第46話 サイファ対アルシェ
「――風の精霊よ、集まりて刃となれ。『真空の刃』」
空気が集まり、圧縮される気配。
次の瞬間、目に見えない必殺の刃が放たれた。
だが、サイファは避けた。
長年の経験が、僅かな空気の歪みを捉え、流れを読み、刃の軌道を予測する。
真空の刃は、ドレスの裾を切り裂き、さらに奥の客席を無惨に切り刻んでいった。
椅子が裂け、柱が削られる。だが、悲鳴はない。
すでにオークションの客たちは逃げ出していた。被害者はいない。
――配慮した、軌道。
サイファの脳裏に、先日、奴隷商の地下で対峙した女エルフ、アルシェの言葉が蘇る。
『できれば、私が殺してやりたいくらいだけど……自由が利かないの』
自由は奪われている。だが、理性や本能まで、完全に縛られているわけではない。
侵入時、彼女は本気ではなかった。
そして、今も。
(――彼女は、まだ抵抗している)
ナスターに近づくための鍵は、アルシェだ。
できるなら傷つけたくない。
サイファは姿勢を低くし、一気に距離を詰める。
だが、不意を突くように、側面から圧縮された空気の壁が叩きつけられた。
――回避できない。
「ぐっ……!」
衝撃が全身を打つ。
まるで車に跳ね飛ばされたかのような重さ。
一瞬、意識が遠のく。
だが、サイファはナイフを強く握り直した。
「アルシェ」
背後から、ナスターの声が響く。
「聖女ちゃんを、生きたまま捕らえなさい」
軽い口調。ぞっとするほど、楽しげに。
「特別製の奴隷ちゃんにして、私用の従順な聖女ちゃんを作るから」
「……」
アルシェは答えない。
無言のまま、シミターを抜いた。
アルシェを排除しなければ、ナスターには届かない。
サイファは一瞬だけ視線を巡らせる。
壊れた壁の向こうへ、雷光のバルバトスが歩いて行くのが見えた。
リュミエルは無事か?
いや、問題ない。
彼女は聖騎士だ。
現聖騎士三百人の中でも、選ばれた一人。
ナスターを仕留めるまで、必ず時間を稼いでくれる。
ドラゴニュートは、目標を失ったせいか、動きを止めて立ち尽くしている。
――まだ、勝機はある。
サイファは立ち上がり、ナイフを構えた。
アルシェもまた、シミターの切っ先を、こちらへ向ける。
風が静かに渦を巻く。
先に動いたのは、アルシェだった。
踏み込みは静かだが、間合いの詰め方が速い。
曲刀――シミターが、斜めに走る。
横薙ぎではない、切り上げからの捻り。
サイファは半歩、内側へ入った。
刃の軌道の“外”ではなく、内側。
風を裂く刃の根元に、ナイフを滑り込ませる。
キン、と乾いた音。
金属同士が噛み合い、火花が散る。
その瞬間、アルシェの手首が返る。
力任せではない。精霊魔法で補助された、異常な制動。
シミターの刃が、ナイフを弾き飛ばそうとする。
――浅い。
サイファは刃を離さない。
手首を殺し、体ごと踏み込む。
距離、ゼロ。
肘。
肩。
額がぶつかるほどの近接。
シミターは、この距離では長すぎる。
サイファが空いた片手で『魔力剣』を作り、脇腹を狙う。
だが、刃は入らない。
風が刃をを通すまいと、そこにあった。
皮膚の直前で空気が圧縮され、ナイフの切っ先が弾かれる。
「……っ!」
息を吐く暇もない。
アルシェは、シミターを“斬る”ために振っていない。押し、絡め、封じるために使っている。
柄で殴り、刃で距離を作る。
精霊の補助が、彼女の動きを一拍先へ進めていた。
サイファは後退しない。
退けば風に殺される。
前へ。刃を低く構え、床を滑るように潜る。
シミターが頭上を掠め、髪が揺れる。
返す刃が来る前に、ナイフを突き上げる。
狙いは喉。
――止まる。
刃先が、見えない壁に阻まれる。
その一瞬。
アルシェの膝が、腹部に突き刺さった。
内臓が揺れ、息が肺から抜け落ちる。
だが、サイファは崩れない。
歯を食いしばり、ナイフを反転。
彼女の太腿を浅く切ると、血が弧を描いた。
アルシェの動きが一瞬だけ鈍る。
その瞬間、二人の視線が交わった。
――迷い。
ほんの、刹那。
サイファは、そこを斬り込まない。
代わりに、後ろへ跳んだ。
距離が、開く。
風が渦を巻き、シミターが構え直される。
どちらも息を整えている。
刃は交わったが、勝敗はついていない。
これは、殺し合いじゃない。
縛られた者と、縛られない者の、意志のぶつかり合いだ。
風が変わる。
アルシェの背後で、精霊たちが一斉に動く。
空気が層を成し、通路そのものが歪んだ。
踏み込めば弾かれ、退けば刃が届く。
狭いはずの空間が、無数の壁を持った迷路に変わる。
――空間制圧。
精霊使いの本領が発揮されようとしている。
サイファは足を止めない。
止まった瞬間に、風に裂かれる。
低く、床を蹴る。
精霊の流れを“読む”のではなく“ずらす”。
