Petrichor

こよい はるか @PLEC所属

Petrichor

 土の匂いがする。

 雨の匂いがする。


 後悔だけが、色濃く残る。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 どこか懐かしい匂いが、私の身体を包み込む。

 安心感とか、喪失感とか、そういうものが一気に押し寄せるこの匂いが、私は好きなのか嫌いなのか、自分でも分からない。


 それでも私はこの匂いに満たされる。


 無機質に立ち並んだビルが私のことを見下ろす。圧迫感があって、濡れたコンクリートを見つめる。

 傘に雨が当たる音が、妙に昔を思い出させる。


 あの日も雨だった。

 匂いが心地良かった。


 心地良かったけど、嫌な日だった。


 五年前、同じような雨の日。

 じめじめした空気なんか気にせず、私は彼氏である修人とのデートを楽しんでいた。


 高校時代に相手から告白され、付き合い始めた。軽い男だとは噂で聞いていたが、実際はそうでもなくほぼ私としかデートをしなかった。

 だから、ちゃんとした人だと思っていた。


 でも実際は、そんなことなくて。


「好きな人できたから、別れて欲しい」


 二十四歳のことだった。


 私も修人も高校と大学を卒業し、仕事に就き、親からの仕送りでなんとか同棲を始めて半年。

 安定した生活を送っていて、これから一、二年も経てば結婚するだろう、そう思えるような充実した幸せな日々だったのに。


 休日のデートの日、私はそう告げられた。

 雨に濡れた冷たいリードが痛かった。


 私じゃ駄目だったんだね。


 八年。八年一緒に過ごしてきた。それなのに、私は貴方の心の中に居られなかったんだ。

 そうだよね? そういうことだよね——?


「……ごめんね」


 私が言えたのは、その四文字だけ。あとの力は全て表情筋に与えた。今できる一番優しい笑顔を作った。君も笑った。「ありがとう」、そう言った。


 これで丸く収まったはずだった。


 その日、私はいつ帰ったか覚えていない。二人で手を繋ぎながら握っていたリードは、気づけば私だけが握っていた。


 家のドアを閉めてリードを外した途端に、私たち二人で飼っていたチワワのリコが、自分の寝床へと向かってトコトコと走っていった。


 私も他の荷物を玄関に置き、リコの方へ歩を進める。


 外に雨がしんしんと降り続く中、くーんと寂しそうな鳴き声が小さく聞こえてきた。ぱっとそちらを見ると、これまた寂しそうな瞳で私を見上げている。

 そんなリコを見ていると私も寂しくなってきて、私はリコを抱き上げた。


「ごめんね……」


 ぎゅっと抱き締めると、小さな温もりが確かに伝わってくる。この雨で私の心は弱ってしまったのだろうか? 温もりにこんなにも安心することなんて、今まで一度も無かったのに。


 いつの間にか涙腺も緩んでしまったようで、気づいたら涙が溢れていた。滑らかな白い毛に一粒、雫が落ちた。


 ——ねぇ。貴方は今、何処に居るの?

 そんな声は届くはずもなく、口に出すこともなく消えた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 相合傘をしていた傘は、流石に彼女に渡しておいた。だからといってコンビニまで歩いて新しくビニール傘を買う気にもなれず、俺——修人は彼女である小雨を振った公園のベンチに座って、時間が過ぎるのを待った。


