終戦の鐘が鳴っても、君の足跡はここにある
植月和機
第1話 宛先のない手紙
王都の鐘が鳴り響いたのは、遅い春の午後だった。
その音色は風に乗り、街道を抜け、深い森を越えて、私の住む辺境の村ポコットにまで届いた。最初は誰もが何事かと空を見上げたけれど、すぐにやってきた早馬の使者が、枯れかけた喉で叫んだのだ。
「魔王が討たれた!
その瞬間、世界は色を変えた。
畑を耕していた男たちは
樽が開けられ、何年も貯蔵されていた葡萄酒が振る舞われる。肉が焼ける香ばしい匂いと、フィドルの軽快なリズム。焚き火の爆ぜる音が、祝砲のように夜空へ吸い込まれていく。
「これで徴兵に怯えなくて済む」 誰かが安堵の息と共に呟けば、別の誰かがジョッキを高く掲げて応じた。 「交易路が戻るぞ! やっと商売ができる!」 「平和だ、平和が来たんだ!」
誰もが笑っていた。世界中が、幸福という名の熱病に浮かされていた。
私は広場の隅にある丸太に腰掛け、回ってくる杯に口をつけるふりをしながら、ずっと村の入り口へ続く道を見ていた。
魔王が死んだ。戦争は終わった。
——なら、彼はいつ帰ってくるの?
私の幼馴染。
村で一番剣が上手くて、誰よりも優しくて、少しだけ字が下手な男の子。アルヴィス。
彼は三年前、「魔王を倒して、エリナが安心して暮らせる世界にするよ」なんて大層なことを言って、英雄たちが率いる人類軍に志願した。村のみんなは彼を英雄予備軍だと
道はずっと、暗闇の向こうへと続いている。
宴の焚き火が揺れるたび、心臓が跳ねた。今にもあの道の向こうから、ボロボロの鎧を着た彼が手を振りながら現れるんじゃないか。
『よう、エリナ。待たせたな』
そう言って、白い歯を見せて笑うんじゃないか。
けれど。朝日が昇り、宴の熱が冷め、酔いつぶれた大人たちが目を覚ましても、その道には誰も通らなかった。
一週間が過ぎた。一ヶ月が過ぎた。
凱旋パレードが終わったという噂が届いた。軍が解散し、兵士たちが故郷へ帰り始めたという話も聞いた。隣村の若者は、片足を失いながらも帰還し、家族と抱き合って泣いたという。
半年が過ぎた。
村はすっかり平和な日常を取り戻していた。戦時中のような物資不足も解消され、人々の顔色も良くなった。
そんな中で、私だけが取り残されていた。
毎朝、村の入り口にある郵便馬車の停留所へ行くのが日課になっていた。
「よう、エリナちゃん。今日もかい?」
御者のオジサンは、荷台から降りながら、申し訳無さそうに眉をハの字にする。その表情を見るだけで、胸が締め付けられる。
「……ごめんな。今日も、アルヴィスからの手紙はないよ」
その言葉を聞くのは、何度目だろうか。私は精一杯の笑顔を作って、頭を下げる。
「……そっか。ありがとう、おじさん」
大丈夫、わかってる。手紙がないのは、彼がこっちに向かって移動しているからだ。忙しいからだ。もうすぐ会えるから、書く必要がないからだ。
そう自分に言い聞かせて、私は来た道を戻る。背中に感じる村人たちの視線が、「可哀想に」と語っているのが痛かった。
部屋に戻り、机の引き出しを開ける。
そこには、紐で束ねられた分厚い手紙の束がある。一番上にあるのは、半年前に届いた最後の一通だ。
『エリナへ。 いよいよ決戦だ。魔王城は目の前にある。 空は常に紫色の雲に覆われていて、空気は重い。でも、不思議と怖くはないよ。 隣には仲間がいる。背中には、君たちのいる故郷がある。 これを書き終えたら、剣を研いで、明日出発する。 これが終わったら、一番に君の元へ帰るよ。 村のパン屋の、固焼きパンが食べたいな。 待っていてくれ。 アルヴィス』
紙の端は少し焦げていて、インクの染みがある。
私はその文字を指でなぞる。何度も何度も読み返したから、紙は柔らかく毛羽立っている。インクの匂いはもう飛んでしまって、代わりに私の指先の匂いがした。
「……嘘つき」
ぽつりと、言葉が落ちた。帰るって言ったじゃない。一番に帰るって。待っていてくれって言ったじゃない。
私は待った。十分すぎるほど待った。季節は二つも巡った。 村の誰もが、もうアルヴィスの話題を口にしなくなった。私の前では、腫れ物に触るように彼の名前を避ける。 それがたまらなく嫌だった。彼が過去の人にされていくのが、耐えられなかった。
「……迎えに行かなきゃ」
それは衝動だった。あるいは、半年間溜め込んだ
私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
彼が帰ってこないなら、私が迎えに行けばいい。待っているだけの『村娘』は、もう終わりだ。
幸い、私には『地図』がある。
彼が三年間、律儀に送り続けてくれた、この手紙の束だ。
ここには、彼がどこを通り、何を見て、何を感じたかが書かれている。これを逆に辿っていけば、必ず彼のいた場所に行き着く。
もし、彼がどこかで道に迷っているなら、私が引っ張って連れて帰る。
もし、怪我をして動けないなら、背負ってでも連れて帰る。
もし、記憶を失っているなら、何度でも名前を呼んであげる。
もし。
もし、もう二度と動けない姿になっていたとしても。
——その時は、私が彼を家に連れ帰るんだ。
私は旅行鞄をベッドの上に広げた。
着替えと、水筒と、保存食。それから、護身用の小さなナイフ。
最後に、彼からの手紙の束を大切に油紙に包んで、鞄の一番底に入れた。これが私の羅針盤だ。
窓の外は、突き抜けるような青空だった。
平和な空だ。彼が命懸けで守った空だ。
私はその青さが、少しだけ憎らしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます