美和の憔悴しきった顔を見て、かつての自分の姿と重ね合わせた。
「これだ…この顔だ。俺も、あの時、こんな顔をしていた。俺を苦しめた奴らも、きっとこんな顔になっていたはずだ。」
彼の心は、復讐を成し遂げたかのような、歪んだ高揚感で満たされた。しかし、その高揚感は、長くは続かなかった。美和が、SNSを完全に閉鎖し、メディアから姿を消した時、悟は、次のターゲットを見つけなければならないという、新たな焦燥感に襲われた。怨念を「消費」し続けることが、彼の唯一の生きがいになってしまっていたのだ。
そんなある日、悟は、ふと、数年前の炎上事件の火種となった、匿名の情報提供者のことを思い出した。あの時、彼の個人情報をネットに晒し、炎上を加速させた「A氏」と呼ばれた人物。悟は、その人物への深い怨念を抱き続けていた。
悟は、残されたわずかな手がかりを元に、A氏の特定を試みた。数日間にわたる執拗な検索と情報収集の末、彼はA氏の正体を突き止めた。それは、驚くべき人物だった。
A氏の正体は、かつて悟が炎上させた女性起業家、佐藤美和の夫だった。
悟は、ディスプレイに映る美和の夫の顔写真と、数年前の炎上事件の際にA氏が使っていた匿名アカウントの履歴を照合した。間違いなかった。美和の夫は、悟が炎上した当時、悟の会社と競合する別のIT企業に勤めており、悟の失脚を狙って匿名で情報を流したのだ。
「そんな…馬鹿な…」
悟は、膝から崩れ落ちた。自分が長年抱き続けた怨念の対象が、自分が今、徹底的に攻撃していた女性の夫だったというのか。そして、その女性は、かつての自分と同じように、不当な攻撃によって全てを失いつつある。
悟は、自分が美和を攻撃することで、結果的に、自分を炎上させたA氏に「復讐」していたのだ。しかし、それは、A氏を直接的に傷つけるものではなく、A氏が愛する妻を傷つけるという、あまりにも回りくどく、そして、あまりにも悲しい復讐だった。
悟は、自分が怨念を抱き、それを燃料に他者を攻撃し続けた結果、何を生み出したのかを悟った。それは、怨念の連鎖だった。自分が受けた理不尽な攻撃の怨念が、新たな怨念を生み、その怨念がさらに別の怨念を生む。彼は、その終わりのない怨念の回廊の中で、ただひたすらさまよい続けていたのだ。
悟の心を満たしていたのは、復讐を成し遂げた満足感ではなく、深い絶望と虚無感だった。彼は、自分の手で、また一人、自分と同じような「社会の敵」を作り出してしまった。そして、その「社会の敵」の怨念が、いつか自分に向けられる日が来るかもしれない。
彼は、パソコンのディスプレイに映る、美和の憔悴しきった顔をじっと見つめた。その顔は、かつての自分の顔であり、そして、未来の自分の顔でもあった。悟は、怨念の回廊の出口を見つけることができなかった。彼は、自らが作り出した怨念のサイクルの中で、永遠に囚われ続けることを知った。
彼の部屋の窓の外には、今日もまた、誰かの怨念が、新たなターゲットを探してネットの海を漂っている。
怨念の回廊 しがない短編小説家 @tanpen_sakka
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