 しとしとと雨は弱くも絶えず降り続き、俺の髪を濡らした。


 どれほどの時間が経っただろう。そう思ってスマホの電源をつけると、既に夜中の一時を回っていた。俺は喪失感に背中を押されるように、もう最後になるだろう帰路につく。


 できるだけ大きな音を立てないように家のドアを開けた。小雨は寝るのが好きで朝にも弱いので、よっぽどのことをしなければこの夜中に目を覚ますことはない。

 今のうちに、俺はできるだけの荷物を持ってこの家を出る。


 自分の部屋、リビング、ダイニング。もともと俺の所有物だったものを手当たり次第に大きなリュックへ入れていく。

 その作業を十分くらいするだけで、俺は実家に帰れば生活に困らないように荷物をまとめ終えた。


 もう何も心残りはないと部屋に背を向けたものの、なんだか頼りなくて後ろを振り向く。すぐそこの寝室はドアが開いていた。


 抜き足差し足で寝室に入ると、小雨の規則的な寝息が聞こえてきた。でもその目元は赤く腫れている。きっと俺のせいだ。

 抱き枕代わりに使われているリコも目を閉じている。


 いつも通りのはずなのにこれからいつも通りにさせないようにしたのは、俺だ。

 俺だから、俺が悲しむ筋合いも理由もない。


 なのになんだかあの二人を見ていると涙が溢れてきそうで、俺は上を向く。


『この照明よくない?』

『いいんじゃね? これにするか』


 此処の近くの電気屋で、寝る時の色が良いねと話をして買った照明が映る。今日もいつも通り、小さな小さな光で寝室を照らしている。

 俺は静かに流れてきた涙を手の甲で拭い、今度こそと部屋を出た。


 ——病気。


 俺は病気だ。


 それも原因不明、名前もついていない。百万人に一人がなる病気。

 ふとした瞬間に意識を失うものだ。


 それ以外の症状は何もない。最初は、一か月に一回程度。どんどんと頻度が高くなっていき、間隔が五分になった時点で命を落とすというものだ。


 理不尽すぎるだろ?


 俺はこの生活を満喫していた。幸せな日々だった。この時間がずっと続くと思っていた。少ない給料で結婚指輪だって買った。


 ——なのに、何だよ? 俺から全部奪うってか?

 馬鹿にしてるのか。


 初めにこの病気が発覚した時から、既に半年が経っている。今までは実家に帰るとか飲み会があるとか、そんな適当な言い訳で誤魔化していたが、もう意識を失う間隔は五日になっていた。


 それを病院に言ったところ、「今すぐ入院してください」だと。


 どうせ短い命だ。

 もし結婚したって、小雨も奈落の底に落ちるだけ。

 だったらいっそ、捨ててしまえば良いと思った。


 もちろん振るのだって辛かったよ。『好きな人できた』? 笑わせるな。俺はあんな言葉を発したが、今すぐにでも抱き締めて『愛してる』と言いたかった。


 でも、これしか無かったんだよ。俺に為す術は。


 家にあった紺色の自分の傘を差して、雨を遮る。しつこいものだ。長すぎる。


 さぁ、もうあの家ですることは無くなった。


 無くなった。


 実家に顔でも出しに行って、昼頃には病院に行こう。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 いつの間に泣き疲れて眠ってしまったのだろうか、目を開くと朝だった。「おはよう」と言おうとした唇が閉じる。

 隣に修人が居ないことが何とも違和感だ。


 部屋を見回すと、いつも彼が使っていたものが全て無くなってしまっている。

 本当なんだと悟る。


 疲れの残る腕を伸ばし、テーブルの上に置いてあるスマホを手に取った。


『今電話いい?』


 早朝五時半。普通の人だったら迷惑がる時間でも、あの人は応えてくれる。


『むしろ話したい』


 そう返信が来たのを確認したそのすぐ後に、メッセージ画面は電話応答画面へ切り替わった。上に書かれているのは、「璃子」の文字。璃子は職場の同僚だ。いつでも話を聞いてくれる、面倒見の良い人である。

 リコと名前が重なってしまったのは、リコと名付けたのが修人だったからだ。


『今度はどうした、彼氏にでも振られた?』


 開口一番に、その言葉。

 いつもこの揶揄いは電話の最初にされるけれど、今回ばかりは本当に璃子には敵わない。


「うん」


 何の躊躇いもなくそう返すことができた。


『え、がちで?』

「がちで」


 私だって信じられないよ。


 修人がどうしようもなく好きだった。しっかりと私も彼からの好意を感じていた。

 なのに、『好きな人できた』? ……そんな簡単に人を好きになるような人だったっけ。


『いつもと同じで揶揄おうと思ったのにまじなのかぁ……』


 璃子もいつもの小さな相談事とは訳が違い、困惑しているようだ。


「……しっかり話したいから、今日会えない?」

「めちゃめちゃ会える」


 日本語になっていない日本語で返された私は、時間と場所だけ言って電話を切る。

 彼が居なくなった今、張り切ってお洒落する意味もないので、必要最低限のお化粧だけして家を出た。




「リコを飼って欲しい」


 近くのファミレスで二人分のドリンクが来て店員さんが去った瞬間、私は言った。


「……は?」

「璃子も知ってるでしょ? 私と修人で犬飼ってたの」

「……もちろん知ってるけど」

「飼って欲しい」


 私だって色々考えたのだ。


 同棲しようと話が決まってから、ずっと犬は飼おうねと決めていた。デートのたびにペットショップに行って、ああでもないこうでもないと言って歩いていたところで見つけたのが、まだ名前のないリコだった。


 そんなリコと一緒に過ごしてきて半年弱。絆を感じてきた頃だった。


 でも流石に精神的にきつかったのだ。リコの寂しそうな瞳を見ると、どうしても修人を思い出してしまう。修人を考えてしまう。


「——分かった」


 数分の間考えた末、璃子はそう口にした。


「小雨が必死に考えた答えがそれなんでしょ? なら私は応援するよ」


 璃子は呑み込みが早くて助かる。

 そんなこんなで、ケージや犬を飼うのに必要な諸々を預けて、璃子と別れた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 同時に共に過ごしていた人が、犬が、居なくなった。


 喪失感ばかりに駆られる私は特にすることもなく、ベッドでゴロゴロするばかり。


 生気のない私を見て察してくれたのか、会社には璃子が上手いこと言ってくれているらしいので、私は暫くの間会社を休んでいる。


 今が朝なのか夜なのか分からないまま惰眠を貪り、大体一週間が経った時のことだった。


 私はどこからか物音がして目を覚ました。真夜中だったから、暗すぎて何も見えない。

 まさか修人が帰ってきた? そんな淡い期待を持ってベッドから起き上がると。




 そこには全身黒ずくめの女がいた。




「修ちゃんの彼女の……コサメ、っていうのは貴方ね?」


 見知らぬ人が家の中に居るだけで怖いのに、その女は私に凶器を向けている。あぁ、終わったんだなと悟った。

 もう心の中でさえ、あの名前を呼べなかった。


「フフ、やっと鬱憤が晴らせるわ」


 その後のことは、知らない。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 無機質な白い病院の個室で、俺はすることもなくテレビばかり見ていた。


 人気の俳優のバラエティやドラマ、暇を弄びすぎて久しぶりの戦隊ものやプリキュアまでもを見る事態となってしまった。


 そして巡り巡って、朝の情報番組へ戻ってくる。


 東京の動物園でパンダの赤ちゃんが生まれただとか、そろそろ梅雨が明けるだとか、そんな心底どうでも良くなってしまったニュースが耳を通り過ぎる。

 面白い番組ないかな、とリモコンを手に取ろうとした、その時だった。


『ここで速報が入ってきました。えー、昨日午後十一時頃、東京都の一戸建てで殺人事件が起きました。被害に遭ったのは三浦小雨さん、二十四歳で……』

「……は?」


 みうら、こさめ。

 間違いなく、俺が少し前まで付き合っていた彼女の名前だった。


 外はまた雨が降り出したようだが、その音は今の俺の耳には入らない。感情なんか微塵もない声でそのニュースを語るアナウンサーへしか意識が向かなかった。


『三浦さんは一回の寝室で眠っており、ベランダの窓が開いていたところ侵入され、刃渡り二十センチほどのナイフで殺害された模様です』

「——嘘だろ?」


 何でこのタイミングなんだよ。何で俺が居なくなってからなんだよ。もう少し、もう少しだけ早ければ助けられたかもしれないのに。

 結局神様なんてこの世に存在しない。いたとしても、俺の願いなんか何も叶えてくれない。


 なぁ、神様。

 俺は何か悪いことをしましたか?


『当時周辺を徘徊していた馬酔木あせび菜乃葉なのは容疑者が警察署へ自首し逮捕、現在警察で捜査が進められています』


 その容疑者だと語られた名前にも、聞き覚えがある。


 中学、高校、大学と絶えず関わりを無くさず、俺への好意も途絶えさせなかった女子の名前だった。


 ——だから何だよ! 俺は何かお前に悪いことしたかよ!!


