第18話 夜

 階下に降りるとリビングの灯りは落ちていて、食卓にお母さんの姿が見えた。

 ドアからのぞき込むと、学校から持ち帰った学級通信とテストの答案を見ていたようだ。


「お母さん、紅茶ごちそうさまでした。おいしかった」


 テーブルの横を抜け、キッチンの流しへと向かう。


「練習頑張っていたね。テニスでも楽器でもいいから、なんでも本気で一生懸命取り組んでごらん」


「うん。楽器も好きだし、楽しいよ。テニスはしばらく休むけど、高等部に行ったらまたやるかもしれないから、時々どこかで練習しておくつもり」


「凜の好きなようにしたらいいよ。悔いのないようにね。カップは、そこに置いておいてくれていいからね」


「ううん。このまま洗っちゃうね」


「そう? ありがとう」

 

 カップを洗いながら、会話を続ける。


「今日さ、先生からマレットを借りてきたんだけど、あ、グロッケンのバチのことね。本気で頑張りたいので、家での練習用にマレットとドラムのスティックを買っていい?」


「まだ値段がわからないけど、お小遣いで買える範囲だと思うんだ。さすがにドラムとかの楽器そのものは買えないけど」


「もちろん、いいわよ。学校で必要な物は、お小遣いじゃなくて親の役目だからね」


 ありがたいけど。


「学校では、部の備品を使えるの。買いたいのは、家での練習用なんだ」


「おなじことよ」


 お母さんは、そんなことと笑う。


 そうだろうか。


 テニスのラケットや定期的にしかも他の部員より短い間隔でガットにグリップテープの交換。

 自主練習用のボールだったりユニフォームに大会費用。


 散々出してもらったのに、結局無駄にしてしまった。

 今度は楽器の演奏がしたい、なんてあまりにも虫が良すぎるのではないだろうか。


「凜。あなたが何を気にしているのか何となくわかるけど、気にせずやりたいことをやりなさい。あなたが一生懸命取り組んでいる限り、私たちはそれが何であっても応援するから」


 お母さんの言葉に、胸の奥でぎゅっと固まっていた結び目が、ふわりと解けた気がした。

 鼻の奥がツンとするのを誤魔化すように、私は大げさに、何度も頷いてみせた。


「うん……。ありがとう。お願いします」


 洗い終わったカップを、水切りのため食洗機の網に伏せ、お母さんの向かい側に座る。


「今、ちょうどテストを見てたんだけど、頑張ってるわね。数学とか理科とかお父さんに質問があるところは、印を付けて置いておいてね。帰ってきたら見ると思うから」


「はーい」


 それはそうと、とお母さんは話を続ける。


「そろそろ、あやちゃんのこと送っていかないと。梓さんたちも帰ってる頃じゃない?」


「うん。そうなんだけど、綾音、練習してたら寝ちゃってるんだよね。なんかおばさんたちが今日は泊まりらしいんだけど、起こさないでこのまま寝せてあげられないかな」


 私の提案にお母さんは眉を寄せ、少しの間考える。


「うーん。どうかしら。うちは全然構わないんだけど、梓さんたちが心配するんじゃないかな。小学生の頃みたいに、約束してあっての年中行事のようなお泊まり会じゃないでしょ?」


「自分たちの留守中に、急に『泊まるから帰宅しない』ってなったら、友達の家でも心配だと思うのよ」


「そっかー」


「私は、お母さんたちがいなくてこの家に一人で寝るとしたら、寂しいし怖いんだよね。昼間なら全然オーケーだし、夜中にでも帰ってくるとわかっていれば、一人でも平気なんだけど。朝まで一人というのは凄く怖い。たぶん、照明を全部点けて、音楽かテレビも点けて寝ると思う」


「そうなの? 私たちは違うけど、凜にとってはここ、生まれたときからずっと住んでいる家でしょ? それでも怖いの?」


「うん。私はね。綾音は慣れているのかもしれないけれど」


 またしばらく考えて、お母さんが口を開く。


「梓さんに打診だけしてみるね。忙しいかもしれないから、チャットだけ送っておこうかな。ある程度待っても応答がなければ、あやちゃんを起こして、お母さんが送ってくるからね」


「うん。ありがとう」

 

 メッセージを送ると、すぐに私のスマホではなく、お母さんの電話が鳴った。


「詳しいことは、大人同士で話すわね」


 お母さんはそう言ってリビングの隅へ移動し、通話を始めた。

 背中しか見えないので何を話しているのかはわからないけれど、時折漏れる笑い声から、深刻な雰囲気ではないことだけは伝わってくる。


 そんなお母さんの後ろ姿をぼんやり眺めていると、おもむろに振り返り、右手で顔の横にオーケーサインを出して振ってくる。


 よかった。

 電話を続けるお母さんに『あ・り・が・と・う』と口まねだけで伝える。


 リビングを出るときに振り返ると、お母さんが笑顔で手を振ってくれていた。

 私も手を振り返して、温かい気持ちで部屋へと向かう。

 

 さて、どうしようか。

 パジャマは私のを出して、タオルとお客様用の歯ブラシ。

 畳んだパジャマの上に一式を乗せて、サイドテーブルに。

 

 あとは手紙か。


『おはよう、綾音。今日はこのままお泊まりしてね。パジャマはよければこれをどうぞ。すぐ隣だし、必要な物があれば取りに戻ってもいいよ。おばさんには連絡済みなので安心して。シャワーに行くときはこのタオルを使ってね。おやすみ。また明日。』

 

 こんな感じで大丈夫かな。

 手紙をパジャマの上に乗せ、歯ブラシを重し代わりにする。


 タオルケットの中ですやすや眠る綾音を眺める。


 なるほど。昨夜は私がこんな感じだったのね。

 今日の綾音はさすがに制服じゃ無いけど。


 靴下だけは脱がせてあげた方がいいのかな?

 ほんの少し考えてから、ベッドの足下に回って靴下に手を掛ける。


 ベージュの靴下の側面に、アザラシと白クマのキャラがハグしている、愛らしいイラストが描かれている。なにこれ可愛い。


 綾音を起こさないように、そっと引き下ろし、左右の靴下をそっと脱がせる。


 これは、どうしようかな。

 畳んで持ち帰れるようにすべきなのか、洗濯にまわしていいものか。


 ……まあ、洗っちゃおう。


 乾いてから返せばいいし、最悪乾かなくても隣だし、明日も部活で会うんだから。


 靴下を手に階段へ向かう。

 さあ、やっとシャワーだ。


 明日からは帰宅したら真っ先に浴びよう。

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