第7話「心の鎖と偽りの記憶」

 ミモザ村は、今日も平和だった。

 リナは薬草店のカウンターで、薬草の仕分けをしていた。

 隣では、リオネスが楽しそうにその手伝いをしている。

 彼の足はもうすっかり良くなり、松葉杖なしで歩けるようになっていた。


「リナ、この匂いのいい葉っぱはなんだい?」


「それはミントです。お茶にすると美味しいですよ」


「へえ。今度、淹れてくれるかい?」


「……考えておきます」


 そんな穏やかなやり取りが、当たり前の日常になっていた。

 リオネスが村に滞在し始めて、もう一月が経とうとしている。

 彼の告白以来、二人の間には少し甘酸っぱい空気が流れていたが、リナはまだ答えを出せずにいた。

 彼と一緒にいると、心が安らぐ。

 自分が呪われているという恐怖も薄れていく。

 けれど、心のどこかで、まだ拭えない不安があった。


 本当に、大丈夫なんだろうか。私が、幸せになっても……。


 その不安は、彼女の過去に深く根ざしていた。

 リナ――ルナは、物心ついた時から、義理の妹であるセレーネに劣等感を抱いていた。

 セレーネは何をしても完璧だった。

 愛嬌があり、誰からも愛された。

 一方のルナは、人見知りで不器用。

 聖女としての力はルナの方が遥かに強かったが、その強すぎる力は、時に彼女を孤立させた。

 幼い頃、ルナが可愛がっていた小鳥が、彼女の手に触れた直後に死んでしまったことがあった。


『姉様のせいよ。姉様の力が強すぎるから、弱い生き物は耐えられないのよ』


 泣きじゃくるルナに、セレーネはそう囁いた。

 それは、セレーネがルナにかけた、最初の暗示だった。

 それ以来、ルナは自分の力を恐れるようになった。

 人に触れることを避け、誰かと深く関わることを怖がるようになった。

 セレーネは、そんなルナの心の隙間に、巧みに入り込んできた。


『姉様は、その力で人を不幸にしてしまうわ』


『姉様が笑うと、どこかで誰かが泣いているかもしれない』


『姉様は、幸せになってはいけない存在なの』


 毎日毎日、優しい言葉のふりをした呪いを、ルナの耳元で囁き続けた。

 幼いルナは、大好きな妹の言葉を信じ切ってしまった。

 自分は呪われているのだと。

 自分がいるだけで、周りを不幸にしてしまうのだと。

 追放される直前の記憶は、今でも悪夢となってルナを苦しめる。

 あの日は、国王の誕生日を祝う盛大な式典が開かれていた。

 聖女であるルナが、国王に祝福の祈りを捧げることになっていた。


『姉様、このブレスレットを付けて。きっと、今日の姉様をより一層輝かせてくれるわ』


 セレーネは、そう言って美しい宝石のブレスレットをルナの腕にはめた。

 ルナは何も疑わず、祭壇へと進み出た。

 そして、国王の頭に手をかざし、祈りを捧げようとした、その瞬間。

 国王が、苦しみだしたのだ。


「ぐっ……う……!」


 玉座から崩れ落ちる父の姿に、会場はパニックに陥った。


『お父様!』


『陛下! どうなされた!』


 混乱の中、セレーネの悲鳴が響き渡った。


『姉様のブレスレットが……! あれは、呪いの魔道具ですわ! 姉様が、お父様を呪おうと……!』


 全ての視線が、ルナの腕にはめられたブレスレットに集まる。

 それは、禍々しい黒い光を放っていた。


「ち、違う……! これは、セレーネが……!」


 ルナが弁明しようとした時には、もう遅かった。

 民衆の信頼は憎悪に変わり、彼女は偽りの聖女として断罪された。


「……っ!」


 そこまで思い出して、リナははっと我に返った。

 薬草を握る手が、小刻みに震えている。

 冷や汗が背中を伝った。


「リナ? どうしたんだ、顔色が悪いぞ」


 心配そうに覗き込んでくるリオネスの顔に、リナはびくりと肩を震わせた。


「な、なんでもありません……!」


 慌てて笑顔を作ろうとしたが、顔がひきつるのが自分でも分かった。


 だめ。思い出してはだめ。


 あの記憶は、私を縛る鎖だ。

 あの日の絶望を思い出せば、今ここにある穏やかな幸せが、全部嘘のように思えてくる。


「リナ、何か辛いことでも思い出したのか?」


 リオネスの優しい声が、リナの心の壁を叩く。


「もし、何か僕に話せることなら、話してくれないか。君の苦しみを、少しでも軽くしたいんだ」


 彼の真剣な眼差しに、リナの決心は揺らいだ。

 この人になら、話してもいいのかもしれない。

 私の過去を、私の罪を。

 そして、軽蔑されるなら、それでもいい。

 リナが意を決して口を開こうとした、その時だった。

 店のドアが、勢いよく開かれた。


「リオネス殿下! リナ様!」


 息を切らして飛び込んできたのは、王都に残っていたはずの側近、カイだった。

 彼の顔には、ただならぬ緊張が浮かんでいる。


「カイ! どうしてここに!?」


 驚くリオネスに、カイは一枚の羊皮紙を差し出した。


「王都で調べていた件です。殿下、そしてリナ様……どうか、これをお読みください」


 リオネスは訝しげに羊皮紙を受け取ると、リナと一緒にその内容に目を通した。

 そこに書かれていたのは、カイが突き止めた、衝撃の事実だった。

 歴代の聖女に関する文献の記述。

 セレーネの「魅了」の魔法。

 そして、ルナの追放が、全てセレーネによって仕組まれた陰謀であるという、カイの推論。


「……なんだ、これは……」


 リオネスの声が、低く震えた。

 リナは、書かれている内容が信じられず、何度も何度も文字を読み返した。


『聖女の力は、時に邪気を引き寄せ、浄化する……その過程において、厄災が降りかかることあり……』


 私の力は、呪いじゃなかった……?


『暗示の魔法により、聖女自身に不幸を信じ込ませることで、力を暴走させた可能性……』


 セレーネの囁きが、偽りの記憶だった……?


「リナ……」


 リオネスが、リナの肩にそっと手を置こうとして、寸前で止まった。

 彼は、まだリナが人に触れられることを怖がっているのを知っている。


「これは……本当、なの……?」


 リナの声は、か細く震えていた。

 カイは、真っ直ぐにリナを見つめて、力強く頷いた。


「あくまで推論の域は出ません。ですが、現在の王都の状況を考えれば、これが真実である可能性は極めて高い。リナ様――いえ、ルナ聖女様。貴女様の力は、呪いなどではありません。国をお救いできる、唯一の希望なのです」


 希望。

 私が?

 呪われた、偽りの聖女である私が?

 リナの頭は混乱していた。

 今まで信じてきた全てが、足元から崩れていくような感覚。

 心の鎖が、ギシリと音を立てた。

 偽りの記憶が、ガラガラと崩れ落ちていく。


「あ……ああ……」


 リナは、その場に崩れ落ちそうになった。

 それを、リオネスが咄嗟に支える。

 初めて、彼が、リナの体に触れた。

 不思議と、何も起きなかった。

 不幸な出来事は、何も。

 ただ、彼の腕の温かさだけが、リナの全身に伝わってきた。

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