第19話 静寂の紅茶、動き出す運命
部屋の空気が落ち着きを取り戻した頃、ようやく三人は深く息をついた。
ミレイユが階段を下りていく足音が遠ざかり、二階の部屋には、短い沈黙と、湯沸 かし器の金属が冷える微かな音だけが残った。
アストレア家が襲撃されてから、初めて迎える“安全な時間”。
だが、それは次の決断へ向けた、ごく僅かな猶予。
ヘルマンはベッドに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「さて。腹を落ち着かせてから、次の話だ」
クラリスは部屋の隅に置かれていた簡素な湯沸かし器と、茶器一式に気付いた。
ミレイユが運ばせたものらしい。
「……カレン。紅茶を入れていただけますか」
カレンはすぐに頷いた。
「承知いたしました」
やかんに水を張り、火を点ける。
火力を見極めながら、必要な温度を頭の中でなぞる。
茶葉の量、蒸らしの時間。
その手つきは、アストレア家の屋敷で身につけたもの。
訓練ではなく、クラリスと過ごす日々の中で、染みついた動き。
湯が静かに沸き、茶葉がポットの中で膨らむ。
カップに注がれた琥珀色の液体から、落ち着いた香りが立ち上る。
クラリスはカップを受け取り、一口だけ口に含んだ。
「……カレンの紅茶。少し懐かしいですわね」
ヘルマンもカップを手に取る。
「これから戦いが控えてるなんて忘れちまうな。天国だ」
扉のところでもたれていたミレイユが、半ば呆れたように肩を揺らした。
「あんた、本当にDOLLかい? 手際が良すぎるよ」
カレンは一瞬だけ視線を伏せ、それからまっすぐミレイユを見た。
「……わたしはDOLLではありません。わたしはカレン、クラリスお嬢様のメイドです」
クラリスはカップを両手で包み込みながら、静かに目を伏せた。
「そうですわ。カレンは、わたくしのメイドです」
ヘルマンはカップを飲み干し、静かに置いた。
「言葉にすると、案外残るもんだな」
紅茶の香りが落ち着きを取り戻させる一方で、窓の外の街は少しずつ騒がしくなっていった。
路地のざわめきと蒸気の音が、薄い壁越しに伝わる。
やがて、ミレイユが壁に背を預けたまま口を開いた。
「──で。本題に入ろうか。あんたら、どこまで情報を持ってる?」
ヘルマンが眉をひそめる。
「何のだ」
「今の連邦貴族議会、黒系会派の連中の動きさ。……あいつら、また変なことを始めてるって噂だよ」
ミレイユはポケットから紙切れを取り出し、机の上に置いた。
市場で拾ったらしいメモと、粗い印刷のビラ。
「“第二世代DOLL計画”。そんな名前が出回ってる。帝国から奪った技術を、自由連合経由で、今度は黒系が引き継いでるってさ」
クラリスはカップを静かに皿に戻した。
「第二……」
ヘルマンは紙片に目を走らせる。
「デマにしちゃ、用語が具体的すぎるな」
ミレイユは肩をすくめた。
「ゼロタワーに“核心部データ”が残ってるって話も一緒に出てる。あそこを抑えたやつが、次の戦争を起こすってさ」
ヘルマンは短く舌打ちした。
「……やっぱり死んじゃいねぇか、あの塔は」
クラリスは窓の外を見た。
境界の街は、無関心な顔で朝日を迎えていた。
その無関心の向こうで、国が静かに沈んでいく光景を想像する。
ミレイユがヘルマンを見た。
「ヘルマン。あんたが逃げた“あの塔”は、まだ仕事を終えてないってことだよ」
ヘルマンはカップの底を見つめたまま、低く答えた。
「分かってる。……分かってるさ。だが、行くしかねぇ。連邦の国民を、またあの地獄に放り込むわけにはいかねぇ……それに、嬢ちゃんの家族のためにもな」
クラリスはカップから手を離し、膝の上で指を組んだ。
指先に力を込めすぎないように、意識して力を抜く。
「わたくしは……もう覚悟は決めております」
ヘルマンとミレイユの視線が、自然とクラリスへ集まる。
「父上が守ろうとしたもの。お母さまが遺した言葉。それらから、目を逸らすわけにはいきません」
カレンは静かにクラリスを見た。
その瞳に、わずかな揺れが映る。
何かを確認するような、ほんの短い沈黙。
「……同行します。クラリスお嬢様のために。アストレア家のために」
カレンは今までにない強い言葉とともに、クラリスを見つめる。
クラリスはその言葉を聞き、視線を落とし、もう一度ゆっくりと上げた。
クラリスとカレンの視線が交差する。
「ありがとう、カレン」
ミレイユはそのやり取りを見て、短く息を吐いた。
「……ああ、こりゃ本気ってことだね。ゼロタワー行きの支度、できる範囲で手伝ってやるよ」
ヘルマンが眉を上げる。
「助かる。装備の調整と、地図の確認が要る」
「わかってる。あたしのところをタダで使えると思わないことね。戻ってきたら、ちゃんと話を聞かせてもらうから」
「命が残ってたらな」
ミレイユは口の端をわずかに上げた。
「そういう顔をしてるやつの方が、生き残るさ」
窓の外の空は、灰色の輝きが拡がりつつあった。
境界の街の上に、薄い光が落ちる。
だが、その光はどこか色を失っているように見えた。
クラリスは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
遠くに見える防壁の向こう側には、アルブレア連邦の領土が続いている。
ゼロタワーは、その防壁から20キロほど離れた場所に立つ。
そのさらに奥に、目標地、白都アルブス。
「ヘルマン」
クラリスは振り返った。
「ゼロタワーへの道を、教えてくださいませ」
ヘルマンは頷いた。
「地図がいるな。危険な道だが、近道もある。……嬢ちゃんが本気なら、全部話す」
ミレイユが立ち上がり、扉に手をかけた。
「気がはやるのも分かるけど、一度寝ろ。頭が回らないうちに決める話じゃない。昼になったら工房に来な。地図も装備も、その時に用意しておく」
ヘルマンはカップを持ち上げ、残った紅茶を飲み干した。
「了解だ」
扉が閉じ、部屋に静けさが戻る。
クラリスはベッドの端に腰を下ろした。
カレンはその少し離れた場所に立ち、窓の外を見守るように視線を向けている。
外のざわめきと、室内の静けさ。その両方の音を聞き分けながら、クラリスは目を閉じた。
ゼロタワー。
父と母の遺したもの。
アストレア家の名。
それらを胸の内で一度だけ並べ、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……わたくしたちは、前へ進みますわ」
誰に聞かせるでもない声。
カレンはその小さな声を聞き取り、無言で頷く。
進むと決めた以上、立ち止まる理由はなかった。
境界線都市メル・シェードの朝は、ゆっくりと進んでいく。
その中心で、三人は同じ方向を見据え始めていた。
合図は、静かに届いた。
(つづく)
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