突進ではない。あえて、半拍遅らせるのだ。
風の刃が先行し、その直後、サイファの影が、そこに滑り込む。
アルシェのシミターが振り下ろされるが、サイファは受けない。
刃の下を潜り、柄を叩く。手首が跳ね、軌道が狂う。
精霊が怒号のように渦を巻き、空気の圧が押し寄せる。破壊された客席、床、壁が強風に煽られ浮かび、室内にサイクロンが起こる。
身体が浮き、視界が回る。
それでも、サイファは笑った。
(……来た)
この現象は、殺すためのものじゃない。
動きを止め、距離を作るための力。
そして、その瞬間――
ナスターの視線は、完全にサイファとアルシェを見失っている。
ドラゴニュート。
バルバトス。
暴風の爆心地に巻き込まれた二人。
崩れ始めた戦線。
――今だ。
サイファは、踏み込んだ。
刃を向けない。
アルシェの懐へ、身体ごと滑り込む。
「……ッ!」
アルシェの瞳が、見開かれる。
至近距離。息が触れるほどの距離で、サイファは囁いた。
「動くな。殺さない」
ナイフを振る代わりにアルシェの胸元、魔法陣の刻まれた位置へ掌を当てた。
神力が静かに流れ込む。
僅かに光る奇跡の演出も最小限。
「『更新』。その契約、少し改変させてもらう」
上書きされるのは命令ではない。
支配の“優先順位”だ。
ナスターの誓約。それを下に沈める。
『更新』が発動した後、神力がごっそり消費されたのが分かった。これは非常に危険な力だ。流石に連続して放てる代物ではない。
一瞬、アルシェの身体が硬直した。
精霊たちが悲鳴を上げ、次いて沈黙する。
「……っ、あ……?」
アルシェの声が、揺れる。
視線が彷徨う。縛られていた糸が、急に見えなくなったかのように。
「……今だけだ」
サイファは低く告げる。
「長くは保たない。だが、自分で選べる。さぁ、決めろ」
その瞬間。
背後で、ナスターの声が鋭く響いた。
「――何をした?」
▽
神力が契約の縛りを沈めた、その瞬間。
アルシェの視界が、白く弾けた。
音が消える。風も、精霊も、遠ざかる。
代わりに忘れていたはずの光景が、雪崩れ込んできた。
――森。
深く、静かな森。
空に届くほど高く伸びる、巨大な樹。
我が祖国、世界樹。
その根元で、幼い声が笑っていた。
『ねえ、◯◯◯――』
名前を呼ばれた気がした。
だが、最後まで思い出せない。
ただ、確かに呼ばれていた。
次の瞬間、炎。
夜を裂く叫び。
精霊たちの悲鳴。
エルフの里が、壊れていく。
逃げる人々。
血の匂い。
そして、小さな手。
『……怖いよ』
震える声。
背中にしがみつく、細い腕。
ハイエルフの子供。
――そうだ。
私は、この子を守ると決めた。
その決意だけが、異様なほど鮮明だった。
次に浮かんだのは、男の影。
優しげな声。
救いを装った言葉。
『契約よ。君を守るための、ね』
違う。
それは、救いじゃない。
胸元が、焼けるように痛んだ。
言葉が、削られる。
記憶が、塗り替えられる。
名前が剥がされていく。
アルシェ。それは、本当に私の名前だったのか?
分からない。分からないのに、胸の奥で消えないものがある。
必ず、守る。
それだけは、奪われなかった。
「……っ、あ……」
現実が、戻る。
床。
血。
剣。
そして、目の前に立つマスクで顔を隠した刺客の名は確かサイファ。ナスターが聖女と呼んだ女。
彼女の掌から、まだ微かに暖かさが伝わっている。
アルシェは、自分の手を見る。
震えている。
だが、今度は恐怖じゃない。
怒りでも、憎しみでもない。
決意だ。
「……思い出したわ」
声は、かすれていた。
「全部じゃない。でも……これだけは、はっきりしてる」
ゆっくりと、顔を上げる。
視線の先にいるのは怒りと困惑が混じった表情のナスター。
「私は、この子を守るために、剣を取った」
精霊たちが、再び集まる。
今度は、命令ではなく、応えるように。
「だから――」
アルシェは、シミターを構えた。
切っ先が向くのは、この地獄に放り込んだ張本人。
「ナスター、私の記憶を返してもらう。そして、この理不尽な契約を破棄させてもらう」
精霊が静かに集う。
それは命令ではなく、祈りでもない。
意思に応える動きだった。
ナスター=ヘスペリアは、一歩も退かない。
だが、その目に浮かんだのは、確かな苛立ちだった。契約は、まだ切れていない。だが、完全でもない。
支配に生じた致命的なズレ。
アルシェは剣を構え、ハイエルフの子供を背に庇う。サイファは、その隣に立った。
刃も、言葉も、もう必要ない。
ここから先は奪う側と、取り戻す側の戦いだ。
夜のオークション会場で、奴隷王の支配が初めて揺らいだ瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます