第8話 屋敷の夜気に潜むもの

 朝の光は白く、食堂の壁に淡い影を落としていた。

 テーブルには白いクロスが敷かれ、磨かれた銀器が整然と並び、湯気を上げるカップがひとつ置かれていた。


 カレンが給仕用のカートを押し、静かに扉を開けた。

 歩みは滑らかで、これまでの訓練で覚えた動きがようやく身体に馴染み始めていた。


 クラリスは本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。


「おはようございます、カレン」


「おはようございます。朝食をお持ちしました」


 カレンは皿を置き、角度を整え、姿勢を正す。

 その一連の動作には無駄がなく、穏やかな朝の空気に自然と溶け込んでいた。


 クラリスは紅茶を手に取り、静かに言う。


「ええ……本当に綺麗な所作になりましたわね」


 カレンは丁寧に腰を折り、頭を下げる。


「はい。ありがとうございます」


 返事にはまだ硬さが残るが、人の対話に近い響きが少しずつ感じられるようになった。

 クラリスはそれ以上言葉を足さず、静かな空気が二人の間にゆっくりと広がった。



 カレンの視線が、窓の外へわずかに移った。

 いつもとは違う一瞬の気配。

 庭の奥、外壁沿いに黒い影がひとつ横切った。

 歩幅が一定ではなく、屋敷の者とは動きが違っていた。


 報告すべきか迷ったが、判断がつかず、そのまま言葉を飲み込んだ。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残った。


 

 昼前になると、屋敷の空気がゆっくりと変わっていった。

 使用人の足音が普段より速く、廊下を行き交う声は抑えられ、すぐに途切れた。


 カレンは廊下を歩きながらその変化の一つひとつに気づいていたが、それが何を意味するのかは理解できなかった。

 ただ、普段とは違うという、確信。


「……何かが違う気がします」


 漏れた言葉に、クラリスが振り返った。


「ええ。今日は少しだけ、落ち着きませんわね」


 クラリスの表情は変わらず穏やかだが、その声音にはわずかな緊張が漂っている。


 午後、玄関のほうから馬車の音が届いた。

 馬の足取りは重く、止まった位置も浅い。

 いつもの配達とはどこか違う雰囲気。


 使用人が封筒を受け取る。

 黒い封筒に、金の蝋印ろういん


 カレンは封筒をクラリスの机に届けた。

 クラリスはそれを一瞥しただけで、封を開けなかった。


「中身は……確認されますか?」


 クラリスは静かに首を振った。


「いいえ。その必要はありませんわ」


 それだけ言うと視線を落とし、そのまま短い沈黙が落ちた。

 室内に重い空気が流れる。


 カレンには、その沈黙の理由は分からなかった。

 ただ、胸の奥にかすかな不安が残った。


 

 夕刻、日が傾き、廊下に長い影が伸び始めた。


 食堂で片付けをしていたカレンの耳に、庭の外から複数の足音が届いた。

 歩幅は一定、金属が触れるような音が混ざり、屋敷の者の気配とは明らかに異なっている。


 動きを止め、静かに窓へ近づく。

 塀の外側を複数の影が静かに通り過ぎていく様子が目に入った。

 には、アストレア家の徽章きしょうがどこにも見えなかった。


 クラリスは食堂の入口に立ち、その影が消えていく方向を黙って見ていた。


「気づいていますわね、カレン」


「はい……外で何かが動いています」


 クラリスはゆっくりと頷いた。


「けれど、今は様子をみましょう。まだ――この日常は終わっておりませんもの」


 声は穏やかなままだったが、その穏やかさが逆に胸の奥へざわつきを増幅させた。


 カレンは、黙ったまま頷いた。

 何が起こっているのかは分からない。

 ただ、落ち着かない感覚だけが残った。



 夜が深まるにつれ、屋敷の静けさは濃くなっていった。

 廊下のあかりは必要最低限だけがともり、床の白い石が淡く光を返している。

 カレンは巡回を兼ねて屋敷内を歩き、夜気やきの変化がゆっくりと肌に触れるのを感じていた。


 屋敷の外からは、風の音に紛れて何かが混じっていた。

 規則性のない靴音。

 草を踏む、乾いた響き。

 外壁に沿って移動する微かな気配。


“……数が増えた?”


