カルアミルクと、秘密の特訓の日々

 教室の距離

体育館の熱

 翌日から、桧山直樹と羽村愛華の関係は、クラスメイトたちには知られることのない、「秘密の共犯関係」へと変貌した。


昼休みの教室

 直樹は、クラスの隅で友人たちと騒いでいるフリをしながらも、愛華の動向を常に目で追っていた。

 愛華はいつも通り、窓際の席で静かに文庫本を読んでいる。

その背表紙は、昨日、体育館裏で見せた分厚いロシア文学ではなく、日本の古典文学だった。

 彼女の日常は、まるで何も変わっていないかのように、優雅に、静かに流れている。

しかし、

放課後になれば、状況は一変した。


 部活の練習が終わり、チームメイトたちが疲労と敗北感にまみれて帰路につく中、直樹は、皆に気づかれないように体育館裏へ急いだ。

 愛華はいつも、そこに立っていた。カバンを傍らに置き、制服から体操着に着替えるわけでもなく、ただ静かに、直樹が持ってきたバスケットボールを待っている。

「遅い!残り時間が惜しいわ」

 愛華は、腕時計を見て、手厳しい一言を浴びせるのが常だった。

 直樹は、そんな彼女の真剣さに、プロローグで感じた「苛立ち」ではなく、「敬意」を感じ始めていた。

「よし、始めるわよ。今日のテーマは『情熱を精密な技術に変える』こと」


体育館が使えない日は、二人は市の外れにある、古い公園のコートに向かった。

 そこは街灯もまばらで、人気も少ない。愛華は、その暗がりの中で、直樹のフォームに鋭い視線を向けた。

愛華の観察眼と、

 ダンキシュートの情熱

愛華は、バスケ経験者ではなかった。


 しかし、彼女の指摘は、バスケ部の顧問や先輩たちよりも、はるかに的確だった。


「桧山。君のシュートは、いつも最後、指先まで情熱が届いていない。手首の返し(スナップ)が甘い。ロングシュートは、ただ力任せに投げればいいわけじゃない。ボールに、君の意志を正確に伝達する、精密機械のような動作が必要よ」


「でも、遠いんだ。ハーフコートからだと、どうしても力が入っちゃって…」

直樹は息を切らしながら訴える。


「違う。力じゃなくて、慣性よ。君の全身の動きを、最後に指先に集中させる。1, 2, 3, ジャンプ!の、その『ジャンプ』の頂点で、手首を返す。それは、ただの熱意ではなく、確かなダンキンシュートを決める時のような、静かで、燃えるような集中力よ」


彼女の言葉は、まるで彼の体の中の回路を見透かしているかのようだった。

 ある日、直樹が何十本目かのシュートを外し、悔しさに声を上げそうになった時、愛華は静かに言った。


「君のシュートは、連敗の痛みを覚えたヘビメタのドラムみたい。音が大きすぎて、リズムが狂っている。必要なのは、もっと洗練された、ソウルミュージック。静かに、深く、心の奥底に響くようなリズムよ」

 直樹は、彼女の言葉に、いつも文学的な比喩が多く含まれていることに気づいた。

彼女の「観察」は、単なる動きのチェックではない。直樹の精神状態と、技術を、一つの物語として読み解いているのだ。

「羽村は、どうしてそんなに分かるんだ?まるで、プロのコーチみたいだ」


 直樹が尋ねると、愛華はいつものように、目を伏せ、少しだけ微笑んだ。

「小説家はね、登場人物の全ての行動を、その動機から結末まで、計算するの。君というキャラクターの『挫折と再起』のストーリーを、私は今、目の前で観察し、構成しているだけ」

 その言葉を聞いて、直樹は全身に鳥肌が立った。

 愛華にとって、この特訓と賭けは、彼という「物語」を完成させるための、壮大な実験なのだろうか。しかし、その実験に、直樹自身も心から惹きつけられていることに気づき、彼は戸惑った。


