第13話 新しい日常
「昨日もそうだったし、今日も本当にありがとう」
濃紺の空にふわりと浮かぶ月が、見慣れた街並みを柔らかく照らす。
窓から暖かい明かりを漏らし、家人の帰宅を今か今かと待ちわびる家々。
その屋根が月明かりを浴びて、静かに輝いていた。
車の行き交う大通りの喧噪を離れ、そうした家々に挟まれた、歩道のない狭い路地をてくてくと進む。
いつもの角を曲がれば、我が家はもう目の前だ。
自宅の生け垣の前でどちらともなく立ち止まり向かい合う。
月明かりを独り占めしている家々の影が落ちる夜の底で、そこだけが光の小島のように浮かび上がっていた。
街路灯の円錐状に切り取られた灯りの中に二人の制服が浮かび上がる。
「そんなこと、気にしなくていいよ。実際たいしたことしてないし」
そんな、綾音らしい言葉が返ってくる。
綾音は知らないのだ。
私がどれだけ助けられて、どれだけ感謝しているのか。
「綾音が困ったときも必ず助けるから、いつでも声かけてよね」
「りんちゃんには、もういつも助けてもらってるよ」
「そんなことないと思うけど」
「そうなんだよ」
本当にそうだったらいいんだけど。
「久しぶりにドラムを叩けて楽しかったよ。また明日も金管バンドにちゃんと行くから」
「うん。また一緒に頑張ろうね」
「じゃあ、また明日」
「……ん? えーと。またね、りんちゃん」
歯切れの悪い綾音に内心首をかしげながら玄関へ進み振り返る。
お隣の家に進み始めた綾音と目を合わせ、手を振り合ってから玄関を開ける。
あの微妙な返事は何だろう。
明日は金管を休むつもりなのだろうか。
あとでチャットしてみよう。
「お母さん、ただいま。疲れた~」
玄関でローファーを脱いで揃え、一度カバンを掛ける。
ようやく身軽になった体でふわふわとキッチンに進むと料理中のお母さんの後ろ姿が見える。
「お帰りなさい。凜。学校、どうだったの?」
「夕飯、まだだからシャワー浴びて来ちゃったら?」
「お母さん、今日はテニスじゃないから汗かいてないし、ご飯の後で大丈夫だよ」
昨日もお母さんを待たせちゃったし、せっかく作ってくれた料理をできたてでいただいた方がいいと思う。
「あ、そっか。凜はいつも帰るなりシャワーシャワー言ってたから。つい、ね」
そういえば、それが私の日常だった。
でも、それは昨日で終わり。
明日からはどんな生活が待っているんだろう。
「それより、お母さん聞いてよ」
「綾音さ、顧問の先生に私のこと何て言ってたと思う? ひどいんだよ」
「はいはい。あとでちゃんと聞くから、まずは着替えをしておいで」
学校でのことを話したかったのに、キッチンを追い出されてしまった。
仕方がないので、お母さんの指示に従って玄関で鞄を回収して部屋に上がる。
昨日もこの階段を昇ったはずなのに、遙か昔のように感じる。
あの時は、もう終わりだと思っていた。
人生はここで終わったのだと言われても、信じてしまうほどの絶望。虚無感しかなかった。
私の全てを失ってしまい、もう手の中には何も残っていない。
それどころか、これから何かを手に入れることも決して無いだろう。
そう思えた。
明日が来るのかもわからない。
見える物全てが真っ黒に染まったような、重く苦しい時間だった。
あの騒々しい幼なじみが、怒濤のような今日という一日を携えて現れるまでは。
「楽しかった」
金管バンドで、竹内先生や長瀬部長、多くの部員との会話が。演奏が。
「うれしかった」
幼なじみの度重なる気遣いが。
一緒に帰ってきた穏やかな時間が。
きっと、明日もいい一日になる。
いや、いい一日にするのだ。必ず。
それには、まず……グロッケンの特訓かな?
あんな状態では、早々に追い出されてしまう。
この新しい日常を維持するために練習あるのみ!
決意と共に、私は握りこぶしを掲げて仁王立ちする。
その瞬間、私のおへそのあたりで、グゥ、と間抜けな音が響いた。
誰も見ていないのに、顔が紅く染まっていくのがわかる。
「まずは、練習じゃなくて着替えだった。ご飯の手伝いしないと」
姿見の前でいつも通りの制服姿を見ながら、ジャンパースカートをパサリと脱ぐ。おや?と脱いだばかりのスカートを持ち上げ、そういえばと顔を近づけてまじまじと見る。
「昨日のシワ、いつの間にか取ってくれてたのね。お母さん、ありがとう」
見えないところで、私はこんなにも支えられていたんだ。
そんな当たり前のことに、改めて気づく。
お父さんも仕事してくれてるんだよね。
帰りが遅すぎて私には見えないけど。
綾音も退部の件、どこで聞いてきたんだろう。
考えてみると早すぎる。
「あ、恵美ちゃんか」
この短時間で伝わったとすると他にはいないね。
恵美ちゃんにもちゃんとお礼と謝罪しておかなきゃ。
さあ、もう制服でベッドには飛び込まない。
ちゃんと学習したのだから。
ネクタイを緩めると、今日一日の緊張がふわりと解けていく気がした。
ジャンパースカートをハンガーに吊るし、脱いだブラウスと靴下を丸める。
そして、素足でペタペタと階段を下り、汗と涙と、ほんの少しの希望が染み込んだそれらを、脱衣所の洗濯機に放り込んだ。
「いつも、洗濯ありがとう」
日頃の感謝の気持ちを込めて洗濯機に初めてのお参りをし、二階に戻ろうとしたところで、リビングから出てきたお母さんと鉢合わせる。
「ちょっと、凜! なんて格好で歩き回ってるの。服、着てらっしゃい!」
「もう、小学生じゃないのよ!」
「はーい」
見つかってしまった。涼しいのに。
仕方ない。部屋着を着てくるか。
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