第5話 解凍
ハスラーが道の駅の駐車場に戻ると、初夏の陽射しがフロントガラスに柔らかく反射した。遠くでツバメが弧を描き、舗道の植え込みには青々とした葉が風に揺れている。隆志は助手席でシートベルトを外し、静かに言った。
「都筑さん、今日の指導はここまでにしておきましょう。大きな進歩です。あなたの運転技術の問題は、技術的な欠陥というより、身体と心の緊張の連鎖でしょう。技術なら、こんなに短時間で上達しませんよ」
智絵は、興奮を隠しきれずに頷いた。隆志の言葉は、まるで厳密な実験結果の考察のように、自分の問題を的確に言語化してくれていた。
「ありがとうございます!先生のおっしゃる通りでした」
「いえ、あなたの素直な順応力の賜物です。ただ、そうは言っても、技術的な課題がないわけではありません。特に、緊急時の対応や車線変更時の視線の動きには、まだ改善の余地があります」
隆志は、助手席でシートベルトを外しながら、心の中で思った。
(この子がもっと楽に生きられるよう、何か手助けができないだろうか。運転は、そのほんの一部に過ぎない。彼女の知性と、それを活かそうとする強い意志――その力が、内面の深い恐れによって封じられているのは、看過できない。一所懸命、努力する人は報われるべきだ)
「どうしますか?本日はここまでですが、次回もやってみます?」
智絵は、隆志からの再指導への誘いに、胸が高鳴るのを感じた。この指導が、彼女の人生を再び動かしてくれると、直感的に悟っていた。
「はい!ぜひ、お願いします」
「では、また」
ハスラーを降りた隆志が、来たときとは別の方向へ歩き出した。飲食店の並ぶエリアだ。智絵は思わず声をかける。
「あれ、先生。お昼ごはんですか?」
「ええ、ここで済ませてしまえば楽なので」
「ご家族とではないのですか?」
智絵は、隆志の左手に指輪がないことに気づいていた。ほんの少し、踏み込んでみる。
「ああ、家に行っても誰もいませんからね。気楽な独身生活ですよ」
「え、そうなんですね。私も一人なので、ご一緒してもよろしいでしょうか」
同乗指導の緊張から解放された智絵は、憧れの人との接点を失いたくない一心で、思わず大胆な言葉を口にしていた。もう取り消せない。
「もちろんです。では、そこのバーガーショップでも」
道の駅のバーガーショップは、初夏の休日らしく観光客や地元の家族連れで賑わっていた。窓際の席からは、陽射しにきらめく緑と、遠くの山並みが見える。二人が並んで注文していると、智絵は周囲の視線を肌で感じた。それが、自分の身体に向けられているのか、年の離れた男女が並んでいることに向けられているのか、わからない。
胸の奥で、古い恐怖が小さく疼いた。だが、隣に立つ隆志の落ち着いた気配が、その痛みを薄めていく。彼の存在は、視線のざわめきから自分を隔てる静かな壁のようだった。
「都筑さんは、本当に順応力が高い。今日の運転を見て、改めてそう感じました。次回の指導では、車線変更時の視線の動き――つまり『周囲の環境の読み取り方』に特化して運転してみましょう」
隆志はフィッシュバーガーをアイスコーヒーで流し込みながら、事務的な口調で言った。その声は、智絵の心に静かな安心を落とした。彼が『指導』という枠を崩さないことが、かえって心を守ってくれる。
「はい。次はいつ頃がよろしいでしょうか?」
「来週の土曜日の午前中でどうでしょう。場所は、もう少し交通量の多い道の方がいい。待ち合わせは、またここで」
指導の話はそこで途切れた。冴島は智絵の私的なことには一切触れず、世間話や研究の話に話題を切り替えることもしない。あくまで『指導の一環の昼食』を遂行しているという姿勢だった。
