排斥の残滓
しがない短編小説家
排斥の残滓
佐野美咲、32歳。彼女の日常は、スマートフォンの画面に映し出される「不快なもの」との戦いだった。朝、ニュースフィードをスクロールすれば、理解不能な政治家の発言。SNSを開けば、共感できないライフスタイルをひけらかす人々の投稿。美咲は、それらを見るたびに、胸の奥からこみ上げる強い嫌悪感に苛まれた。
「なぜこんなことをするのか、理解できない」「私の常識とはかけ離れている」。美咲は、自分の感情が「正当なもの」であると信じて疑わなかった。彼女の嫌悪は、社会の秩序や倫理を守るための、いわば「正義の感情」なのだと。
特に美咲が嫌悪感を抱いていたのは、SNSで「完璧な母親像」を演じるインフルエンサーたちだった。子供を連れて高級ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを楽しむ写真、ブランドのベビー服を着せた子供との海外旅行、オーガニック素材だけで作った手作り離乳食の芸術的な盛り付け。
「あんなの虚飾だわ。子供をアクセサリーみたいに扱って、本当に愛があるのかしら?」「見栄っ張りも大概にしてほしい。普通の母親は、みんな必死で頑張ってるのよ。」
美咲は、匿名アカウントで、そうした投稿に心ないコメントを書き込んだ。彼女のコメントには、多くの匿名ユーザーが同調し、「よく言ってくれた!」「私も同じことを思ってた!」といった返信が殺到した。そのたびに、美咲の心は満たされ、自分の嫌悪感情が「正当なもの」であると確信を深めた。彼女は、自分と同じ「正義の目」を持つ人々との連帯感に、ある種の高揚感を覚えていた。
美咲の嫌悪の対象は、次第に拡大していった。政治的な主張をするインフルエンサー、特定の趣味を持つ人々、流行に流される若者たち。彼女は、自分の価値観と異なるもの、理解できないもの全てに、嫌悪の目を向け、匿名の空間で攻撃を続けた。美咲は、まるで自分が社会の「毒」を排除するフィルターになったかのように感じていた。
ある日、大学時代からの親友である由紀から、SNSで「子供ができた」という報告があった。美咲は心から祝福した。由紀は、美咲とは違い、いつも穏やかで、誰に対しても優しい女性だった。
しかし、由紀もまた、子供が生まれてから、美咲が嫌悪していた「完璧な母親像」のような投稿を始めるようになった。ベビー服のブランド、オーガニック離乳食、子供の知育玩具の紹介。美咲は、由紀の投稿を見るたびに、胸の奥に黒い感情が渦巻くのを感じた。
「由紀まで、あんな風になっちゃうなんて…」
最初は祝福のコメントを書き込んでいた美咲だが、次第にその言葉には棘が混じるようになった。「そんなに高い服、すぐ汚れるのに勿体なくない?」「手作り離乳食もいいけど、無理しすぎると続かないよ?」表向きは心配を装いながらも、その裏には、由紀への嫉妬と、彼女が「嫌悪の対象」へと変貌していくことへの苛立ちが隠されていた。
由紀の投稿には、美咲が匿名で書き込んだような、攻撃的なコメントも増え始めた。 「子供をダシにして承認欲求を満たしてる」「こんな投稿見て、普通のママは疲れるだけ」 由紀の投稿頻度は減り、笑顔の写真も少なくなった。ある時、美咲は由紀から「最近、SNSで心ないことを書かれて、少し疲弊している」とメッセージを受け取った。
美咲は、由紀からのメッセージを読みながら、胸が締め付けられるような痛みを感じた。自分が匿名で書き込んだ言葉が、由紀を傷つけていたかもしれない。その事実に、美咲は一瞬、自分の行動を悔いた。しかし、その感情はすぐに、「由紀も結局、あの完璧な母親像を演じていただけだ」という嫌悪感に塗り替えられた。
美咲は、由紀に会って話を聞いた。「SNSのコメント、全部見てるよ。由紀らしくない投稿が多いから、みんな心配してるんだよ」と、心配するふりをして、由紀の「完璧な母親像」を演じることへの批判を仄めかした。
由紀は、美咲の言葉に頷きながら、涙を流した。「私も、本当は無理してたんだ。みんなが『いいね!』してくれるから、もっと頑張らなきゃって思って。でも、もう疲れたよ…」 由紀は、SNSの裏側で抱えていた苦労、夫とのすれ違い、育児ノイローゼ寸前の状態を、美咲に打ち明けた。彼女が投稿していた「完璧な母親像」は、実は彼女自身を追い詰める「呪い」でもあったのだ。由紀は、SNSから完全に姿を消した。
美咲は、由紀の苦しみを間近で知り、自分が嫌悪していた「完璧な母親像」の裏側に隠された真実を理解した。そして、自分が匿名で他者を攻撃する「嫌悪の表明者」になっていたことに、深く自己嫌悪を覚えた。
美咲は、自分の匿名アカウントを削除し、SNSから距離を置いた。もう、他者の投稿に心ないコメントを書き込むことはしない。そう心に誓った。
数ヶ月後、美咲は、職場の同僚から「最近、顔色が良くなったね。何かあった?」と声をかけられた。美咲は微笑んだ。「うん、少しSNSから離れたら、心が軽くなったの。」
その日の帰り道、美咲は久しぶりに、何の目的もなくスマートフォンをスクロールしていた。すると、目に飛び込んできたのは、見知らぬ匿名アカウントからの投稿だった。それは、美咲がかつて投稿していたような、他者のライフスタイルを嘲笑し、批判する内容だった。
「あのさ、SNSから離れたら心が軽くなったとか言ってる人、いるよね。なんか自己満足で気持ち悪い。結局、自分を正当化したいだけだろ。」
その投稿には、多くの「いいね!」と共感のコメントが並んでいた。美咲は、そのコメントの一つ一つを読みながら、背筋が凍るような感覚に襲われた。その匿名アカウントが攻撃していたのは、かつての自分、そして今の自分自身だった。
美咲は、自分が嫌悪していた「不快なもの」との戦いをやめたはずだった。しかし、彼女が嫌悪していた「排斥する側」の役割は、別の誰かに引き継がれ、そして、その矛先が、今度は自分自身に向けられていたのだ。
彼女は気づいた。自分が排斥しようとしていた「嫌悪の対象」は、決して消えることはない。それは形を変え、人々から人々へと伝播し、常に誰かを攻撃し続ける。そして、一度「排斥する側」に回った者は、いつか必ず「排斥される側」になる番が来るのだ。
美咲は、スマートフォンの画面に映る、自分に向けられた匿名の嫌悪の言葉を、虚ろな瞳で見つめていた。彼女は、自分が嫌悪を表明し続けた結果、社会から「排斥」されたのではなく、自分自身が「排斥の残滓」として、誰かの嫌悪の対象になってしまったことを悟った。彼女は、その冷たい視線の中で、永遠に自分自身を嫌悪し続けるしかなかった。
排斥の残滓 しがない短編小説家 @tanpen_sakka
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