第2話 インクの匂いと始まりの街道

 早朝、まだ朝霧が立ち込める中、私はこっそりと家を出ようとした。



 両親に言えば止められる。泣かれるかもしれない。それでも行く決意は固まっていたけれど、別れの辛さは減らしたかった。しかし、玄関の扉を開けた瞬間、そこには腕組みをした父が立っていた。


  「……父さん」


 言葉に詰まる私に、父は静かに問いかける。


 「やっぱり行くのか」


 父の声は低く、しかし怒気は含んでいなかった。私の性格を知り尽くしている、諦めにも似た響きがあった。私は旅行鞄を握りしめ、真っ直ぐに父を見上げた。


 「うん。待ってるのは、もう嫌だから」 


 「王都までは、大人の足でも一月ひとつきはかかる。そこからさらに魔王城へ向かうとなれば、どれだけの旅になるかわからんぞ」


 「わかってる。でも、行かないと後悔する」


 父は大きなため息をつくと、「ついてこい」と顎をしゃくった。


 連れて行かれたのは家の裏手にある厩舎きゅうしゃだった。そこには、我が家で一番の老馬、栗毛くりげの『バロン』が繋がれていた。


 バロンはもう高齢で、畑仕事も引退して久しい。私が子供の頃から世話をしてきた、穏やかな馬だ。


 「歩いて行く気だったんだろうが、お前の足じゃ隣町に着く前に豆だらけになる。こいつを連れて行け」 


 突然の提案に、私は目を丸くする。


 「でも、バロンはお爺ちゃんだよ? 長旅なんて……」


 「だからこそだよ。こいつは賢い。それに、若い馬より道草を食わないから、お前のペースには丁度いい」


 父はぶっきらぼうに言って、バロンの背にくらを乗せた。


 バロンは「やれやれ」と言いたげに鼻を鳴らしたが、嫌がる素振りは見せなかった。大きな瞳が、私を静かに見つめている。


 父は私の旅行鞄を鞍に結びつけ、さらに大きな革製の鞍袋くらぶくろを取り付けた。中はまだ空っぽで、ぺしゃんとしている。


 「アルヴィスを見つけたら、一番にこれを飲ませてやれ」


 父が懐から取り出し、鞍袋に入れたのは、村の名産である葡萄酒の小瓶だった。ラベルには父の手書きで製造年が記されている。


 「あいつ、成人したら一緒に飲むって約束してただろ。……俺の代わりだ」 


 その不器用な優しさに、堪えていた涙が滲みそうになる。


 「うん……ありがとう、父さん」


 「母さんには俺から上手く言っておく。……必ず、帰ってくるんだぞ」


 父の掌が、私の頭を乱暴に、でも優しく撫でた。


 私は涙を拭って頷き、バロンにまたがった。 視点が高くなり、見慣れた村の景色が少し違って見えた。


 「行ってきます」


 私は手綱を引いた。空っぽの鞍袋に、最初の荷物が入った。これが、私の旅の始まりだった。


     ◇


 村を出てからの道のりは、バロンのおかげで随分と楽になった。彼は私の独り言を黙って聞いてくれた。一人旅の心細さは、この老馬の温かい背中と、規則正しい蹄の音が紛らわせてくれた。


 「ねえバロン。アルヴィスの手紙だと、この辺りに綺麗な花畑があるはずなんだけど」


 私は手紙を片手に話しかける。バロンは一つ耳を動かし、草を食むのをやめて顔を上げた。実際にそこにあったのは、行軍によって踏み荒らされた泥道だった。花畑の面影はなく、キャタピラのようなわだちと、黒く焦げた地面が続いている。


 彼の手紙を逆に辿る旅。それは、失われた風景を確認する作業でもあった。アルヴィスが見て、感動し、私に伝えたいと願った景色。『黄金の海のような麦畑』は、見るも無残な焼け野原になっていた。『活気ある宿場町』の入り口にあった大きな風車は、骨組みだけになって空しく風を切っていた。


 三年の月日は、風景を変えるには十分すぎる時間だったのだ。あるいは、彼が通った直後に、ここは戦場になったのかもしれない。


 「……全然、違うじゃない」


 私は呟き、少しだけ胸が痛んだ。彼が見た景色と、私が見ている景色。たった三年。けれど、その間には決定的な断絶がある。


 平和になった今、荒れた畑には数人の農夫が戻り、懸命に土を耕し始めていた。焼け残った家屋を修理する槌音つちおとも聞こえる。  世界は再生しようとしている。けれど、失われた黄金色は、今の私の目には映らない。


 彼と私の間に横たわる、埋められない時間。それを突きつけられるたび、私は鞍袋に入っている葡萄酒の重さを確かめた。


 旅に出て二週間。私は最初の手紙に書かれていた目的地、宿場町『ルル』に到着した。



 ルルは、半分が瓦礫の山になっていた。魔族の襲撃を受けたのだろうか。石造りの壁は崩れ、すすけている。それでも人々はたくましい。崩れた壁を利用して露店を開き、旅人たちに声をかけている。


 私はバロンを降り、手綱を引きながら町を歩いた。目指すのは、手紙に書かれていた『歌う亭』というパン屋兼宿屋だ。


『ここの名物は「蜂蜜入りのエール」らしいけど、俺はまだ飲ませてもらえなかったよ。代わりに食べた固焼きパンは、噛めば噛むほど甘くて、なんだか村を思い出した』


 その店は、奇跡的に残っていた。いや、正確には半分焼け落ちていたが、大きなテントを張り出して営業を再開していた。香ばしい匂いが漂っている。私は店の前で足を止め、忙しそうに立ち働く恰幅の良い女性に声をかけた。


 「あの……すみません」 


 おかみさんは元気よく振り返った。


 「はいよ!パンかい?それとも宿をお探しで?」


 「あ、いえ……人を探しているというか、ここに来た人のことを知りたくて」


 おかみさんは怪訝けげんな顔をした。無理もない。こんな復興の最中に、過去の客のことなど覚えているはずがない。私は焦りながら、手紙の一節を読み上げた。 


 「三年前、ここで固焼きパンを買った兵士なんです。アルヴィスといって、茶色い髪で、背中に大きな剣を背負ってて……」


 「アルヴィス?」


 その名を聞いた瞬間、おかみさんの手が止まった。


 彼女は小麦粉で汚れた手をエプロンで拭うと、大きく目を見開いて私を見た。


 「アルヴィスだって? ああ、覚えてるよ! 忘れるもんかい!」


 予想外の反応に、私はたじろいだ。


 「育ちの良さそうな、笑顔の可愛い子だったねぇ。あの子、自分の部隊の配給を減らしてまで、私たちに小麦を分けてくれたんだよ」 


 「え……?」


 「あの頃は食料不足でね。店を畳もうかと思っていたんだ。でもあの子が、『故郷のパン屋を思い出すから、この店はなくさないでくれ』って言って、自分の分の干し肉と小麦を交換してくれたんだよ。あの子のおかげで、私たちは飢えを凌げたんだ」


 おかみさんの表情は、慈愛に満ちていた。まるで自分の息子を語るかのように。


 私の知らないアルヴィス。手紙には『パンが美味しかった』としか書いていなかった。自分が誰かを助けたなんて、一言も書いていなかったのに。


 「あの子、生きてるのかい?」 


 期待を込めた問いかけに、私は言葉を詰まらせる。


「……わかりません。手紙が途絶えてしまって、私が探しに行こうと」


 私が正直に答えると、おかみさんは少し寂しそうな顔をして、すぐに店の奥へと引っ込んだ。ガサゴソという音がして、彼女は大きな紙袋を抱えて戻ってきた。中からは、焼きたてのパンの匂いがする。


 「お嬢ちゃん、これを持っていっておくれ。あの子が食べたがっていた、胡桃くるみ入りの固焼きパンだ。日持ちするように焼いてある」


 「えっ、でも、お金は……」


「いらないよ! これはお礼さ。あの子に会えたら伝えておくれ。『おかげで店は再建できたよ、また食べにおいで』ってね」


 ずっしりと重い紙袋。受け取った私の腕が、重みで少し沈む。その温かさが、服を通して胸に染みた。


「……はい。必ず、伝えます」


 私は紙袋を油紙で包み、バロンの鞍袋に入れた。父さんの葡萄酒の隣に、パンの袋が収まる。ぺしゃんこだった袋が、少しだけ膨らんだ。  バロンが「重くなったな」と言うように、小さくいなないた。


 町を出る時、私は何度も振り返った。瓦礫の中、湯気を立てるパン屋のテント。あそこで彼が笑い、誰かを救い、そして未来へ繋がる種を蒔いていた。彼の足跡は、ただの土の上の窪みじゃない。人の心に残る温かさなのだと、私は初めて知った。


 ——待ってて、アルヴィス。

 あなたの残した『ありがとう』を、私が全部集めていくから。

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