智絵は、その紳士的な距離感に安堵した。同時に、指導という枠を超えて、もっと一人の女性として見てほしいと願う自分がいることに気づき、小さく動揺した。この感情は、彼女が長年、身体を見られる恐怖から忌避してきた、根源的な願望だった。
「本日はありがとうございました。次週もよろしくお願いいたします」
冴島は立ち上がり、小さく頷いた。
「では、また連絡します」
二人はわずか二十分ほどの昼食を終え、道の駅で別れた。智絵はハスラーに乗り込み、冴島が歩いて立ち去る背中を見送ってから、駐車場を後にした。車内には、まだバーガーの香りと、彼の声の余韻が残っていた――。
午後の陽射しが注ぐ中、智絵はアパートの駐車場にハスラーを停めた。エンジンを切ると、車内に静寂が戻る。窓越しに見える街路樹の葉が、初夏の風にそよぎ、淡い緑の影を車体に落としていた。昼食の余韻が、まだ身体の奥に残っている。
(先生と並んで食事をした……)
それだけのことが、彼女にとっては小さな奇跡だった。だが、その奇跡の中で、自分がまた身体を強張らせていたことにも気づいていた。
部屋に戻ると、カーテン越しの光が床に柔らかく落ちていた。智絵はジャケットを脱ぎ、椅子に腰掛ける。スマートフォンをテーブルに置いた瞬間、ふと、昔の記憶が蘇った。
——中学時代。
制服の胸元がきつくなり始めた頃、男子の視線が変わった。心ない言葉。「牛乳屋」と呼ばれ、からかいの対象となった。公然と「揉ませろ」と言ってくる者さえいた。それが、彼女の「見られることへの恐怖」の始まりだった。
高校では女子校に進み、いやらしい視線からは解放された。だが今度は、嫉妬や羨望の視線が突き刺さった。勝手に「目立ちたがり屋」というレッテルを貼られた。大学でも状況は大きく変わらなかった。社会人になっても、露骨な言葉こそ消えたが、視線は胸に絡みついた。
(あの頃から、私はずっと……)
地味な服を選び、姿勢を丸め、声を小さくして生きてきた。知性だけが、自分を守る唯一の武器だったが、それを評価してくれる人はほとんどいなかった。
そして、とうとう勤務先で、恐怖によるパニックで調剤をしくじった。以来、薬剤師としての自信を喪失し、事務方に回ることになった。
(私は何のために薬剤師になったのだろう)
でも、今日。冴島先生は、運転という行為を通じて、自分の知性と努力を見てくれた。先生の視線を感じなかったと言えば嘘になる。しかし、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「私は、あなたの運転を見ています」——その言葉が、今も胸に残っている。
智絵は、そっと胸元に手を当てた。
(先生が隣にいてくれるなら、こんな私もやり直せるかもしれない)
その思いが、過去の記憶を静かに包み込み、少しずつ、彼女の中で形を変え始めていた。彼女の内に燻っていた知性の炎が、再び燃え上がろうとしていた。
――その頃、家に帰った隆志は、自宅の書斎のデスクに向かい、目を閉じていた。自身がこの介入を続ける理由を、倫理的な範疇に押し留めるために、再び「教育者としての責務」という言葉を自身に課した。
そして、彼女が持つ論理的な思考力と順応性。それを運転という具体的な行動で証明させ、成功体験を積み重ねさせること。それが、このコンプレックスを無力化する最速の方法だと結論付けた。
彼は、次回の指導で扱う「車線変更と環境の読み取り方」についての指導方法を考え始めた。その指導は、単なる運転技術ではなく、周囲の視線という環境ノイズから、必要な情報だけを選び出す訓練になるだろうと、彼は確信していた。
彼は、智絵の才能の光が、完全に世に出る瞬間を見たいと強く願っていた。それは、彼の研究者としての好奇心と、教育者としての責任感が融合した、極めて個人的な衝動だった。
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