night of blood
さくらたぬき
第1話 迷子と出会い
藍色の空に、満月へ向かって膨らみつつある月が静かに浮かんでいる。
目の前には、絵に描いたような鬱蒼とした森が広がっている。
「……ここ、どこだ?」
そう、夜人は迷子になっていた。
助けを求めるように周囲をぐるりと見渡すが、外灯もなければ人の気配もない。
聞こえてくるのは、冷たい夜風が木々を揺らす音だけだった。
「あーマジか。どうすんだこれ……」
困ったように後頭部をワシワシ掻くと肩を落とした。
(完っ全にやらかしたな····· 昨日の説明ちゃんと聞いときゃよかった──!)
後悔の波が押し寄せてくるが、今となってはもう遅い。とにかく、この森を抜けることが最優先だ。
夜人はまだ着慣れない制服のポケットからスマホを取り出す。
サイドボタンに軽く触れると、液晶画面が夜の闇の中でぽつりと光る。
映し出された時間を見た瞬間、夜人の胸にじわりと焦りが広がった。
(やば。急がなきゃ)
ついでにメッセージアプリを開いてみるが、未読ゼロという悲しい現実を突きつけられて、夜人はすぐにスマホを閉じた。
「……てか、敷地広すぎなんだよな」
2度目のため息をつき、夜人は苛立ちをぶつけるように森へ鋭い視線を向ける。
ここは東京郊外にある、とある山中──
一般立ち入り禁止区域とされている場所だ。
そこに、今日から夜人が通う学院がある。
学院は特殊で、世間には認知されていない。
いや、正しくは──《認知されてはいけない》のだ。
そのため、存在を隠すように山奥にひっそりと建っている。
「そうだ、地図アプリ!」
天啓を得た気分で地図アプリを起動──
──した瞬間、『現在地を読み込めません』の文字。
「だよなぁ……」
夜人はがっくりと項垂れた。
一度寮に戻ろうかと思うも、方向音痴の夜人はすでに来た道を見失っていた。
(……こうなったら突っ切るしかないか)
覚悟を決め、夜人は深淵のような森へ足を踏み入れた。
♢
森とはいえ学院の敷地内だからか、道らしいものはある。
夜人は月明かりを頼りに、視線を巡らせながら慎重に進んだ。
しばらくすると、視界の先がふっと開けた。
(お、出口!?頼む、学院へ続く道であってくれ·····!)
期待を胸に歩みを速め、夜人は森を抜ける。
──が、その先は学院ではなく、円形の広場だった。
広場を囲うように桜の木が立ち並び、外灯の光がほのかに花びらを照らしている。
中でも一際目立つのは広場の中央、小さな噴水と花が添えられた石碑だ。
先程までの物寂しい森とは打って変わり、目の前には幻想的な空間が広がっていた。
「……こんな場所もあるんだな」
感嘆の息が漏れたその時、視界の端でふわりと何かが揺れた。
桜の花びらかと思ったが、目を凝らすと──
広場の隅で桜を見上げる少女のツインテールだった。
(あの子·····こんなところで何してんだ?)
夜人は半ば無意識に息を潜め、そっと近づく。
少女は厚底の靴を履いているが、それでも足りないようで、背伸びをしながら桜を見上げている。
その小柄で華奢な姿は、どう見ても高校生には見えない。
(中学生?いや中等部があるなんて聞いてないぞ·····)
しかし制服の左腕には特徴的なエンブレムの刺繍が施されている。学院の生徒なのは間違いないだろう。
声をかけようかと迷うが、どこか神秘的な雰囲気をまとった少女に、夜人は声を出す勇気が出なかった。
そうしていると、一際強い風が吹き抜けた。
「きゃっ!」
少女は驚いたように声をあげ、その拍子に足元のバランスを崩す。
ぐらりと後ろに倒れる少女。
このままでは転んでしまう。
「危ないっ!」
夜人は咄嗟に駆け寄り──
ボスッ
すんでのところで少女の体を抱きとめた。
──想像以上に華奢な体だ。あのまま転べば怪我をしていただろう。下手したら頭を打っていたかもしれない。
夜人はホッと胸を撫で下ろした。
「怪我はない、か──」
その瞬間、少女と目が合った。
真っ白な肌に桜色の唇。ルビーのように澄んだ瞳が夜人を捉える。
儚さと妖艶さが入り混じったような美しさに、夜人は息を呑んだ。
「あ、あの……そろそろ離して──」
「可愛い」
「ふぇっ!!?」
少女の頬が一瞬で林檎のように染まる。
「きゅ、急に何をっ……!?」
「え!?あ、悪い……本音が……!」
(オイオイ何言ってんだ俺!?)
