始まり、あるいは終わり

 それは、フローリングの床の上に、血溜まりをつくってうつ伏せに倒れていた。

 後ろ姿から見るに、小太りの中年女というところだろうか。背中に傷はないから、きっと床に面している体の前方に出血の原因となった傷があるのだろう。

 これは、本当に人間の死体なのだろうか?

 どう見ても動物ではないから、人間なのだろう。リアリティがないのに、偽物だと思えない。そんな感覚だった。

 悲鳴すら出なかった。僕はただ呆然と、それを見下ろしていた。

 転がっているそれは、誰なのか。確認してみなければならないだろう。

 けれどもうつ伏せになっているから、自分で動かさなければならない。どうにもそれが気味悪くて嫌だ。それならば警察に任せればいいのかもしれない。しかし僕には、それはできない。

 警察も救急車も――この出血ではまず間違いなく死んでいるだろうが――呼ぶことはできない。そんなことをすれば、まず間違いなくノリのことがバレる。

 父が一生を懸けて守ってきた秘密を、バラすわけにはいかない――。

 人死にが出てもなお、僕はそう思うのだった。

 僕は覚悟を決め、肩を掴みそれをうつ伏せから仰向けにした。しまった、指紋がついてしまった、と思ったが、どうせ警察には言えないのだから大したことではあるまい。

 それの顔を見て、僕の恐怖はさらに膨れ上がった。

 喉笛が切り裂かれ、口からは夥しい量の血液が溢れていた。さらに、顔はナイフらしきものの切り傷でぐちゃぐちゃにされ、顔立ちすらほとんど分からなくなっている。

 首から腰のあたりにかけて、無数の刺し傷があり、そのすべてから血が流れていた。何度も何度も滅多刺しにしたようだ。惨い、としか言いようがなかった。

 一体誰がこんなことをしたのか。

 顔を隠すようにレインコートのフードを被り、外に飛び出していったノリを思い出す。前のボタンをすべて閉めていたのは、服についた返り血を隠すためだったのでは――。

 僕はそんな思考をすぐに頭の中から追いやった。そんなはずはない。ノリが、そんなことをするはずがない。

 そもそもこの人は誰なのだ。なんとなく背格好に見覚えがあるような気がしなくもないが、如何せん顔がこれなのでよく分からない。背格好だけなら、似たような人など街を歩けばいくらでも見つかる。

 僕はこれからどうするべきなのだろう。警察に言えない以上、自分たちでどうにかするしかないのだろうが……。自分たち。そういえば、ノリはどこへ行ったのだろう。

 念の為、家の中のすべての部屋を確認してみたが、どこにもノリの姿はなかった。まずはノリを探しに行くのが先決だろう、と思ったが、ノリの行く先などまるで見当がつかない。ノリの行動範囲といえば、僕とかわりばんこに行っていた球場くらいかと思うが、球場に出かける日は好きに出かけていいことにしているので、試合観戦後にどこかへ一人で出かけている可能性は十分にある。

 ノリ探しにいつまでかかるか分からないのに、家を空けていいのだろうか。もし、僕がいない間に異臭を嗅ぎつけられて誰かに通報されでもしたら……。僕とノリと父が守り続けてきた秘密がバレてしまう。この死体が見つかることより、そっちのほうが何倍も怖かった。

 今回の件は、僕がどうこうできる範囲を大幅に超えている。僕だけではどうにもならない。誰かを、呼ばなければ。信頼できる人を……。

 最低限の人付き合いしかない僕にとって、思いつく相手が一人でもいることは幸いだというほかない。

 それでも事が事なので、僕は少し躊躇ったが、結局その人物に電話を掛けることにした。

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