 カレンは歩みを止め、廊下の窓から庭を覗いた。

 灯りの届かない芝の向こう、

 外壁沿いに複数の影がゆっくりと移動している。

 装備らしい光沢が、闇の中で瞬きのように反射してはすぐに消えた。


 歩幅は不規則、しかし目的のある動きに見えた。


「……敵接近?」


 呟きは、ごく小さな吐息のように落ちた。

 考えようとしても、理由に辿り着けない。

 けれど、胸の奥がざわつき、

 それが“危険”だとだけは認識できた。


 屋敷内の空気も変わっていた。

 使用人の動きはすでに途絶え、部屋の扉はどれも閉まっている。

 昼間のざわめきは完全に消え、静けさだけが廊下に張りついていた。


 カレンは深く息を吸い、夜気の温度と音を確かめるように目を細めた。


 庭の奥で、影がひとつ、ふたつと増えていく。

 声はない。

 だが、それぞれが屋敷の“どこか”を見ている気配があった。


「……目的不明、観察継続」


 誰に向けるでもなく、そのまま言葉が落ちた。


 判断材料が足りない。

 けれど、動かずに見ていれば何か掴める気がした。


 カレンは窓辺から離れ、一度自室へ戻ることを選んだ。

 装備を整える必要があるかもしれない。

 何かが起きる前に、準備だけはしておくべきだと――

 それだけは迷わずに理解できた。


 廊下の灯をひとつずつ確認しながら、カレンは自室へ戻った。

 扉を閉めた瞬間、外の足音が壁越しに微かに響く。

 深夜の屋敷には、本来あり得ない種類の緊張が漂っていた。


 カレンは棚の最上段に置かれた木箱を取り出し、留め金を静かに外した。


 大戦時から愛用の改造ショットガン、ブレイカーⅡ型M-77。

 クラリスから預かったW44式近接銃。


 カレンは息を整え、手入れ用の布を広げる。


 銃身の温度、薬室の摩耗、ばね圧の変化――

 かつて身体に叩き込まれた確認手順が、今も抜けていなかった。


「ブレイカーⅡ型……異常なし。W44……作動域、問題なし」


 独り言は、どこか軍務日誌のような乾いた調子だった。

 一瞬、DOLL部隊の記憶が脳裏をよぎる。


 暗闇を裂く光。

 銃身の反動。

 崩れ落ちる影。

 血と煙の匂い。


 カレンの呼吸が乱れ、視界が細くなる。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「カレン。入ってもよろしくて?」


 クラリスの声。


 カレンは驚きで動きを止め、すぐに布をたたみ、銃器を箱へ戻した。


「どうぞ、お嬢様」


 扉が開くと、薄い外套を羽織ったクラリスが立っていた。

 普段と変わらない穏やか表情だが、目元はわずかに強張っている。


「外は……まだ動きがありますの?」


「はい。退く気配はありません」


 クラリスは部屋へ入り、窓の方へ視線を向けた。


「恐らく――貴族議会の“黒系”の者たちですわ」


「黒系……?」


 カレンは聞き覚えのない言葉に眉を寄せた。


 クラリスは静かに続ける。


「議会には、白系と黒系がございますの。このアルブレア連邦に規律をもたらし、平和に導こうとする白系。過去の帝国主義を復活させ、覇権国家を目指そうとする黒系。あれは恐らく、“黒”の派閥の者たちですわ」


「お嬢様に……敵意が?」


 クラリスは首を振った。


「いえ。わたくしではなく――父に対して、いえ、アストレア家に対してですわ」


 クラリスは短い息を吐き、ほんのわずかだけ肩を落とした。


「明日、父上にすべてお話ししますわ。この屋敷の周りで何が起きているのか……誰かが知らせなければなりませんもの」


 その言葉は静かだが、芯があった。

 それだけで、事態が簡単なものではないと分かった。


 カレンは一歩前へ出て、言った。


「……お嬢様。今日は、ここでお休みください」


 クラリスは驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな表情へ戻った。


「わたくしが、あなたの部屋で?」


「はい。わたしのこの部屋は二階の角部屋。外の気配が最も把握しやすい位置です」


 クラリスは窓の外へ視線を走らせ、外套の前を小さく握る。

 手の震えを隠すかのように。


「……そうですわね。では少しだけ、お世話になりますわ」


 クラリスはベッドへ向かい、躊躇いとまどいがちに布団へ身を沈めた。

 枕に顔を寄せた瞬間、緊張がわずかにほどけたように見えた。


「カレン……あなたの匂いがしますわね」


「申し訳ございません。消毒と洗浄液の匂いが残っているのだと思います」


「いいえ。落ち着きますのよ」


 クラリスの言葉は低く、その声には疲れの色が混ざっていた。

 カレンが聞く、初めての声音こわね


 カレンは窓辺に立ち、外の影を確認した。


 遠くで軍靴の音。

 外壁沿いで、灯りを消した人影が移動していく。


 カレンは息を整え、独り言のように呟いた。


「……外周警戒、継続。動向監視、標準距離。接近時、判断保留……」


 軍務時代の報告の癖。

 しかし、その声には、あの頃にはない震えが混ざっていた。


 クラリスが布団の中から囁く。


「カレン。そんなに緊張しなくていいのですよ」


「……はい」


 カレンは、再び木箱を開き、ブレイカーⅡ型を手にする。

 W44を上肢のホルスターにセットし、臨戦態勢を整えた。

 しばらくして、クラリスの寝息が聞こえてきた。


 外の足音が増え、風の向きが変わる。

 白い夜気の中、屋敷は静かに時間を刻む。

 しかし、その周りは確実に包囲されつつあった。


 カレンは窓の外を見つめ続けた。

 守るべき人がすぐ後ろに眠っている。

 それだけが、理解できた。


 

 ――この時すでに音もたてず“崩壊”が始まっていた……



 その前兆は、三日前の夜から積み上がっていた。



(つづく)

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