第4話 同乗

 冴島先生との約束を控えた前夜。


 智絵は、アパートの狭いクローゼットの前に立ち尽くしていた。並んだ服は、視線を拒むために選び続けた灰色の防壁だった。生成りのカーディガン、くすんだグレーのシャツ、ゆったりとしたパンツ――安全で、無難で、誰の視線も引かないための選択。

(でも、明日は……)


 鏡の前に立ち、カーディガンをそっと肩から外す。シャツの胸元がわずかに張って見えた瞬間、視線を逸らす。

(やっぱり、無理……)


 心の奥で呟いたその声を、別の記憶が押し返す。隆志の言葉――「あなたは頭の良い方だ」。その一言だけは、今も彼女の中で静かな灯火のように揺れていた。

(先生は、私の知性を見てくれた。なら、私は……この見苦しい自分を隠すのではなく、知性に見合った自分として、向き合いたい)


 智絵は、クローゼットの奥にしまっていた淡い青のシャツを取り出す。胸元にタックが入り、少しだけ形を描く。でも、派手ではない。地味すぎもしない。

(これなら……)


 その上に、薄手の生成り色のリネンジャケットを羽織った。ボタンは留めず、直線的なラインで身体の曲線をやわらかく隠す。『おしゃれ』と『隠蔽』の境界線に立つような服装だった。パンツは、いつもよりわずかに細身。足元には運転を考えて歩きやすいローファーを選ぶ。


鏡の前で髪を撫でる。いつもは固く結んでいた髪を、今日は下ろしてみた。顔の輪郭が、ほんの少しだけ柔らかく見える。

(怖い。でも、逃げたくない)


 服を選ぶだけで、こんなにも心が揺れる。体は怯えている。このコンプレックスの源を、あの人に晒すのが恐ろしい。けれど、それは――智絵が初めて「冴島先生に、知的な対等さをもって向き合いたい」と願い、自分を受け入れ始めている証だった。


*************


 そして、約束の日。

 智絵の心臓は、早鐘のように打ち続けていた。ハスラーのエンジン音は耳に入らない。ハンドルを握る指先に意識を集中させながら、冴島隆志が指定した道の駅へと向かう。


 服装は、昨日選んだ淡い青のシャツと細身のパンツ。鏡の前で何度も確認した姿だ。けれど今、その服が車窓に流れる風景の中で、場違いなほど浮いているように感じられる。

(先生は、どんな顔で待っているだろう)


 信号待ちの間、バックミラーに映る自分の顔が、わずかに強張っていた。それでも――今日は逃げない。そう決めたのは、他ならぬ自分自身だった。

道の駅「赤榛の郷」は、朝の光に包まれていた。直売所の軒先には採れたての野菜が並び、地元の人々がゆったりと買い物をしている。智絵はハスラーを端の方に停め、深呼吸を繰り返した。


 LINEを送ると、程なくして冴島隆志が歩いてくる姿が見えた。いつものキャップをかぶり、ゆったりとした足取り。それなのに、講義の壇上で見せる威厳とは違う、穏やかで凛とした空気をまとっていた。


「おはようございます。道は混んでいませんでしたか?」

「おはようございます。いえ、大丈夫でした。先生こそ、早くから」

「いやいや、私は近所なんで歩いて来たのですよ。では、失礼してよろしいですか」

「あ、はい。今日はよろしくお願いします」


 隆志が乗り込んだ瞬間、ふわりと漂う香りが、智絵の記憶を静かに揺らした。それは、彼という存在を象徴する微かな印だった。ハスラーのエンジンが静かに唸りを上げる――。

「都筑さん、右手の力が強すぎますね。ハンドルが少し右に傾いています。それと、視線が近すぎる。もっと遠くを見てください。車は、視線の先に向かって走ります」


 智絵は息を呑んだ。自分では気づいていなかった癖を、彼は一瞬で見抜いていた。

「あと、ブレーキのタイミングが遅い。周囲の状況を予測して、早めに減速する癖をつけましょう。だから、さっき交差点でふくれたんです」

「……はい」


 声は小さかったが、確かに返事をした。


 隆志の分析は、責める調子ではなく、淡々と事実を指摘するものだった。その冷静さが、智絵の心を少しずつ落ち着かせていく。


「ブレーキが遅く、ハンドルを切るのが遅いのは、おそらく運転姿勢と、必要以上に硬くなっているせいです。少しリラックスしてみませんか?」」


 智絵は焦った。一人で運転している時より、遥かに姿勢が悪く、硬直していることは自覚していた。だが、リラックスするということは、この体を彼の前に晒すことになる。背筋を伸ばせば、胸元が強調される。それが怖かった。助手席にいるのは、憧れの人。そんな人に、自分の「普通ではない身体」を見られるのが、何よりも恥ずかしかった。


(でも……先生は、私の運転を見に来てくれた。私がお願いしたんだ)


 意を決して、智絵は少しだけ背筋を伸ばした。肩の力を抜こうとするが、うまくいかない。ハンドルを握る手は、まだ硬いままだった――。


 隆志は、彼女の動きを横目で追いながら、ふと気づいた。

(あのカーディガン……今日は着ていない。代わりに、少しだけ形の出るシャツ。なるほど)


 彼は、何かを悟ったように、言葉を選びながら口を開いた。


「都筑さん。運転は、技術だけじゃありません。姿勢や視線、そして“心の状態”までが影響します。あなたが今、硬くなっているのは、私が隣で見ているからですよね」


 智絵は、ハンドルを握ったまま、黙って頷いた。


「でも、私はあなたを評価するためにここにいるのではありません。あなたが“前に進もうとしている”こと、それがとても大切です。だから、少しだけ肩の力を抜いてみましょう。見られることを怖がらなくていい。私は、あなたの“運転”を見ています」


 その言葉に、智絵の胸がじんと熱くなった。

(先生は、私の身体じゃなく、私の“能力”と“意志”を見てくれている)


 長年、知的な自己を身体のコンプレックスが覆い隠してきた。けれど、この人は今、その呪縛を解こうとしてくれている。


 智絵は深呼吸をして、今度こそ自然な姿勢を取った。視線を遠くに向ける。ハンドルの握り方を変える。車は、少しだけ滑らかに走り出した。

「そう、それでいいです。ハンドルの握り方も、柔らかくなりましたね」


 隆志の声は、分析的でありながら、どこか優しさを含んでいた。


 智絵はアクセルを踏みながら、視線を遠くへ伸ばす。道路の先にあるカーブ、その先で揺れる木々。今まで見えていなかった風景が、少しずつ視界に入ってくる。


「都筑さん、今のブレーキは良かったですよ。減速のタイミングが自然でした」

「……本当ですか?」

「ええ。あなたは、私が思っている以上に順応力があります。少しずつ、身体が“運転の流れ”を覚えてきている」


 智絵は、思わず笑みをこぼした。

(先生に褒められた……先生の隣で、もっと前に進んでみたい))


 その瞬間、彼女の中で何かがほどけた。コンプレックスに縛られていた身体が、少しだけ自由になった気がした。


 隆志は助手席で静かに彼女の運転を見守りながら、内心で思っていた。

(このひとは、もっと伸びる。おそらくこれは運転に限ったことじゃない)


 そして、自分がその変化を見届けたいと思っていることに気づいた。


 車は、赤榛山の麓をゆっくりと走っていた。陽の光が木々の間から差し込み、車内に柔らかな影を落としていた――。

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