打ち砕け、罪刑
こむぎこ
第1章 シャリア=フルリアとは、なにものなのか?
第1話 足枷なんて、消えてしまえ
歯車の塔から転げ落ちて数回転。
シャリア=フルリアには、余力という余力がなかった。
「はあッ、はあッ」
――逃げなければ。
もどかしい脚。疲労はたまりにたまっていた。
切れる息、されど手放せぬは太い杖。
黒いマントははためき続けて、体力を削ぎ続ける。
姿を隠すものが何もない山地では、夜闇に溶けるしかなかった。
その夜の闇でさえ、完全な擬態には程遠く。
「待ちなよ、シャリア
隠れきれぬがゆえ、背後に迫るは追手の気配。
逃亡者たるシャリアは、捕まればどうなるかなどわかりきっていた。
――脱走者には死を。
それ以外にはあり得ない。
その光景を何度か見てきた、シャリアには身に染みきった話だった。
「ふぅん。こっちに逃げたんだ」
息遣いだけが響く谷のふちで、ひんやり伝わったのは追手の声だった。
谷を囲む山脈のいっとう高いところにある歯車の塔。
転げ落ちるとしたら谷の側か、もう片方か。
シャリアが転がり出たのは、出口のない谷の側だった。
「確かにこっちは探してないだろうけど、だれもいないと思った?」」
問いかける声は親しくも冷たい。
よく聞けば、旧知の仲のそれだった。
「ッライラ?」
相対するように、シャリアは向き直る。
逃げた方がいいなんてことはわかり切っている。
ここで追ってくるような相手が、味方なはずがない。
でも、シャリアは彼女のことを無視できなかった。
黒いマントに赤い瞳。
世闇に溶ける同じ装い。
一点だけ違うのは、口元にあてられた笛。
いつだって増援を呼ぶように吹けるそれは、明確な対立の証であった。
ライラ=ベルベット。
私が塔を逃げ出すまでは、妹のように思っていた――かけがえのない無二の友人だった。
「なんで、今更? 逃げてどうしようっていうのさ?」
理由を問いただすような声に、シャリアは聞き返す。
「ずっと、言っていたでしょ?」
無駄だ。無駄な話だとシャリアは自覚している。
でも、話さないではいられなかった。
――私は、ライラだって助けたいのだから。
「――あそこにいたら、私たちはずっと籠の中だ。自由になんかなれなくて、人でなしのまま、そのまま死んでしまう」
「だから?」
「――私と来ない?」
薄く笑って、ライラに伝える。
――頼りになるように見えているだろうか? 怯えみたいに映っていたらいやだな。
シャリアの内心では、そんな微風が吹いていたけれど、かえってくるのはいつもの返事だった。
「いくわけないでしょう、そんな無駄なこと」
――そう。
シャリアは頷く。
シャリアは何度もその返事を聞いてきた。
ライラは――ほかのだれだって――脱走の誘いには、ずっと乗らなかった。
シャリアは前々から逃げようと計画していた。
ライラを始め何人かでまとめて逃げ出す案だっていくつもあった。
でも、ライラをはじめ、みんなはできないと言い張った。
逃げられないと。
たった一人しか前例がないと。
逃げてどうにかなるはずがないと。
逃げた先より、ただただ、
でも、そんなの、私は飲み込めなかった。
「――ただ」
ライラは手の上で笛をくるりと回す。
「――シャリア
ライラは楽しげに呟いた。
どこか余裕すらありそうに、見逃す、と言ってのけた。
追えと言われて追って来たのだろうに、それを放棄すると言わんばかりの態度。処罰すら免れ得ないだろうその言葉に、シャリアは困惑する。
「一緒には来ないけど、わたしひとりでにげろ、ってこと?」
「そうさ、さっきまでとかわりなく。さあ、どこへなりとも行ってしまいなよ。
その声には、平静さと愉快さを偽った苛立ちが、見え隠れしていた。
どこか希望には満ちない何かが、見え隠れしていた。
「どういうこと?」
「シャリア
わかる、だなんていっていいものか。
ライラが泣いているのを、見たことがある。
もっと幼いころ、嫌だとこぼしているのを、聞いたことがある。
「アタシはここが気に入っているのさ。シャリア
オツトメが嫌だとこぼしているのだって、もう終わりにならないかな、と願う声だって聞いたことがある。
……それを、そんな風に言わせて。
「谷の外がこれよりいいわけでもないでしょう? ここだって素敵だ。シャリア
いいものか。
影のある笑みを、微笑みと呼んではならないように。
本音を押し殺す仮面を、シャリアは良いとは言えなかった。
「――そう」
でも、零れ落ちたのは力ない言葉。
シャリアはまだ、仮面を打ち砕くに足る言葉を持っていなかった。
かりそめの
必要なのは、結果。
「シャリア
最後通牒のように、ライラは謳い上げる。
「恵まれて、愛されて、それでいてすべてを選べない我儘なお姫様のように」
隠し切れないいらだちのようなものが、確かにそこに見え隠れした。
「……逃げないよ」
項垂れて、諦めてなるものか。
不自由な塔のもとの生活を受け入れていいものか。
うっすら嫌がっているなオツトメを大事なものだと言い聞かせて飲み込んで、いられるものか。
諦めてしまう空気が蔓延してしまうのならば。
顔すら上げられなくなるのなら――
シャリアはすっと顔を上げる。
「逃げないよ」
繰り返して、シャリアは言った。
――私が、灯火になる。
足枷なんて、消えてしまえ。
できないだなんて、言わせない。
どれほど遠くに見えたとしても、掴み取れない星なんてないんだって、示さなきゃいけない。
誰にも星が見えないのなら、私が、なって見せる。
私が、私たちが、まっすぐに前を向くために。
ライラの赤い目が、よりいっそうぎらりと光った。
「まだ行かないのかい? あんまりぐずぐずしているようなら、ほんとーに残念だけど、アタシはアンタを殺さなきゃならないな」
ライラはにこりとして、殺意を向けてくる。
背景には歯車の塔。
谷と、谷の外との境目あたりにある細く高い石造りの塔。
シャリアが谷の外へと逃げ出すための路は、石造りの塔の向こう側にこそある。
いわば、シャリアは、あり得ない立ち位置にいた。
歯車の塔からぬけだしてきたのに、より谷の方へ向かう場所へ。
より、逃げ場のない
追い詰められていくネズミのように。
それでも、シャリアは大きく取り乱すことなく言葉を紡ぎ続ける。
「今の私たちは、今以外のみちだって、許されなきゃいけない。私たちは、私たちの幸せを選んでいい。幸せになれない罪刑原則なんて、何度だって打ち砕いていいんだよ」
「罪刑原則を? そういう馬鹿げたことをいうところ、ほんとうに良くないね。馬鹿だよ。シャリア
「そう?」
「シャリア
ライラは、足音をたてて、距離を詰める。
「シャリア
「大丈夫。私は、ぜんぶに負けないから」
「大層な言葉。で、どうやって出ていこうっていうの? 逃げ道はふさがれているのに? この笛を鳴らして、アタシから逃げられると思う? それともなに? アタシの方がどの成績もよかったの、忘れた?」
す、とライラは腰を落とす。
どんな行動にも、即応できるように。
どうやって谷の外に出ようとしても、捕らえられるように。
――そんなこと、ぜんぶ無駄なのに。
「ずっと、どうしてそっちを警戒しているの?」
「どうしてって、あんたが逃げるならこっちだろう?」
「だから、ずっと、逃げないと言っているでしょう? 聞いていなかった? 私は、逃げないし、全部打ち砕くんだよ」
「――まさか」
シャリアは、ふらりと足を出す。
ライラのいる谷の外の方ではなく、谷の方へ。
ライラはぴい、と笛を吹いた。
はやい。対応は迅速で、的確。
数で囲んで逃がさないようにするのは妥当だった。
山の峰を伝うように、広がる笛の音は、数多くの追手の耳に届く。
でも、そんなのよりも早くシャリアは、崖に近寄って。
できるだけ、真下の深さを見ないようにして。
これさえあればと、杖一本をかきいだいて。
全てを変える灯《ひ》になるのだと、心に刻んで。
シャリアは――
谷の淵から身を投げた。
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