夜人は自分でも驚き、冷や汗がどっと流れる。
(無意識とはいえ、初対面で可愛いはマズイって! しかも抱きかかえてるし!!)
この状況、セクハラで訴えられてもおかしくない。
入学初日からトラブルなんてまっぴら御免だ。
夜人は恐る恐る少女を見ると──
少女は怒るどころか、もじもじと夜人を上目遣いで見ていた。
「……その、私って可愛い?」
潤んだ瞳。紅い頬。
そのあまりの破壊力に、夜人の脳内に並んでいた弁解の言葉は、一瞬で吹き飛んでしまった。
「あぁ。まるで妖精みたいだ」
真顔でキザな台詞を言い切り、力強く頷く夜人。
「そ、そんなぁ……妖精だなんて……えへへ」
少女はふにゃりと笑う。満更でもなさそうだ。
(なんだ。一瞬大人びて見えたけど、いかにも年相応って感じだな)
「ところで君、中等部の子かな?」
夜人は昔から背が高い方だった。そのせいで何かと怖がられてきた苦い経験がある。
だから夜人は、出来うる限り笑顔で優しい声音を紡いだ。しかし──
「──え?」
少女の表情がピシっと固まる。
「この学院に中等部があるなんて知らなかったよ。こんな時間に一人で出歩くのは──」
「ちょっと待って!……可愛いって、もしかして……」
少女は俯き、プルプルと小刻みに体を震わせている。
「あぁ。小さくて妖精みたいだから可愛いなって──」
その瞬間。
下から拳が跳ね上がり、夜人の顎を直撃した。
──少女に殴られたのだ。
「いっっってぇええ!!」
あまりの衝撃と痛みに後ろに倒れ、顎を押さえる夜人。
その隙に少女は立ち上がり、怒りの炎を宿した瞳で夜人を見下ろしていた。
「な、何すんだよ!」
「ふんっ。どっからどう見ても自業自得でしょ!よくもおちょくってくれたわね·····いい!?この学院に中等部なんてないから!!」
警戒心の強い野良猫のようにフーフーと息を荒らげる少女。
突然すぎる出来事に夜人は目を丸くしたが、すぐにハッとした表情を浮かべる。
「……すまない」
「そう。分かればいいのよ。私はれっきとした──」
「小学生だったのか」
「っ!? ばっっかじゃないの!!」
少女の蹴りが夜人の足に炸裂する。
「いってててて!!」
「あんた、ほんっとーに失礼ね!私は高校生よ! 高・校・生!」
よほど頭にきたのか、少女は何度も蹴りを浴びせてくる。
「痛い!痛いって!俺が悪かったから!!」
「どうせ私はチビで貧乳で根暗陰キャよ!悪かったわね!!」
「いやそこまでは言ってねぇよ!?」
少女は夜人の「悪かった」を、脳内で都合よく“超悪口バージョン”に改ざんしたらしく、勝手に怒りゲージをMAXまで上げていた。
(こいつ·····とんでもなくやばい女だ!)
夜人は数分前の失言を心の底から後悔した。
「はぁ·····はぁ·····」
どのくらい経っただろうか。満身創痍の夜人を見て我に帰った少女はようやく足を止めた。
(やっと、終わった·····)
夜人は安堵したものの、全身のあらゆる場所が痛み、悲鳴をあげている。
「あーもう!この変態ロリコン男のせいで時間無駄にしちゃったじゃない!」
少女の吐き捨てるような一言が耳に刺さり、夜人は抑えていた怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
「…………この暴力女」
「今、何か言った?」
ギロリ、と刃物のような視線と共に、足が再び構えられる。
「·····いや、何も」
夜人は即座に視線を逸らした。
少女はふん、と鼻を鳴らすとスカートのポケットからスマホを取り出す。時間を確認しているのだろう。
「……じゃ、急いでるから」
少女はくるりと踵を返し、森へ歩き去っていった。
嵐のような少女だった。
(……助けたのに礼もなしかよ)
夜人が呆然と見送っていると──
ゴーン……ゴーン……
教会の鐘のような音が響く。
「あっ……入学式!」
あまりに濃すぎる出会いで完全に忘れていたが、夜人は現在進行形で迷子なのだ。
(やばい!ガチで遅刻する!)
道も分からない。時間もない。
絶望的な状況に頭を抱えかけたその時。
少女の去っていった方向を見て、夜人は閃いた。
(待てよ。あいつ、多分この辺の道知ってるよな)
「よし、そうと決まれば──!」
夜人は慌てて小さな少女の背中を追いかけた。
night of blood さくらたぬき @sakura-tanuki
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