カルアミルクの放課後
比絽斗
プロローグ
35連敗の重みと、甘くてほろ苦い出会い
桧山直樹と、終わらない夕焼け
西日のオレンジ色は、グラウンドのアスファルトを焼き尽くし、校舎の古いコンクリートを、憂鬱なほどに濃い影で染め上げていた。ここは、東京都郊外にある市立西桜高校
そして、
この光景は、バスケットボール部所属、二年・桧山直樹にとって、まさに「日常」そのものだった。
体育館裏
直樹は、ひんやりと冷たい壁に、まるで魂を抜き取られたように寄りかかっていた。
ユニフォームは汗と埃で張り付き、息苦しいほど熱い。
足元には、古びたバスケットボールが、無気力に転がっている。
背後の壁には、部室の鍵でつけたであろう小さな、しかし確かな傷跡が、まるで負の勲章のように並んでいた。
三十二、三十三、三十四、そして今日、三十五。
今日、またも練習試合で負けた。
しかも、点差はダブルスコアを大きく超える、惨敗だった。
彼のバスケ部、通称「西桜バスケ部」は、周囲の高校から「万年最下位」「負けのプロ」と蔑まれる、正真正銘の弱小チームだった。
「はぁ……」
直樹は、もう何度目になるかわからない溜息を吐き出す。この連敗記録は、もはや彼一人の責任ではない。チーム全体の士気の低さ、練習の形骸化。全てが絡み合って、この負の連鎖を作り出している。
だが、キャプテンでもない、エースでもない彼が、この状況を変える術を知らなかった。
(どうして、こんなにも、バスケが好きなんだろうな)
彼は、ボールに手を伸ばし、指先で古い革の感触を確かめる。ドリブルの音、バッシュが床をこするキュッという音、シュートを決めた時のネットの揺れる音。その全てが、彼の心を掴んで離さない。
しかし…
その「好き」という感情さえも、今日の惨めな敗北のせいで、少しばかりくたびれたシャツのように見えていた。
直樹は目を閉じ、今日の試合の最後の場面を思い出す。
ゴール下でパスを要求した時、チームメイトは彼を見なかった。ボールは、すでに諦めている別の選手に渡り、そのまま、相手のスティールで終わった。
その瞬間、直樹は理解した。
――これは、もう、スポーツではない。ただの「罰」だ。
羽村愛華と、
カルアミルク色の瞳
その時だった。コンクリートの壁を挟んだ向こう側、校庭から続く小道から、乾いた砂を踏む、規則正しい足音が近づいてきた。
そして、その音は直樹のすぐ近くで止まった。
「毎日、毎日、飽きないね」
澄んでいながら、どこか冷たさを感じる声。
直樹は、反射的に目を開けた。そこには、クラスメイトの羽村愛華(はむら あいか)が立っていた。
愛華は、いつも通り、一切の無駄がない制服の着こなし。彼女の長い黒髪は、夕焼けの光を受けて、少しだけ茶色に透けて見える。
彼女の左手には、使い込まれた文庫本。彼女の表情は常に冷静で、感情の起伏というものが存在しないかのように見える。彼女は、直樹とは真逆の人間だ。クラスでも常に上位の成績、美術部所属で、寡黙ながらも、その存在感は無視できない。
「羽村……なんで、ここに」
直樹は、自分の声が、練習で枯れていることに気づいた。
「たまたま通りかかっただけ。君が、いつもの場所で、いつものように、落ち込みに熱演しているのを見かけたから」
愛華は、少しだけ口角を上げた。その微笑は、嘲笑というよりも、ただ事実を述べているだけのようだった。直樹の顔は、一気に熱くなる。
「別に、落ち込んでなんか…」
「嘘はつかなくていい。君の顔には、今日の点差と、連敗の数が、そのまま貼り付いている」
彼女はそう言って、カバンから小さな魔法瓶を取り出した。蓋を開け、一口飲む。彼女の口元から、微かに、甘い香りが漂った。
「それ…」
「カルアミルク。ノンアルコールよ。勉強のお供」
愛華は、直樹の顔を見つめる。その瞳は、夕焼けの色を吸い込み、どこか遠い異国の夜明けのような、温かくも幻想的なカルアミルクの色をしていた。直樹の心臓が、まるで誰かに背中を押されたように、ドクンと鳴った。
「君は、どうしてそんなに無関心なんだよ」
直樹は、少しだけ苛立ちを込めて言った。この負のスパイラルの中にいる自分と、いつも冷静で、全てを超越しているかのような彼女との差が、無性に腹立たしかった。
愛華は、ため息にも似た、小さな息を吐いた。
「無関心なんかじゃない。ただ、見ているだけ。君たちの、成功と挫折のドラマをね」
彼女は、持っていた本に栞を挟み、直樹の足元に転がっているボールを、つま先で優しく小突いた。 「君は、負けることを恐れるあまり、勝とうとすることを諦めているように見える。それは、一番つまらない、革命チックではない行為よ」
「それができたら、苦労しねえよ!」
直樹は感情を爆発させ、再びボールを手に取り、ゴールの方へ向けて、力任せに投げつけた。
そのシュートは、まるで彼の混乱そのもののように、枠を大きく外し、ガランゴロンと、乾いた音を立てて転がった。
あの娘が仕掛ける、ロングシュートの賭け
愛華は、そのボールが止まった場所まで、ゆっくりと歩み寄った。彼女は、地面に転がるボールを、まるで、大切に育てた植物のように、そっと拾い上げる。
その仕草は、美術部の彼女とは思えないほど、ボールを扱い慣れているように見えた。
彼女は、ボールを両手に抱え、直樹に向き直った。
「ねぇ、桧山。私と、賭けをしない?」
直樹は、愛華の真剣な瞳を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。さっきまでの冷たい彼女とは違う。彼女の瞳には、何か、強い光が宿っていた。
「賭け…?」
「そう。次の公式戦、君が、試合終了間際の残り時間15秒以内に、ハーフコートライン付近からロングシュートを決めて、チームを逆転勝利に導く。そのシュートが、試合を決める一投であること」
彼女の言葉は、あまりにも非現実的で、直樹は思わず笑いそうになった。
弱小バスケ部の万年ベンチメンバーが、まるで漫画の主人公のように、試合を決めるロングシュートを、と?
「…もし、それができたら、どうなるんだよ」 直樹は、賭けの内容の無謀さよりも、愛華の提案そのものに、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
「その時は、私は君のしたいことを、なんでも一つだけ叶えてあげる。ただし、法に触れることや、私の人生を左右するような重大なこと以外でね」
愛華は、少しだけ頬を染めながら、付け加えた。
直樹の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するのだろう」という、強烈な衝動だった。
彼女の、今の無表情とは違う、歓喜や驚きに満ちた、最高の笑顔を見たい。その動機だけで、彼はこの無謀な賭けに乗る気がした。
「…じゃあ、もし、決められなかったら?」
「その時は、君が、私が読む小説について、一週間、毎日レポートを提出する。量は、一日に四千字。もちろん、私を納得させる、論理的で、情熱的な読解でなければならない」
直樹は、再び笑いそうになった。バスケの練習より、小説のレポートの方が楽に決まっている、と。だが、愛華の次に口にした言葉が、彼の油断を一瞬で打ち砕いた。
「ちなみに、今、私が読んでいるのは、『人間は本質的に孤独である』というテーマを扱う、分厚いロシア文学よ。人生とか、愛とか、諦念と欲望が、ドロドロに絡み合った難解な作品。その本を読んで、レポートを書くことは、君にとって、バスケで連敗するよりも、ずっと辛い自己との対話になると思うけど?」
愛華は、直樹の目を見て、挑戦的な、しかし、どこか期待に満ちた光を宿した瞳で微笑んだ。
そして、彼女は、ボールを直樹に優しくパスした。
直樹は、ボールを両手で受け止める。
その瞬間、彼の青春は、連敗の泥沼から、一転、甘くて、ほろ苦い、カルアミルクの味を帯び始めた。
「…分かった。羽村。その賭け、乗った」
夕闇が二人を包み込む。
直樹の心には、諦めではなく、愛華の笑顔を見たいという、強烈な恋愛感情という名の情熱が湧き上がっていた。
「楽しみにしてるわ、桧山。…汗まみれのスターになって、私を驚かせて」
愛華はそう言って、背を向け、静かに小道を去っていった。
直樹は、熱いボールを胸に抱きしめながら決意した。
次の放課後から、
彼は、彼女との秘密の特訓を始めるのだ。全ては、勝利と、愛華の特別な表情のために。
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