星空と、

遠慮なく愛されるカルアミルク

特訓が始まって二週間

 直樹の体は、限界を超えて疲弊していたが、彼のロングシュートの成功率は、目に見えて向上していた。シュートがリングに吸い込まれる時の、あの乾いた快感。

直樹は、久しぶりに「勝つことへの純粋な喜び」を感じ始めていた。

 その日の夜も、二人は公園のベンチで休んでいた。


直樹は、汗を拭きながら、夜空を見上げていた。

「なぁ、羽村。君は、なんでそんなに、カロリーとか、甘いものを気にするんだ?」

 直樹は、愛華がいつも、自分が買ったジュースやエナジードリンクを頑なに拒否し、魔法瓶に入れたカルアミルク(ノンアルコール)を一口飲むだけなのを知っていた。


 愛華は、持参した魔法瓶の蓋を開け、匂いを嗅いだ。

「賭けをしている間は、自分を律したいの。甘いものに溺れると、気が緩む。そして、…何よりも、君の成功を、一番甘いものとして味わいたいから」

 彼女の、一見クールな発言の中に、直樹への期待と、彼に対する彼女自身の抑えきれない情熱のようなものを感じ、直樹の鼓動は早くなった。


「俺が、もしロングシュートを決めて、勝利したら。君は、俺のしたいことを一つ叶えてくれるんだよな」 「ええ。約束した」

直樹は、勇気を振り絞った。

「じゃあ、俺は、君に、遠慮無く愛されたい」

 愛華は、魔法瓶を置いた。夜の公園の冷たい空気の中で、彼女の顔が、わずかに紅潮したのが分かった。


「……それは、どういう意味?」


「そのままの意味だよ。この特訓が始まってから、俺、ずっと考えてたんだ。君は、俺のことを、ただの『観察対象の登場人物』として見てるだけなのか、って。でも、俺は…羽村のことが、気になって仕方ない。ロングシュートを決めたら、ただの友達じゃなくて、もっと特別な関係になりたい」

直樹は、自分の率直な言葉に、顔が熱くなるのを感じた。

 愛華は、しばらく沈黙した後、夜空を見上げた。その瞳は、何か遠い過去を思い出すかのように、揺らめいていた。

「…直樹。甘いものは、ほろ苦さが伴うから、価値があるの。カルアミルクも、甘いけど、コーヒーの苦味があるでしょう?」

彼女は、持っていたカルアミルクの缶(今日だけは市販の缶を持っていた)を、直樹に差し出した。

「これを、半分こにしましょう。今、この場では、半分だけ。残りの半分は、君がロングシュートを決めた時に、飲むの。それは、勝利の甘さと、恋愛のほろ苦さが混ざった、最高の味になるはずよ」

愛華は、プルタブを開け、一口だけ飲んで、直樹に缶を手渡した。

「遠慮無く、飲みなさい。そして、その『愛されたい』という欲望を、次の特訓のエネルギーにしなさい。私の『愛』は、君の成功によって、初めて完全に注がれるものだから」


 直樹は、冷えたカルアミルクを口にした。

甘い。そして、彼女が言ったように、微かな苦味がある。それは、まるで、今の彼の片思いの味だった。

彼は、残りの半分を残し、愛華に缶を返した。彼らの間には、甘くて、切ない、特別な空気が流れていた。


孤独と対峙する、ロシア文学

賭けの期日が迫るにつれ、愛華は、直樹に一つの大きなプレッシャーを与えた。


「次の試合で決められなかったら、約束通り、レポート四千字よ。もう、本は読んでおきなさい」


 愛華が直樹に手渡したのは、やはり、あの分厚いロシア文学だった。『人間は本質的に孤独である』という主題が、延々と語られる難解な物語。直樹は、バスケの練習の合間に、その小説を読み始めたが、頭に入ってこない。


「君は、登場人物たちが、諦めて苦く微笑む姿を、どう評価する? 彼らの孤独は、本当に救いがないのか? それとも、孤独の中にこそ、真の自由があるのか?」

 愛華の質問は、いつも、直樹がバスケで感じている「孤独」と「諦め」の感情を抉るようだった。

「俺は、孤独なんて嫌だ。皆と喜びたい」


「それじゃダメ。真の勝利は、孤独と向き合った後にしか得られない。君がロングシュートを打つ時、ボールを放つのは、君一人よ。コート上で謡うイルカみたいに、自由になれるのは、孤独な瞬間だけ」

 愛華は、直樹の精神的な成長を促していた。ただの技術指導ではない。

 それは、彼自身の「バスケットボールとは何か」「生きる目的とは何か」を問う、哲学的な試練だった。

 直樹は、愛華の真意を理解し始めた。

 彼女は、彼をただの勝利者にするのではなく、孤独を乗り越えた、真のスターにしようとしているのだ。

 彼の胸の中では、愛華の笑顔を見たいという「欲望」と、ロシア文学が突きつける「孤独」との間で、激しい葛藤が続いていた。

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