「あああああああぁぁぁっ!!」


 力の限りに叫んで握りこんだ拳を布団に叩き付ける。俺はただただ、小雨と幸せな日々を過ごしていただけだ。結婚したいと思っていただけだった。馬酔木に直接嫌いだとか悪口とかは、断じて言っていない。


 ……なのに何が悪かったよ?


「どうなされましたか~!」


 俺が暴走状態になったと考えたのか、俺の個室が開け放たれ三人ほどの看護師が入ってくる。


「あぁっ、あああ!!」


 それでも俺の叫びは絶えることはない。


 人生で一番後悔した瞬間だった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、五年。


 ちょうど五年が経った。


 入院中だったからもちろん小雨の葬儀にも行けず、小雨の両親にわざわざ病室まで足を運んでもらってしまった。


 俺は二十九歳。あの日、小雨のニュースが報じられた日から、俺の意識を失う間隔は変わっていない。


 取り敢えず経過観察、ということで俺は今、家にいる。

 もちろん実家だ。


「修人ー」


 俺の部屋の外からそんな声が聞こえてきて、「はいはい」と返事をする。入ってきたのは母親だった。


「掃除してたら出てきてねぇ。五年前から保管してたんだけど……」


 母親が俺に差し出したのは、一つのメモだった。


「小雨さんの遺族さんが持っていたらしいんだけど、要らないからって渡されて」


 そこには、『困ったらここ、璃子の電話』という小雨の遠慮がちな文字と、一つの電話番号。

 そういえば昔、小雨が仕事の話をする時にこの名前を口にしていた気がする。


 ここに電話をかければ何か変わる気がして、俺は次の日の朝に電話をかけた。


 なんと、今まで面識のみならず名前までも知らなかったのに、璃子さんは二コール目で応答した。


「……どちら様でしょうか?」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 その日の昼にはかつて小雨と共に住んでいた街に行き、生まれて初めて璃子さんと会った。

 小雨の同僚だったそうだ。


「一つ、提案があるのですが」


 小雨と同僚ということは俺と同い年の筈なのに、そんなことを微塵も感じさせないような元気なポニーテールをした璃子さんは、そう言った。


「なんでしょう」

「うちのリコを、飼って頂けませんか」

「——はい?」


 あまりに突然の提案すぎて、俺はそんな失礼なイントネーションで返してしまう。


「実は、小雨が修人さんに振られた時点で、私に飼ってと言われたんです」


 そこから色々な話を聞いた。


 俺が彼女を振った後の状態。会社に行けなかったこと。リコを璃子さんに渡したのが、璃子さんが小雨に最後にあった日だということ。


「なのでぜひもう一度、修人さんのもとで飼って頂きたいんです」

「……喜んで」


 もう、腹は決まっていた。


 きっと小雨は必死に考えて、璃子さんにリコを預けたのだ。

 そうして命が継がれてきたのに、こうした提案をされて断るわけがなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 俺と璃子さんが話をしたファミレスから出ると、雨が降っていた。俺は紺色の傘を差す。

 徒歩十分程のところに、璃子さんの家はあった。


「失礼します」


 何の変哲もないただのアパートの部屋だけど、しっかりと掃除されているのがわかる。

 俺は璃子さんに先導され、一つの部屋に入った。


「こちら、リコです。あの頃よりは流石に歳をとってしまいましたけれど、変わっていないでしょう?」


 俺たちが二人で飼っていた頃と変わらないケージの中にいたのは——、




 少しだけ歳をとったように見える、でもまだ元気そうなリコだった。




 リコは俺と目が合うと、嬉しそうに尻尾を振った。寂しそうだった目に輝きが戻っていく。


「リコ!!」


 俺はその名前を、出せる限りの大声で呼んだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 突然ですが皆さん、雨が降る前、もしくは雨が降り出した時にする懐かしいあの匂い、名前がついていたのを知っていますか?


 そう、修人さんと歩いている今もあの匂いがします。


 修人さんも雨の匂いにはたくさんの思い出があるのでしょう。先ほどから複雑な表情をされております。私、璃子にも当然ながら楽しい想い出と苦い想い出があるのですが。


 さて、そんな前置きは良くて、答え合わせです。


 あの懐かしい雨の匂い、土の匂い。



 その名前は、




 petrichorペトリコールです。

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